無題
ある日のこと。
末期の癌が見つかり自宅療養している母のもとに、10年以上付き合いのある友人の母……私の母にとってのママ友が訪ねてきた。
「わざわざありがとうございました」
私はそう言って彼女に頭を下げた。
「君も大変だろうけど頑張ってね。私にも協力出来ることが言ってね」
彼女はハンカチで眼をぬぐいながら絞り出すように言い、歩き去っていった。
次の日。
母方の親戚……母にとっての妹が訪ねてきた。
「遠いところありがとう」
私はそういって彼女に頭を下げた。
「父さんも大変だから、長男として支えて上げないと駄目だよ」
彼女は私に笑顔を作って励まし、車を出した。
別の日。
父の上司が訪ねてきた。
私と父は頭を下げ、礼を言った。
彼は「職場の方は安心して任せとけ」と、父に言って戻っていった。
父が運転し、私は助手席に乗った。
「母さんは今大変なんだ。たぶん少し休めば大丈夫だと思うけど……」
そう言う父の横顔はやつれていた。母が末期癌なことは半年前、病院に行った父と母が取り乱して帰って来たその日に知っている。少し休めば大丈夫ではないことも。隠しておきたければ履歴に"末期癌 治し方"などと残さないことだが、黙っておく。父と母は私たちに隠しておきたいのだから。
母はある日私に叫んだ。
「皆代わる代わる来て……!誰か来る度に起き上がらないといけない……それすらも大変なのに、何も考えてくれない!」
私は驚いた。子供の私たちに"母"を残そうとしている母が、"母"らしからぬ愚痴を子供の私に叫んだからだ。
結果として母の死後、私にとって最も強烈に残っている母との思い出はその叫びになった。
弟は私に相談する。
「母さん大丈夫かなぁ?」
私は大丈夫だろという。
大丈夫ではないことは弟も知っている。履歴を探ったその場に弟もいた。弟に知られた……それは私の落ち度だが、そこまでどうしようもないものだとは思っていなかった。出来ることは弟に、「俺らが知っていることは親にはいうなよ。親から言われるまで待ってろ」と最低限のリカバリーだけだった。
わかりきった質問に、求められている答をする。
日に日に母は母でなくなっていった。
癌が回れば動けなくなる。介護が必要になり、今の私と同い年くらいの看護婦にオムツを変えてもらうことになる。
脳にまで回れば人でなくなる。獣になる。言葉を失い、行動が人間らしさを失っていく。
私は考える。絶対的に安楽死は必要だ。
母が法的に死んだのは告知日から数えてほぼ一年後であったが、私の母が死んだのは半年前だ。
母が(法的に)死んだその日、その瞬間、父と弟は泣いていた。報せを聞いた親戚もママ友も泣いた。母は愛されていたから彼らが泣いたというのは違いないだろうが、私には笑みが出た。父にはお前はクズだと殴られた。拳ではなく言葉でだが。
父もまた妻の闘病生活……父の場合、夫婦の闘病生活とでも言うべき過酷なもので、父自体が死にそうであった。
重病は人を変える。
死への恐怖、薬の副作用、病そのものによって。
母が女に、人に、獣になって、そして死ぬ。
母が私に叫んだあの日、私のなかで母は死んだ。
なので、(法的に)死んだあの日。私にとっては母ではない何かが死んだだけであった。
母の望みは真に母として死ぬことであった。夫である父のことは二の次に、私たち子供に向けて残す……思い出であったり、手紙であったり、お金であったり。父は死後に羨ましいといった言葉を私に言うことがある。父は父であると同時に私の友人であり母の夫であり、そういう"父"でない面を日頃から見せていたので、それを総じて私の父であったが、母は絶対的に"母"であった。
だが、結果として彼女は獣になって死んだ。
数種のチューブに繋がり、一秒一分一日生存日数が延びたところで、なんの意味もない。無価値ですらなく、害だ。
同じことが重度の認知症にも言える。
施設に軟禁し……彼らが生活するのは施設の二階で、エレベーターでしか一階に移動できない。消防法とか知らないが、おそらく階段もあるのだろう。だけれど目に見えないところにある。そして、エレベーターの利用にはコツがいる。常人ならばすぐに看破できるコツだが、認知症患者にはわからない。例えば、別のスイッチを押しながらでないと、各階へのスイッチが反応しないなど。……軟禁し、孫の私が行っても隣のお兄さんが来てくれたと勘違いするほどであれば、それはもう"私のお婆ちゃん"ではない。生きた何かである。
尊厳死も安楽死もなければならない。少なくても、私は認知症や癌で私が私でなくなる前に死にたい。
自殺は認められていない。自由がない。