10 怪異と出会いと9
その深更。
瀧は、唐突に目を覚ました。直前まで夢を見ていたのは覚えている。
「……はぁ……」
たまに見る夢の類だ。
夢の中で瀧は狐神で、森の中にひとりで住んでいる。家の周囲には結界が張り巡らされているから客が訪れることもないし普段はあまり外にも出ない。家の中でぼんやりと過ごしていることが多いのだが、ある日、部屋の丸窓から中を伺う者が現れた。子どもだ。
迷い込んだにしては、張り巡らされた結界をどう越えてきたのか疑問が残る。けれど夢の中の自分は世界にとってあまり良い存在とは言い難いことを自分で理解していたから、子どもに「ここには近付かないように」と言い聞かせて帰した。
のに、子どもはまたやって来る。
夢の中の自分はそれを困ったと思う気持ちと同じくらい、嬉しいと思ってしまっていた。
(……寝付けないな……)
何度か寝返りを打って、諦めた。起き上がると、三人を起こさないようにベッドルームから抜け出し、広縁へと身を滑り込ませる。
(外に出られるんだっけ)
邸内をうろつく勇気はないが、庭に出て夜空を見たり眼下に広がる森を見る程度は許されるだろうか。気を紛らわせたい。そうすれば寝られるかもしれない。
置かれていた突っ掛けを引っ掛けて外に出る。
(風が気持ちいい……)
清涼な空気に風。外に出て上を見上げれば、星々が煌々と輝いている。月が見当たらないのは新月だからだろう。
「綺麗だなー……」
呟きが自然と漏れる。
しみじみするほど、今日一日で随分と色々事件があったものだ。
一番の事件は、高位神族(と思われる御方)の豪邸にいることだろうけれど。親に知られれば卒倒されるか長時間の説教を受けてしまいそうだ。できれば説教は避けたい。板間に正座させられるから、脚が痺れる。
「……ん?」
何かが視界の端をよぎった気がした。反射的にそちらを見る。眼下に映るのは黒い闇が広がるばかりで、何も見えない。けれどたしかに何かが視界の端に映った。
目を凝らすが、相手が遠いのかよくわからない。気のせいかと首を捻っている間にも、また何か飛んだ気がする。
「……近付いてきてる……?」
そんな馬鹿な、と思うが目が離せない。
観察してわかったのは、跳ねて来る『何か』は、ずいぶん大きいのではないかということ。明かりが月光しかないからハッキリとは言えないが、木々の頭を越えてもなお体がよくわかる。
「この屋敷に向かってきてる……? いやでも、入れないだろ」
高位神族の家なら、当たり前に厳重な結界が施されている。結界に登録された者か招かれた者でなければ内側には入れない。瀧たちは招かれたので入れた。
万全のセキュリティを知らない者はこの世界にいないと思うが、いずれにしても掴まって処分されるか、結界に焼かれるだろうが。
気になってなんとはなしに見ていると、飛び跳ねてこちらへ向かっているモノがどういうモノであるのか、見えてきたような気がした。
人型で、体はかなり大きい。木々より高く飛んでいる。鳥神族にしては羽根がないし空を飛んでいないから違うだろう。頭は角の取れた長方形、髪はなく、首も手足も指も細長い。目は星のように爛々と白く輝いている。
――妖魔鬼怪の類か、怪異か。
だとするならあまり見ていないほうがいい。
「……あっ」
目を逸らそうとした瞬間、それと目が合った。まんまるで顔の三分の一ほどもある大きなギョロ目、横に長い口がにたりと笑った、気がした。
「やば……!」
途端に一直線にこちらへ向かってくる。おそらく結界に阻まれるだろうとわかっていても、獲物を捉えた眼で真っ直ぐに見つめられるのは気持ちの良いものではない。
瀧をロックオンしてからの動きは速かった。数回跳んだだけで間近にやってくる。やはり図体は大きかった。ビルの四階ほどの上背があるだろうか。
瀧が思わず後ろに仰け反った瞬間だ。それは大きな壁にぶち当たったように、急に動きを止めた。そうして何故前へ進めないのかわからないというように、目の前の見えない何か――おそらく結界――を叩き始める。
「どうして……結界は」
壊れているわけでも死んでいるわけでもない。あの青年のような存在が寝起きしているのなら、それはもう強固な結界が張られているはずなのに、この屋敷を守るだけの用途しかない結界だけなのだろうか。
叩く音は聞こえない。だが、徐々に強い力で叩いていることは察せられる。破ろうとしている。見開かれた大きな瞳が血走り、瀧を捉えて離さない。
「……ッ」
ヤバい。
本能が警鐘を打ち鳴らす。
(本気でここまで来る気だ……!)
瀧の全身の毛が逆立つような感覚に襲われる。
陰陽師の家に生まれたが、陰陽師としての力はほとんどない。せいぜい式神の狐を操れる程度だ。まともに妖魔鬼怪と戦ったこともない。
その場から逃げられなかった時点で、魅入られたのは瀧のほうだったかもしれない。
にたりと不気味に笑んだ化物が、だらだらと涎を垂らしているのが見えた。完全に瀧を獲物として――食糧として見ている目。見られているだけなのに圧迫感がある。まったく不愉快だ。
「消えてくれ……!」
腕を顔の前で交差するのは化物の視線から逃れたかったから。漏れた言葉は懇願なのに命令のような、懇願のような響きになった。




