一話
少しづつ肌寒くなってきた長月の末。体が重たく感じるのはいつもより着飾っているせいか緊張のせいか、目的の部屋に案内されながら考える。手の震えを止めるためにゆっくりと深呼吸を一回、二回。目的の部屋の前につき、改めて背筋を伸ばす。
「失礼します。」
障子が開き部屋の中にいたのはがっしりとした体つきをした眼鏡の男性。
少し怖い、厳しそうな人。
それが私が初めて抱いた春一さんの印象だった。
いつも通りの朝、実家である仕立て屋の手伝いをするため朝の支度を終わらせ、さて店前の掃除をしようかと戸口へ近づくと隣の店から声が聞こえてきた。
「向かいの山中さん、娘さんがお嫁に行ったらしいじゃない」
この声は近くの団子屋の奥さんだろう。いつも隣の奥さんと立ち話をしている。
「あの子ももうそんな年になったのねぇあんなに小さかったのに」
「そりゃあもう十七だもの」
二人は笑いながらそんな世間話をしていた。
「みんなお嫁に行ってしまって少し寂しくなるわね」
「あ、でもあんたは隣にまだ紗穂ちゃんがいるじゃない」
自分の名前が出た瞬間、扉を引こうとした手が止まった。
「まぁそうだけど…あの子はほら、色々あったじゃない」
隣の奥さんは気まずそうに話している。そんな中外に出る勇気はなく、扉から手を離した。
紗穂が丁度十八になってすぐぐらいの頃。近所の人の紹介で一人の男性とお見合いをすることになった。初めて顔を合わせた時、その人はとてもにこやかで話やすい印象を持った。少し体が弱いと言っていたが年齢は丁度よく、親からの印象も良かったのでそのまま婚約をすることになった。
しかし、一緒に住み始めてからというもの、男の態度は一変した。男は加虐趣味であった。あのにこやかな印象は消え去り紗穂に対し毎日のように怒号を飛ばし暴力を振い、挙げ句の果てにはまるで人格を否定するような発言までするようになった。あの笑顔はただの仮面だったのだと気付いた時にはもう遅く、紗穂は痛みとともに深い絶望に陥った。体の痣が目立ってくると周りの家に見られると怪しまれると言われ外出の制限までされ始めた。ついに耐えられなくなった紗穂は隙を見て実家に助けを求め、紆余曲折を果てなんとか婚約破棄をすることができた。しかしその後も外に出ればあの男がいるかもしれないという恐怖から紗穂は部屋に引きこもるようになってしまった。
それから三年。今では一人で店番ができるまでに回復したがあの時のことを思い出すといまだに気持ちが不安定になってしまう。
「紗穂、大丈夫か?」
いつの間にか後ろにいたお父さんに声をかけられはっとした。
「大丈夫だよお父さん、まだちょっと眠いだけ」
「それならいいんだが…無理はするなよ」
両親はとても私を心配してくれている。私が急に戻ってきてしまっても私の顔を見るなり何も聞かず家に入れてくれた。私が部屋に引きこもってしまった時もずっと側にいてくれた。回復するまで、ずっと迷惑をかけてきた。両親のおかげで私はここまで生活できるようになったし、一人でお客さんと話すことも難しくなくなった。家にいるととても安心できるしあの頃の記憶を思い出すことも少ない。しかし、婚姻までしていなかったとはいえ戻ってきてしまった私は少なからず周りから冷ややかな目で見られる。気にすることはないと両親は慰めてくれるが、お店の評判にも関わることだからずっと迷惑をかけてしまっているのは間違いない。
静かになった店前を掃きながらもやはりさっきの会話が気になってしまう。私より年下の子でもお嫁に行っているし若いとはいえそろそろ相手を見つけなければこのまま機会を逃してしまうだろう。そもそもこんな私にそんな話が来るのか。しかしこれ以上両親に迷惑をかけたくはない。
(このままじゃだめだ。時間がない、どうすればいい?)
何かできないかと考えるがそもそも人の繋がりがほとんどない自分にとっては壁が大き過ぎると気付き紗穂は苦悩することしかできなかった。
が、それから数日後、紗穂のもとにいきなりお見合いの話が飛び込んできた。相手は軍人で父が良くしてもらっている常連の部下だという。歳は25でそろそろ相手を…ということでうちに声をかけたらしい。その常連客は紗穂のことをよく知っていたため無理して受けなくてもいい、と言っていたが紗穂にとってこれほどちょうど良い機会はなかった。
「その話、受けさせてください」
意を決して紗穂はお見合いの話を受け入れた。




