一、夢見る考古学者
照りつける日差しは徐々に体中の潤いを奪っていたが、それも長く続きそうにはなかった。西の空に生まれた積乱雲がモクモクと急成長をしながら、こちらへ向かって来ていたからだ。
「また、スコールが来るな•••」
早ければ二十分程で雷雨に見舞われるだろうと予想したフェリペは、そそくさと作業を中断し、後片付けを始めるより他になかった。
スペイン人考古学者である彼がメキシコ南東部に位置する熱帯雨林に来たのは、古代マヤ文明が誇る典型的都市、パレンケ遺跡の発掘調査をする為だったが、雨期に入ってからというもの、土の中を探る時間は随分と失われていた。
研究室に戻る準備を済ませ、車のエンジンを動かす頃には、辺りはもう土砂降りに襲われていた。舗装されていない道は一気に泥濘み、轍には既に水溜まりが出来ている。
「少し手間取っただけで、すぐこれだ!」
フェリペは苛立ち紛れにハンドルを叩いたが、それは不安の顕れでもあった。以前同じ状況で車がスタックした事があったからだ。
豪雨に打たれるフロントガラスからの視界は極めて悪く、最速でワイパーを稼働させてみたところでどうにも出来なかった。
タイヤが空回る度により一層緊張感を掻き立てられ、フェリペはなるべく窪みを避けて慎重に運転していた。が、じきに思わぬ事態に出くわした。
前方に白い物体が横たわっていたのだ。
「んっ!?」
フェリペが凝視すると、行く手を塞いでいる物は大きなセイバの枝だった。
「何てこった、こんな時に•••」
ずぶ濡れになるのを覚悟の上で車を降りて枝の前まで行き、フェリペは力いっぱいそれを持ち上げた。ところが、雨を含んだからか予想以上の重さだった枝は、完全に道の外に追いやられる事を許しはしなかった。
「参ったな。これ以上はとても動かせそうにない」
フェリペは多少困惑したが、幸いな事に車が通過できるだけのスペースは既に確保できていたので、枝を取り除くのはそこ迄にした。但し、そこを抜けるには一つだけ条件があった。今迄ずっと避けていた、水の溜まった轍の上を行かなければならないのだ。
(さあ〜て、どうしたものか••• この儘ずっと車の中で雨をやり過ごすのは時間を要する事になる。少々危険なのは間違いないが、ここを突っ切れれば先は短い•••)
足止めを喰う事に堪えられなかったフェリペは、熟考の末に一か八かの賭けに出る事にした。それは、先ずバックして車の位置を後ろに下げ、充分な距離をとっておいてから、助走しながら徐々に加速していき、その勢いで一気に問題の地点を越えてしまおうというものだった。何も有効な道具を持ち合わせておらず、特に有意義な手段も思いつかなかったフェリペには、これが唯一の策だった。
良さそうな所まで車を戻すと、フェリペは一つ大きく深い息をした。そして、胸の前で十字を切り、切実に祈った。
(もう少しだ。もう少しでアスファルトが施された道路に出る。そこ迄なんとか持ち堪えてくれ〜)
車はゆっくり走り始めた。段々と速度を上げながら、どんどん不安箇所との距離を縮めてゆき、遂にそこに差し掛かった。
その時である。ガクンッという感覚と共に左前輪が沈み、いくらペダルを踏んでも、全く進まなくなってしまったのだ。
フェリペは慌ててギアをリヴァースに入れ、後退を試みた。しかし、タイヤからはシューシューという音が聞こえてくるだけで、車はそこから動く気配はなく、焦ったフェリペが急いで窓を開けて確認すると、車輪は半分近くまで泥水に埋もれていた。
「しまった〜!」
状況を理解して、フェリペは叫んだ。そこにはなんと、穴があったのだ。只単に泥濘んだ轍にある穴なら、容易にその存在に気付けただろうが、溜まりに溜まった水がきれいにそれを覆い隠してしまっていたせいで、見た目で判断する事が困難になっていたのだ。
穴から脱出しようと、フェリペは左右両方にハンドルをきりながら、前進と後退、双方の操作を試みた。しかし、タイヤは依然として空回るだけで、浮上する兆しは全くなかった。そこで今度は、穴自体を掘り広げ斜面を作る事にした。段差を無くす事でタイヤに掛かる圧力を削ごうと考えたのだ。
先程動かしたセイバの枝の先端を折って、フェリペは穴の前を掘り始めた。少し掘っては泥を捨て、更に掘ってはまた泥を捨てる。それを繰り返しながら、ちょっとずつ掘り進む事数分が過ぎた頃、ゴツッと、何か固い物が枝に当たった感触があった。
(何だ?)
フェリペが穴に手を入れ、それを引き抜いてみると、汚く淀んだ泥水から深い緑を帯びた綺麗な石が出て来た。
「翡翠だ!」
拳大で平たい円形をしているその石は紛れもない翡翠だった。そして更に驚く事に、石には未知なる幾何学模様が、決して刻み彫られる事なく、焼き付けられていた。
「何という事だ、これは! 表面は至って平らなのに、顔料に拠る着色でもなく、鮮やかな模様が設えられている! もしかするとこの辺りには、失われた文明の威光を伝える貴重な遺産がまだまだたくさん眠っているのかも知れない!」
雨に打たれ、泥に塗れて、心身共に疲弊し始めていたフェリペだったが、予期せぬ形で相見える事になった歴史的価値を持つ緑石に元気づけられ、新たな活力を与えられると、未だ逆境の中にあれど、その動きはむしろ機敏にさえなるのだった。
その夜、フェリペは不思議な夢を見た。
それは妙に現実味があるもので、昼に翡翠を発見した道で更なる出土品を求め、フェリペは発掘作業に没頭しているのだが、唯一の違いは、その時間帯が夜であった事だった。まるで、今しがたベッドに入って毛布を被った事の方が夢であり、夜な夜な道の周りで探し物をしている事の方が現実であるかの様な錯覚を、夢の中でも覚えるのだ。
(どうして私は、こんな夜更けに仕事をしているのだ?)
フェリペは自身を変に思いながらも、雨で泥濘む土の中を懸命に調べ続けていた。しかし、あまりの暗さに作業は遅々として進まず、昼間の興奮とは打って変わって、何だか哀愁さえ感じられた。
「はあ〜。せめて晴れていたなら、月明かりを望む事も出来ただろうに•••」
そう思うとフェリペは、次第に重たい気分になっていくのだった。
暫く黙々と作業を続けていると、転機は突然訪れた。
いつの間にか、少し離れた所が明るくなっている事に気付いたフェリペが顔を上げると、昼間、道を遮っていたセイバの枝の傍らを、何かが薄白い光を放って、フワフワと浮遊しているのだ。
「何だ?」
フェリペが恐る恐る近付くと、光は∞(インフィニティー)の軌道を描く様に動きだした。
(あっ、動いた!)
光の前まで来て、フェリペはその様子を只々ぼんやりと眺めていた。すると光は、緩やかに形を変えながら最後に人型となり、掌をフェリペに向けて言葉を放った。
「秘されし印を持つ者よ••• 我と共にいざ行かん」
その瞬間から、フェリペは右脚の付け根に異常な熱を感じ、すぐさまポケットの中を探った。すると、昼間見つけた翡翠が信じられない程の高温になっていた。
(うっ!? どうなってる? とんでもない熱さだ!)
取り出された翡翠は瞬時に常温に戻って、人型になった光に同調し始め、寄せては返す波の如く、明るくなっては暗くなる事を繰り返していた。
(まるで、呼吸してるみたいだ•••)
フェリペは翡翠を一種の生命体の様に感じていた。
「秘されし印を持つ者よ••• 我と共にいざ行かん」
人型になった光はまた同じ事を言い、今度はすぐに道無き道を進んで密林の中へと入って行った。
(どうしよう•••)
フェリペの心の中では恐怖と興味が葛藤した。が、勝負は一瞬で着いた。好奇心が勝ったフェリペは、急いで光の後を追うのだった。
昼ですら鬱蒼としていた密林は夜になると尚一層暗かった。
(一体、どれ程歩いただろう?)
フェリペがそんな事を考え始めた頃に、光は進むのを止めた。
「んっ? どこだか知らないが着いたのか?」
フェリペが質問したものの、光はそれには答えず、
「我々は送らなければならない••• 脈打つ体を帯し魂を、暗く細く伸びるその先へ•••」
などと、不明瞭な言葉を残して、そこにあった岩の亀裂の中へ吸い込まれていった。
「う〜む、洞穴か•••」
フェリペが中を覗き込むと、そこは意外にも深い洞窟になっており、光は進行し続けていた。しかし、その明度が段々と弱まっていくと、最後は消滅してしまうのだった。
(消えた•••)
翌朝、フェリペはいつもの様に顔を洗い、いつもの様に朝食を摂ったが、頭の中はいつも通りではいられなかった。夕べの事が気になるのだ。とりわけ引っ掛かるのは光が言った内容だった。
(『脈打つ体を帯し魂』••• 一体、何の事だろう? 普通、この世の生物は皆そうある筈だが、それなら何故、そんな回り諄い言い方をするのだろうか?)
「我々は洞窟の先へ、生物を送らなければならない•••」
(簡潔に述べるなら、こんなところか••• 生物を送る? それはつまり、生贄の事だろうか? しかし、それではどうも腑に落ちない。かつてこの地にあった生贄は、最終的には殺される類のものだ••• 生贄ではないとなると、今度はその目的が解らなくなる•••)
フェリペがどれだけ部屋中を歩き回って、思案してみたところで、腕を組んだ程度では、その答えは簡単に出せるものではなかった。
「謎がある! あの洞窟の奥で、一体何が行われていたのか、調べる必要がある!」
抑え切れなくなった心は頭の中にあったものを、いつしか口の外へ押し出していた。
先ずは洞窟の実在を確認すべく、フェリペは地元の人に当たってみる事にした。しかし、聞き込みを受けた人達は全員が知らないと答え、洞窟の在処を突き止めるだけではなく、延いてはそこへ案内してくれる者をも探すつもりでいたフェリペは、ここへきてそれを望むのは不可能な事に思えた。
「参ったな。結局、何も得られなかった•••」
仕方なくフェリペは、拙い記憶に頼って、覚えている範囲まで行ってみる事にし、とりあえず始発点となるセイバの枝を目指す為に、車に乗り込もうとした。
そんな折り、
「おや〜っ、あんたまた随分と怖ろしいモンを探しておいでだね〜。異国の若いモンよ•••
イェ〜ッ、ヘェッ、ヘェッ•••」
と、近くにあったベンチに腰を掛けていた老婆が、突然声を掛けてきた。
「お婆さん、私が何を探しているのかをご存知なのですか?」
フェリペが質問すると、老婆は眼光鋭く答えた。
「洞窟さ•••」
「!」
フェリペはたじろいだ。が、矢継ぎ早に次なる質問をした。
「お婆さん、その事は誰かから聞いたのですか?」
「いいや、誰からも」
「では何故、その事を知ってるんです? 一体どうやって?」
フェリペは驚きを隠せず、つい早口になったが、老婆はまるでそれを諌めるかの様に、ゆっくり、且つ、しっかりとした口調で話し始めた。
「あたしゃね〜、視えるんだよ。人の望む事や欲する物が••• 今の今も、あんたの行きたがってる洞窟が、あんたの背中越しに透けて視えてるよ•••」
「!」
それを聞いてフェリペは戦慄した。正直なところ、老婆を気味の悪い人物とさえ思った。しかし、他人の求める物事が視えるのなら、その場所や行き方も解るのではないかと思い、それを次の質問にしようとした。
「お婆さん•••」
フェリペの言い掛けた言葉を遮って、老婆は言った。
「長くなるんなら、うちに来なよ。あたしゃず〜っとここに座ってたんだ。もうそろそろお尻も限界だよ〜。な〜に、心配しなくてもいいよ。別に獲って喰おうって訳じゃないんだから••• まっ、それも面白いかも知れないがね〜。
イェ〜ッ、ヘェッ、ヘェッ•••」
フェリペは笑えなかった。
覚悟を決めたフェリペが老婆に付き従って行くと、程無く老婆の家は現れた。
それは何の変哲も無い、至って普通の民家で、老婆が醸し出す雰囲気から、何かとんでもない物を想像していたフェリペを安心させるには充分だった。
「只今。キオ、あたしとお客さんにコーヒーをお願いね」
老婆は居間でテレビを見ていた若い娘に言った。娘はフェリペに気付くと、不思議そうに見つめていた。
「こんにちは。少々お邪魔します•••」
フェリペが挨拶をすると、娘もまた挨拶を返した。
「こんにちは。どうぞごゆっくり」
笑顔の可愛い娘だった。
フェリペは居間を越えた所にある一室に案内された。
「まあ、お座りなさい」
フェリペが勧められた椅子に腰を掛けると、老婆はデスクにある椅子に腰を掛けた。部屋の様子から察するに、どうやらそこは老婆の仕事場の様だった。
老婆はフェリペをじっと見据え、険しい顔をして言った。
「あんた、あの洞窟がここいらで何と呼ばれているか、知ってるかい?」
「いいえ•••」
フェリペが首を横に振ると、老婆は眼を細めて言った。
「『呪いの洞窟』さね•••」
「!?」
フェリペは言葉を失い、老婆もまた押し黙った為、部屋は閑けさに包まれた。
コンッ、コンッ! 突然、ドアがノックされる乾いた音がした。
「お入り」
老婆の許しに、先程の娘がコーヒーを持って部屋の中へ入って来た。それによりフェリペは、何とか冷静さを取り戻し、我に返る事が出来た。
「コーヒーをどうぞ」
「どうもありがとう」
フェリペのお礼は飲み物以外の事にもあった。
「はいっ、お婆ちゃんも」
「ありがとう」
娘はもう一つのコーヒーを机の上に置くと、心配そうな眼差しで老婆を見た。
「解ってるわ〜。今日の体調は良い方なの。それに、これは仕事じゃないのよ」
「じゃあ、なんで?」
「う〜ん、勘さね••• 困った顔して怖ろしいモンを探すこの人を、放って置いてはいけない気がしたんだよ。
イェ〜ッ、ヘェッ、ヘェッ•••」
老婆は独り笑っていたが、娘の納得できていない表情に、付け加えた。
「あたしゃ感じたのさ。この人に手を貸す事は自分を手助けする事になると、強くね•••」
老婆が最後の単語を口にした時、その眼には一瞬、先程と同じ鋭い光が宿っていた。
「解ったわ••• お婆ちゃんがそこまで言うのなら、もうこれ以上は言わないけど、くれぐれも体には気を遣ってね」
娘の蟠りは晴れた様だった。
娘はフェリペに一礼をし、部屋を出て行った。
「どこか、お体の具合いが良くないところがあるのですか?」
話の一部始終を聞いていたフェリペは、老婆に訊ねた。
「ええ、ちょっとね•••」
老婆はそれ以上何も言わなかったが、小刻みに震える手が何らかの病を患っている事を明確に伝えていた。
「何だか、すみません。そんな方にこんな余所者のお付き合いをさせてしまって•••」
「いやいや、いいんだよ〜、そんな事は。あたしの方から口を出したんだから••• それに、さっきも言った様に、あたしの為でもあるんだからね〜」
その言葉は、フェリペには非常に不可解であったが、それでいて有難くもあった。
老婆はコーヒーを一口飲むと、留っていた話を再開した。
「これはね、あたしがまだ小さかった頃に、曽婆ちゃんから聞いた話なんだがね••• 昔、とある鉱山会社の人達がここらに眠る鉱脈の有無を調べに来たそうな。そして、あの洞窟を見つけると、あそこを調査したいと言い出した。しかし、その事を知った村人達は強くそれに反対した。何故なら、この土地には遥か昔からの言い伝えがあったからだ•••」
「言い伝え••• それは一体?」
フェリペは眉間に皺を寄せて訊ねた。
「『王家の秘地を汚すべからず、破らば祟りが降り掛からん』••• あの洞窟はかつてこの地を治めた王族だけが入る事を許された、いわば禁断の地。それを犯した者は何らかの災いに遭うそうな•••」
「何だって!?」
フェリペは『王家の秘地』と聞いて舞い上がった。が、すぐに冷静になると、一つ疑問が浮かび上がった。
「禁断の地に災いという組み合わせは世界中の古代遺跡にはつきものですが、実際に災難が起きた事例はそう多くは有りません••• 鉱山会社の人々は本当にその話を信じたのでしょうか?」
「いいや••• 彼等はその証拠として実例を求めた様なんだがね、それは当時の村長にも答える事は出来なかった。村人達はそんな曰付きの場所に踏み入るだけの価値があるとは思っていなかったから、そんな事をした者など誰一人としていなかったんだ。実例がない事を確かめた彼等は村人達の制止を振り切り、洞窟の中へと入って行ったそうな•••」
フェリペは当然の事と思い、頷いた。
老婆はそれには無反応だったが、何故かそこで口を閉ざした。
「それで、その後、彼等はどうなったのでしょう?」
改めてフェリペに促され、ようやく老婆は続きを話した。
「結局、彼等は戻らなかったそうだよ•••」
「えっ!? それでは、洞窟の中で何かがあったんですか?」
「さあね〜、それはあたしも知らないよ〜」
フェリペの心に小さくだが確かな不安が生まれた。
「後日、鉱山会社は行方不明になった社員の捜索と救出の為に新たに人手を送り込んだ。しかしだ、新手の三人組は洞窟の中へ入って行ったものの、わずか数時間で出て来てしまい、行方不明者を見つけ出す事はおろか、彼等自身がまるで別人の様になって戻ってきたそうな•••」
「別人•••」
「そうさね。一人は明らかに血色が悪くなり、青白い顔をして、眼は虚ろになっており、一人は引き攣った表情の儘、震えが止まらなかったそうだよ。だがね、曽婆ちゃんが言うには、一番怖ろしかったのは最後の一人。その人の眼の周りは落窪んで黒ずみ、眼は血走って真っ赤になっていたそうな。そして、空の一点をずっと睨みつけた儘、微動だにもしなかったそうだよ〜」
老婆は一つ溜め息をついて、コーヒーを飲んだ。
「この事は当時、大変な騒ぎになり、半信半疑だった曽婆ちゃんも、古の言い伝えに偽りは無かったと、心を改めたそうだよ〜。そして、それ以来あそこは『呪いの洞窟』と呼ばれる様になったそうだ•••」
言い終わった後の老婆の視線は部屋の壁を越え、どこか遠くに注がれている様だった。
「悪い事は言わないよ。もうあそこに関わろうとするのはお止めなさい」
秘話に裏打ちされた老婆の忠告には強い説得力があり、フェリペの不安はより大きいものになった。しかしフェリペは、どうしても洞窟を諦める気にはなれなかった。夕べの事が頭から離れないのだ。
悩んだ末にフェリペは昨晩の夢を老婆に打ち明けてみた。すると老婆は、人型になった光が放った言葉に激しい反応を示すのだった。
「『秘されし印』だって!? ホントにその亡霊はそう言ったのかい?」
「ええ。二度言われたので、聞き間違いではありません」
「う〜む•••」
そう言うと老婆は、何かを考え込んだ。
「あの〜、一体どうしたと言うのです?」
フェリペの不安げな面持ちに老婆は険しい表情を解いたが、その声は前よりも重くなっていた。
「実はね、さっきの話では言わなかったが、別人の様になった三人組の最後の一人は、天を仰いでこう言ったそうな••• 『秘されし印を持たざる者は、王の呪いを受けるべし!』」
「!」
「それは、まるで何かに取り憑かれていたかの様に見えたと、曽婆ちゃんは言ってたね。あたしもその文言から、その人が自身に言った様には思えない•••」
「つまり、夢に出てきた亡霊が、その人に憑依していたんじゃないかと?」
フェリペが先んじると、老婆は無言でそれに頷いた。
「確かにそうかも知れない••• その方がむしろ、辻褄が合う」
二人は顔を見合わせていた。
「だが、今や問題はそんな事じゃあないよね〜。あんたと彼等の違いは、模様入りの翡翠を所持しているか否かだ」
「亡霊の発言からも、私が彼等と同じ結末を迎えるとは到底思えないのですが•••」
「そうだね〜。そこについては最早あたしも異論は無いよ。只、いずれにしても、あそこが得体の知れない処だと言う事には何ら変わりはない。それでも行くと言うのなら、あんた、覚悟をおしよ•••」
老婆はもう留め立てはしなかった。充分に注意を払う事と常に警戒を解かない事を助言し、洞窟までの略地図を描くと、それをフェリペに手渡した。
「油断大敵だよ! 『秘されし印』を持ってるからって、気を抜かない事だ。
イェ〜ッ、ヘェッ、ヘェッ•••」
特異な存在の激励はフェリペにとって非常に心強かった。
「お婆さん。色々とお教え頂き、本当にありがとうございました。ところで、一つ不躾な質問をしても宜しいでしょうか?」
フェリペは礼を言い、最後に最初から気になっていた事を訊こうとした。すると老婆は、それを問われる前にそれに答えて言った。
「シャーマンさ••• あたしゃ古き昔からこの地にある呪術を受け継ぐ者なのさ•••
イェ〜ッ、ヘェッ、ヘェッ•••」
ここにフェリペは、老婆の持つ謎めいた力や不思議な雰囲気の由縁を、ようやく理解するのだった。
丁重に別れの挨拶をしたフェリペは老婆の家を後にして、探検の用意に取り掛かった。街で必要な物を買い、それらをリュックに詰め、老婆に描いてもらった地図を見ながら、洞窟までの道程を確認しておいた。
老婆の話では、遺跡群の中心部から南へ向かうと、下りになっている斜面の先に古代の道が現れる。その道伝いに南西方向へ行けば、右手に岩場が見えてくる。洞窟はそこの岩の中にある、との事だった。
「さあ〜て、準備は万端だ。行くぞ!」
フェリペは己の不安を払拭する様に気合いを入れて自らを鼓舞し、新たな出発地となった遺跡の中心に向かうのだった。
老婆の地図に従って歩を進めたフェリペが岩場に到着すると、そこには、ゴツゴツとした無数の岩が点在していた。
「成程。ここに間違いなさそうだ」
フェリペは昨夜の夢を思い出しながら、一つ一つ岩の形を注視していき、これぞと思しき岩を見つけて、その前に立った。
岩には確かに、夢で見た物と同じ亀裂がポッカリと開いていた。
「遂に見つけたぞ!」
フェリペは洞窟の中を覗き込んだ。内部は如何にも王族が使用したという風な人工的な趣は一切無く、殆ど手つかずの状態と言ってよかった。
リュックからライト付きのヘルメットと作業用ベルトを取り出して装着し、随分と使い込まれている靴のくたびれた紐をきつく結び直すと、フェリペはいよいよだと、緊張が込み上げてくるのが解った。
(ここまで来といて尻込みするなよ。世紀の大発見とて、夢じゃないかも知れないんだ!)
フェリペは一度水を飲んで心を落ち着かせ、胸ポケットのファスナーを開けて、翡翠を取り出した。
「頼むぞ••• ここに入る唯一の資格がお前を持つ事なら、お前はその通行許可証としての大役をきちんと果たしてくれよ〜」
強く握り締めた翡翠に頼む様に言い、最後に口付けをしてから、フェリペはそれを胸ポケットの中に納めた。
「よしっ、行こう!」
初めの一歩は緊張の極みだった。
穴の中は薄暗く、外と比べてひんやりしていた。足場は何となく確保できたが、頭上には所々厳つい岩が剥き出しになっており、入り口から二、三分も経つと、もう外の光は届かず、更に進むと、勾配が急になっている所に出た。
「地下空洞か•••」
フェリペが下へ下へと進んで行くにつれ、段々と天井と地面が離れていき、何やら広い空間に差し掛かったので、より強力な照明器具を使って確認したところ、そこから先へ進めそうな穴は四つあった。
(迷路が始まったな•••)
帰りの際に迷わぬ様に発蛍光の目印を置き、フェリペは、一番大きくて尚下へと続いている穴を選んだ。
そこは進めば進む程、上から垂れる滴が多くなっていき、大きな段差がある所からは一段と気温が下がり、湿気が増した感じがあった。
足許に気を付けながら更に降りて行くと、上から鍾乳石が伸びている、先程よりも開けた場所に出た。
「へぇ〜、こりゃ凄い!」
暫くフェリペは、自然が時を掛けて生み出した造形美に見惚れていた。が、そこもまた一切、人の手が加えられていない事を知ると、今度は考察に入った。
(かつては『王家の秘地』と呼ばれていたのなら、何らかの儀式が行われていたか、はたまた、何か大切な物でも保管していたか、もしくは、何か貴重な物を産出できたか••• 予想できる事は他にもあるが、何であったにせよ、何らかの痕跡は残る筈。何の手掛かりも得られないという事は、ここではないという事なのか?)
結局フェリペは、そこには望む物は何も無いと判断し、多少がっかりした後に、とりあえず幾つかの横穴があった、先程の空間まで戻る事にした。
「ここはハズレだったが、穴は未だあと三つある。そのどれかはアタリの筈だ」
チャンスが残っている事に、気持ちの切り替えは容易だった。
踵を返して、大きな段差のある所までやってきた時だった。突然フェリペは、耳にキーンと突っ張る様な音を捉えると同時に、目の前が真っ暗になるのを感じた。
「うっ!」
体は一瞬にして鉛の様に重たくなり、自身を支え切れなくなったフェリペは、頭を抱えた儘、バタリとその場に倒れ込んだ。
(ダメだ••• 体に••• 力が••• 入ら•な•い•••)
フェリペは立ち上がろうと懸命に踠いたものの、もう既にそんな力は出せず、次第に朦朧とし始めた意識の中で徐々に全ての感覚が無くなってゆくと、とうとう気を失ってしまうのだった。