01 数年後のオレたち
「瀧。……瀧、起きて」
誰かの――聞き慣れた声で呼ばれ、体を軽く揺すられる。揺する手は優しい。
「……ん……」
もぞもぞと薄い綿毛布に潜り込もうとしたのは、まだ眠いからだ。けれど瀧を起こそうとする誰かは諦めずに「起きて」と瀧の起床を促す。声は甘さを含んで優しい。
「…………んん……」
カーテンを開けられたらしい。目蓋の裏が明るい。
(まだ寝てたいけど……)
やむを得ず体を起こす。目はほとんど閉じたままだ。
「おはよう、瀧」
「……おぁよ…………」
ふぁ、と欠伸が漏れるのは仕方がない。昨夜は遅くまで起きていたし、今は八時だ。
(オレたぶんロングスリーパーだから、最低八時間くらい寝たいんだけどな……)
普段はそれが許されているが、今日はそれが許されていない。仕事が入っているからだ。
起こしてくれた相手が、目許や頬を撫でてくる。大切なものに触れるような触れ方は、好きな触れ方。
「シャワー、浴びて。朝食は用意するから」
「ん……」
頷くと、ようやく薄い綿毛布から抜け出し、ぺたぺたと裸足で裸のまま浴室へ行く。熱いシャワーを頭から浴びれば、多少は頭がすっきりした。
浴室から出て髪を乾かし、一通りの身支度を整えてから、キッチンを回り込むようにダイニングへ行く。すっかり朝食の用意ができて瀧を待っていた。
コンソメスープ、目玉焼き、厚切りのハム、ベビーリーフのサラダ、ほうれん草とベーコンのバター炒め、じゃがいもとほうれん草と玉葱のキッシュ、こんがり焼けた三枚切りのトースト、オレンジジュース。ホテルのモーニングとして出しても遜色ないに違いない。
椅子に座ると、このモーニングプレートを作った目の前の男をまじまじと見つめる。料理は外食しない限り、毎食彼が作ってくれている。本来ならそんなことを一生しなくて済むのに、瀧の面倒は進んで見てくれる。
透き通り内側から輝くような滑らかな肌、切れ長の双眸、アイスブルーの瞳。通った鼻筋、薄いくちびる、膝ほどもある長い黒髪は、体の左前へ垂らされ、ゆるい三つ編みにされている。長い前髪は額の左右へ分かれていた。長い指、思ったより広い肩、厚めの体、力強い腕。
どこをとっても一流の芸術のようなのに、それらが組み合わさっても少しも美しさを損なわない。むしろ、美しさを掛け合わせているようにも感じられた。
それもこれも、彼がヒトではないからだろうか。
(朝から綺麗なものを見るのっていいな……幸せだ)
その幸せを朝食とともに噛み締めていく。
キッシュは最近の瀧の好物で、外のデリで見かけることがあれば買っていることを覚えてくれていたのだろう。しっかりとした味付けは好みで、どれだけでも食べられそうだ。
「今日は依頼人が来るんだろう?」
食後のコーヒーまで飲むと、梓玥が問いかけてくる。
「うん。大学の時の先輩で……覚えてる? 西山って」
「覚えてる」
賑やかだった、と一言のコメントに、瀧はソファを転げるほど笑う。
「そうそう! その西山先輩。何かに巻き込まれたっぽくて……オレのこと思い出して、相談したいって。十一時に来るって言ってたから、もうちょっとしたら下に行こうか」
瀧と梓玥が住んでいるのは、下町の雰囲気が残る街の、四階建てのビル。四階が書庫、三階が住居区画、二階が事務所で一階が喫茶店で、梓玥の持ち物だ。
(階段下りるだけで出勤完了するから、楽といえば楽なんだよな)
気が向けば一階の喫茶店で茶をしたり、食事をすることもある。この店のビーフシチューは絶品だから瀧は時々ここで食べていた。思い出すと食べたくなる。昼はビーフシチューにしようと決めた。
(西山さん、今度は何に巻き込まれたんだろ)
別に彼だけがトラブルメイカーだったわけではないが、彼がきっかけでトラブル——怪異との遭遇——に発展したことは何度かある。そういえば、今の梓玥との出会いも彼がきっかけだったと言えなくもない。
「懐かしいな……そういえば、オレが二年の年のゴールデンウィークだっけ、梓玥に遭ったの」
『会う』より『遭遇』だ。思えば初対面から梓玥に迷惑のかけ通しでここまで来ている。
「迷惑とは一度も思ったことがない」
「いつもそう言ってくれるけど。ありがとう」
「初対面で迷惑をかけたのは、私が先」
「ん? ……ああ……いや、あれは迷惑じゃない。サプライズみたいなもんだよ」
本当の初対面は、大学二年ではない。
もっと、ずっと昔だ。
「あー……なんか、懐かしいな」
色々思い出したよ。
梓玥に笑みかけると、コーヒーを飲み干した。
7月5日と6日は7・10・12・15・18・22時更新です