機会もなく
「声なんてかけられなかった。・・・いいですか、『この本』がなにか教えてあげましょう。 五十年ほど前に、とある大学が地方の聖堂教の教会から買い取った、いわゆる《希少本》のうちの一冊です。だが、―― その大学の中でその本は行方不明になってしまっていた」
「はあ?『希少本』が学校内で行方不明?」
そりゃ誰かが盗んだからだろう?とニコルがルイとみあって言うと、ヤニコフが急に、かんだかいヒステリックな笑い声をあげた。
ザックはまたしてもニコルの袖をつかんでしまう。
「・・・わたしは、三十年以上前の学生時代に、厳重に保管された実物をみたことがある。これを遠くから見て、すぐに《あの本》だとわかった。 ―― 彼女の手にそれを見たときの衝撃がわかりますか?すぐにでも近づいて質したかったが、そんなことをしたら絶対に逃げられてしまうと思い、話しかけるタイミングを考えていたのです。だが、―― 『本』は 落ちて、わたしはこれ幸いと持ち帰り、・・・ナタリに質すことも伝える機会もなく、彼女はあんなことになってしまった・・・」 最後をひとりごとのようにつぶやく。
ルイも、さすがにおおげさな息をついてみせた。
「あのですねえ、ヤニコフさん、いいかげん、こちらに必要なことを話していただけますかね? ―― あなたが拾ったこの希少本も、ナタリと付箋のやりとりをしていた相手が渡したんでしょう?あなたは、その相手を知っている。―― ところが、どういうわけか、その人物が犯人であるのは『無理』だと言った」
ルイは男の顔をみすえたまま、机にのりだした身をかがめる。
「―― 教官。われわれは何も、その人物が殺人犯だと『断定』しようとしてるわけではありません。が、なにか、大事なことを知っていそうな人物に、間違いはないと思うのですが、いかがでしょうか?」
口調は丁寧だが、あきらかに威圧している。
顔色の悪い男の眼が、奇妙にゆれるが、口をひらかなかった。




