プロローグ
初投稿です!
忌憚なき意見をよろしくおねがいします!
俺の神様は、いつだって皿の上にいた。
寸分の狂いもなく計算され尽くしたソースの粘度。
完璧な火入れによって、肉の断面に浮かぶ宝石のような肉汁の輝き。
そして、舌の上で花開く風味の爆発——。
厨房という名の神殿で、俺は唯一の司祭だった。
フライパンの嘶きは信徒の賛美歌、包丁がまな板を叩くリズムは神聖な儀式の鼓動。
その全てを支配し、一皿という奇跡を創造する。
その全能感だけが、俺を生かしていた。
始まりは、神殿に灯った、ほんの些細な異物だった。
鏡の奥で、俺の舌の縁に、純白のタイルに付いた黒点のように、小さな白い染みが浮いていた。
「疲れているだけか」
そう結論づけ、見ないふりをした。
俺の世界は完璧でなければならない。こんな些細な不協和音は、存在しないのと同じだった。
しかし、少しずつソレは存在を主張し始めた。
熱いエスプレッソを流し込むたび、じくりと神経を灼くような鋭い痛みが走る。
俺の最も神聖な道具である「舌」に、雑音が混じり始めた瞬間だった。
「天海くんさぁ、一日18時間も厨房にいるんだって? ちょっとは休んだらどうだい」
白衣の男は、まるで理解不能な生き物でも見るかのように言った。
彼の机の上には、幸せそうに笑う家族の写真。巨大な魚を誇らしげに掲げるその男は、俺が捨ててきた全ての祝福を手にしているように見えた。
——価値観が違う。
いや、違う。見えている世界の解像度が、そもそも違うのだ。
彼らに見える、ぬるま湯のような幸福の輪郭が、俺にはひどくぼやけて見えた。
俺が見ているのは、常人が一生かかってもたどり着けない、美食という名の神の御顔だけだ。
俺の城、《テラ・ディヴィーナ》。
イタリア語で【神聖な大地】を意味するその名を冠した店は、開店四年目にして、美食家たちが巡礼に訪れる本物の聖地と化していた。
一つ星、二つ星と、俺は階段を駆け上がった。
そしてこの夏、史上最年少での三つ星獲得という最後の戴冠が、すぐそこまで迫っていた。
休む暇などない。
皿の上で完璧な調和を創り出す、あの神懸かった瞬間のためならば、魂すら燃えカスになっても構わなかった。
そんな運命の歯車が軋んだのは、溶けるような暑さの日のことだ。
銀座の老舗懐石で、店のスポンサーに舌の痛みを何気なく話した。
俺としては世間話のつもりだったが、彼の顔色はみるみる変わった。
「大地くん、それはただごとじゃない。最高の医者を紹介する。すぐに診てもらいなさい」
それが、奈落へと続く扉を開けてしまった。
紹介された大病院の、やけに静かな診察室。
外界から情報がすべて遮断されたかのように、あれほど生命を叫んでいた蝉の声が、まるで分厚いガラスの向こう側から聞こえる。
「——生存率は、30パーセント。舌の大部分を切除することになります」
医者は、感情のない声で事実を羅列する。
鼻をつく消毒液の匂い。
白く、どこまでも真っ白な、無機質な部屋。
大画面に映る、自らの内側を暴くグロテスクなモノクロな写真。
まるで脚本の破綻した三文芝居を眺めているように、俺の感情だけが現実から滑り落ちていく。
「ステージⅢの舌癌です。——そして、このままだと天海さんの味覚は、完全に失われます」
その一言が、俺の魂のど真ん中を撃ち抜いた。
それは、シェフにとって死刑宣告以上の、存在そのものの抹消を意味したからだ。
『今は、治療に専念してくれ』
電話越しのスポンサーの声は、どこまでも冷静だった。
彼の判断は、俺の舌がまだ神の領域にあった頃のように、迅速かつ的確だった。
店の規模は縮小され、世間への公表が決まる。
三つ星を獲るために創られたこの城では、味の曇りは一切として許されない。
王の権威が失墜した以上、城門を閉ざすのは当然の帰結だった。
『何よりも、僕は君の料理の、一番のファンなんだから』
その言葉が、彼から与えられた最後の優しさだったと知るのに、時間はかからなかった。
“【神の舌】消失!”
“《テラ・ディヴィーナ》シェフ天海大地、舌癌で三つ星は絶望的か”
ニュースが報じられた直後、世間の反応は意外なほど温かかった。
「天才の帰りを待つ」「必ず乗り越えてほしい」といった激励の声が、SNSのタイムラインを埋め尽くした。
一瞬、ほんの一瞬だけ、俺は柄にもなく感動してしまった。
俺の料理は、ちゃんと届いていたじゃないか、と。
だが、それは嵐の前の静けさに過ぎなかった。
本当の地獄は、一本の動画から始まった。
“元スタッフが暴露! 天才シェフ・天海大地の裏の顔”
スマホの画面の中で、かつて俺の厨房で働いていたスタッフが、堰を切ったように語っていた。
『あの人の振る舞いは、暴君そのものでした』
『客席は天国でも、厨房は地獄でしたね。罵声と、時には暴力も……始発で来て終電もない。最低賃金で、夢を食い物にされて……僕のように、料理人の道を諦めた人間は、数えきれません』
毒々しいテロップで脚色された地獄巡りの映像は、瞬く間にネットの海を駆け巡った。
それは、俺が皿の上で築き上げてきた神殿を焼き尽くす、復讐の業火だった。
手のひらを返したように、世間の声は非難の嵐に変わる。
事実に紛れ、悪意という名の添加物がまぶされた物語が、次々と生まれる。
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アカウント名: @gourmet_OL_yuki
テラ・ディヴィーナの天海シェフの件、やっぱりなって感じ。
去年、彼氏との記念日ディナーで行ったんだけど、隣の席が有名な食通?かインフルエンサーみたいな人たちで、そっちには天海シェフ自ら挨拶に来て、ワインの説明とかも超丁寧なの。
私たちのテーブルには完全にスルー(笑)
料理は確かに美味しいけど、客をあからさまに選んでる感じがして、すごく嫌な気分になったの覚えてる。
病気は可哀想だけど、人としての振る舞いは…。もう行くことはないかな。
#テラディヴィーナ #天海大地
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スレッドタイトル: 【悲報】天海大地シェフ、舌癌で引退か
78. 名無しの美食家さん
まあ、自業自得だろ。
うちの親父が野菜農家やってて、天海シェフが独立する前に一度だけ野菜を売り込みに行ったことがあるらしい。
親父が「娘みたいに育てたトマトです」って言って差し出したら、天海シェフは一口かじっただけで、フッと鼻で笑ってこう言ったんだと。
「あんたみたいな生産者に育てられて、親を選べない野菜たちが可哀想だ」ってな。
腕はあっても、心がない料理人に神様は微笑まんよ。
87. れもんのいれもんさん
うわー…やっぱり厨房ってこういう世界なんだな。
昔から「天海シェフは一切妥協しない。一人で店を回してる日もある」みたいな伝説ばっかり持ち上げられてたけど、それって結局、周りのスタッフを人間扱いしてなかっただけじゃん。
料理が美味けりゃ何してもいいってわけじゃないでしょ。
病気になった途端、手のひら返されるのも分かるわ。
結局、彼が愛してたのは料理じゃなくて、「天才料理人やってる俺」だったんだろね。お疲れ様でした。
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全て、身に覚えがあった。
俺は、皿の上でしか自分を語れない。厨房は戦場だ。
最高のクオリティのためなら、誰かが壊れることすら厭わなかった。
悔しければ、憎ければ、俺を皿の上で殺し返してみろ。
結果が、この世界の唯一絶対の存在証明なのだから。
「おい、このスープは何だ! 味がしないぞっ!」
その日、熱気と緊張感で満ちていた厨房は、一瞬で凍りついた。
静寂。突き刺さる、侮蔑と、憐憫と、そしてほんの少しの歓喜が混じった視線。
俺は、反射的に怒鳴り返そうとした。
だが、その視線の中に、いつも俺を恐怖に怯えた目で見つめていた若い見習いの姿を見つけた。
彼は、震える手で、小さな塩の器を俺の前にそっと差し出した。
その瞳には、恐怖ではなく、不器用な、そして痛々しいほどの“同情”の色が浮かんでいた。
その瞬間、俺は悟ってしまった。
俺の「神の舌」が、もうただの肉塊になり果てたのだと。
そして、俺が今まで「兵士」だと思っていた彼らが、ただの「人間」だったのだと。
「……いや、いい。塩は、もういい……すまない」
絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く、惨めだった。
その日を境に、神殿から信徒が消えていった。
毎日怒鳴られながらも俺の技術だけを信じ、地獄の業火に耐えていた見習いたちも。
最高の食材を卸してくれていた業者も。
毎年、結婚記念日に必ず白い薔薇を抱えてやってきた、あの夫婦の予約も、今年は入らなかった。
結果が全て。
その言葉は、巨大なブーメランとなり、俺の喉元を食い破った。
一人になった厨房で、俺は初めて、客のいないダイニングを眺めた。
いつもは美しい食器と、客たちの熱気、そして幸福な喧騒に満ちていたはずの空間。
今はただ、埃をかぶったテーブルと椅子が、墓標のように並んでいるだけだった。
静かだった。
俺が追い求めていた完璧な調和とは程遠い、ただ虚無な静寂が、そこにはあった。
(……結果が、全て、か)
フッと、乾いた笑いが漏れた。
誰に聞かせるでもない、自分自身への嘲笑だ。
(馬鹿げてる。本当に、愚かな暴君だったな、俺は)
最高のクオリティのためなら、誰かが壊れることすら厭わなかった。
だが、その料理を、ただ、誰かと笑いながら食べたかっただけの人間を、この手で、何人もこの場所から追い出してきた。
(何が『神の舌』だ。何が『三つ星』だ……)
俺は、一体何と戦っていた?
何を手に入れたくて、あんなにも必死だったんだ?
皿の上で神を創造し、世界を支配した気になっていた。
だが、その神殿には、祈りを捧げる信徒は、もう誰もいない。
結果とは、何だったのだろう。
この、墓場のように静まり返った、空っぽの客席か。
俺一人しかいない、冷え切った厨房か。
それとも——。
味がしない、ただの肉塊になり果てた、この舌か。
それが、俺の追い求めた“結果”の、全てだった。
『残念ながら、癌は予想以上に進行しています』
『レストランは閉店しよう』
医者とスポンサーからの言葉は、もはや何の感情も揺さぶらなかった。
今にして思う。俺は、王の器ではなかった。
ただ純粋に、食材と戯れていたかった。
仲間も、金も、名誉も、しがらみも捨てて、ただ料理のことだけを考え、皿の上の神とだけ対話していたかった。
あれだけ世界を祝福していた蝉の声は、もう聞こえない。
季節は、皮肉にも、食欲の秋を迎えていた。
料理人として、食を生きがいとする人間として、色彩を失ったモノクロの世界で生きながらえることに、もはや興味はなかった。
できることなら——。
その祈りが届くことはもうないし、真摯に祈れるほど優秀な神の信仰者でないけれど。
最後にもう一度、願いが叶うなら。
俺が作った料理を「美味しい」と言ってくれる誰かと、ただ、食卓を囲みたかった。
そんな当たり前なことにさえ、気づくのが遅すぎたのだ。
——それからしばらくして。
天海大地の訃報が、世間を小さく、そして少しだけ騒がせた。