29 転機2
自分とあの子は、はたして何から逃げていたのだろう。
「駆け落ちだった……とか。そんなわけないか」
相手は子どもだ。その線はないはず。
けれど、きっとあの子は泣いただろう。
瀧の――瀧耀のもとへ頻繁に訪れてきて、「一緒にいたい」「ずっといたい」などと言っていたのだから、どんな意味であれ好意は抱いてくれていたのは間違いない。だから瀧が目の前で死んだのは、子どものやわらかな心に傷を負わせてしまったのではないか。
「ああー……だからあの子に、転生したオレを合わせたかった、とか……そういう?」
たぶん、今の瀧の見た目は狐の時と全然違うのだろう。名残があるとわかるなら、それが前世の瀧耀が持っていた狐神の特徴――耳と尾だ。
普通の狐神の尾はひとつに決まっているから、九尾である母の血を引いていた自分は、もしかしたらその特徴で本人だとわかってくれるかもしれない。
それにしたって、耳と尻尾を自在に出せるようにならなければ話にならないと思うが。
「……逆に言えば、耳と尾を自由に出せればいい、ってことだよな……そのための方法……」
プールの時は、溺れそうになった時に発現したのだったか。
「溺れそう……死にそうになればいいってことか……?」
どうやって、と考え込みかけたところで、部屋の中がわずかに明るいことに気付く。分厚いカーテンは閉めていなかったから、月明かりが窓から差し込んでいるらしい。
今日は満月だった。どうりで明るいわけだ。
「……そっか、外か」
ここはマンションの八階。八階なら、充分に命の危険がある高さだ。通常、間違いなく死ぬ。
「試してみよう」
馬鹿な考えを実行しようとしたのは、どうしてだろう。
ベランダへの大きな窓を開ける。空気は日中よりずっとひんやりしていて、風も心地よい。
念のため周囲を確認してみるが、周囲に人はいないようだ。
柵を乗り越えると、深い呼吸をひとつ。それから目を閉じて宙へ体を投げ出す。
「…………」
失敗した場合は本当に死ぬんだろう。ちらりと脳裏をよぎった顔は梓玥だった。
落ちきるまでの数秒、瀧の体が燃えるように熱くなる。
「……っ……!」
覚悟した衝撃は来ない。
体が熱い。
「瀧ッ!」
声と同時、両腕を掴まれた。ハッとして目を開くと、視界に映ったのは地面ではなく梓玥だ。普段冷静沈着で泰然自若、表情があまり動かない男なのに、今は狼狽と怒りと言い表せない感情を混ぜた表情をしている。
掴まれた腕が痛い。
「一体、何を」
迫力と圧に押されながら、小さくなった声を返す。
「あの……オレ、自力で狐の姿になりたいって思って……」
「……ひとまず部屋へ。話はそこで」
どうも何かの選択肢を間違えたことに、遅まきながら気が付いた。ルームライトの明かりの下で見ても、梓玥の顔は蒼白だったからだ。
「それで」
広いリビングのソファに隣同士で腰掛ける。男ふたりでも充分に広いソファ。なのに距離は近い。膝が触れそうなほどだ。今はそれを気にしている場合ではないが。
「その……また、夢を見て。オレ……前世のオレが、死ぬところの」
「…………」
「一緒にいたのはいつもの子どもの竜だったんだけど。起きた時、死んだ感覚がすごい生々しくて……オレが死んだ後、あの子は泣いたんだろうなって。それで、梓玥さんはあの子の関係者かもしれないって思って……」
もしかしたら従者や側仕え、腹心の部下、そういうものかもしれない。それなら、自分の主に狐神から転生した瀧を会わせたいと思っても、不思議はないだろう。
そう思ったのだと伝える。
「オレと暮らしてるのも、大陸の竜国へ渡るための準備とか、そういうのかなって思ったら、まぁ色々辻褄が合うし……オレも、前世で慕ってくれてたあのかわいい子を泣かしたままなのは心が痛むし……でもきっと、前世のオレと今のオレは見た目が違うから。耳や尾を出せるようにしておかないと、あの子にわからないだろうって……思ったんだ」
何も自殺したくて飛び降りたわけではないし、考えなしだったわけでもない。けれど言葉にして説明をすれば、馬鹿なことをしたのだと思える。
(怒られて、当然だったな……)
項垂れた瀧に、梓玥が口を開く。
「……ひとつ、誤解がある」
「えっ?」




