2(1)
前回までのあらすじ。
ある朝ごみ捨て場で変テコな本に出会ったモトコさん。
ひょんなことから堕天使なオネエさま──マルスによるマルスのためのモトコちゃん彼氏作り計画が始動しました。
「はああ……」
一人分のスペースしかない小部屋に重苦しい溜め息が落ちる。
そこには全身を映せる鏡があった。
ふんわりと広がった裾が揺れ、女性らしいシルエットのワンピースを身に纏った私が鏡に映る。
可憐という言葉が似合いそうなワンピースだけど、鏡の中の私の顔にはピークタイムを乗り越えた後と同じくらいの疲れが滲んでいた。
眼鏡もしてないのに疲れた自分の顔がくっきりはっきりと見える。
新しい目の感覚にもまだ慣れない。
「うぅ……本当に、なんでこんなことになっちゃったんだろう」
嘆きを零しながら小部屋のカーテンに手を掛ける。
明るくなる視界、耳に入り込む流行りの歌。
目の前にストレートジーンズにロングブーツを履いた脚、臙脂色のニットワンピースを着た黒髪青眼のオネエさま。
出てきた私を見てオネエさま────マルスの表情がパッと華やいだ。
「あらヤダ、すっごく良いじゃなぁーい! 素敵よ、モトコ!」
「本当素敵です! まるでお客様のために誂えたみたい!」
「……ありがとう」
マルスと共に私が出てくるのを待っていた女性店員さんも一緒になって私を褒める。……本当にそう言う人いるんだね。
私が今出てきたのは試着室だ。
ここはデパートの女性ファッションフロアにある一角で、マルスが着て(しまって)いる例のニットワンピースを買ったショップにて私は今彼と買い物の最中だったりする。
正しくは“買い物をさせられている”最中なんだけれども。
「やっぱりアタシの目に狂いはないわね!」
自信満々に微笑むマルス。
その手にはパステルカラーのブラウスと膝丈ほどのスカート。
「さあ次はコレよ! コレ着てみなさい!」
私はマルスによって着せ替え人形と化していた。
新たなる服を押し付けられた私はげんなりと呟く。
「ええ……まだ着るの……?」
「フフフッ、当たり前でしょ? モトコの魅力を充分に引き出せる服を選ばなきゃいけないもの」
「もうたくさん買ったじゃん……」
ちらりと目を向けた先。
試着室の傍らには色んなショップの名前が入った紙袋たちが置いてある。
もちろん全部私が買ったもので、中身はマルスが選んだ服だ。
今朝は早くから眼科へ行きコンタクトレンズを買わされ、その足でデパートへ向かいあっちのショップへこっちのショップへと連れ回され────今に至る。
目に何かを入れるという違和感にようやく慣れてきたけど、さすがに連れ回されーの着替えさせられーのは疲れます。げんなりして返しちゃうのも無理ないよね?
「何言ってんの、まだまだ足りないわよ! モトコの持ってる服じゃ彼氏なんて作れないもの!」
「……その前にお財布の中の方が足りなくなっちゃうんデスケド……」
モトコ、推しに貢ぐために取っておいた予算がみるみるうちに減っていってとても悲しいです。
もうイベントも始まってるのにスマホに触る暇もない。
だけどマルスは私の意見を聞いちゃくれないので、私は渋々と押し付けられた服を持って試着室に戻るしかない。
(……この後は美容院だっけ)
カーテンを閉め、この後に決まっている予定を思い出して、またひとつ溜め息が落ちる。
イマイチ、ノリ気になれないお買い物。これがグッズショップとかなら大はしゃぎなんですけどね。
それにマルスの選ぶ服はどれも本当に可愛いんだけど、自分じゃ本当に似合ってるとは思えないし。私にはTシャツジーパンで充分だもん。
ていうかお昼ご飯もまだだからそろそろお腹も空いてきたし、朝も食べ損ねてるから元気なんて出ないし。
「……本当に、どうしてこうなっちゃったのか」
もう何度も漏らした呟き。
それは昨日マルスに出会っちゃったからだけど、このお買い物タイムのきっかけは今朝にある。
今から数時間前。
マルスに叩き起こされた私は、朝からオネエさまの指導を受けていた。
◆
「ねえ、ちょっとアナタ! ぜんっぜんダメダメじゃない!」
「────っうえ!?」
突然の揺さぶりに地震かと思って起きたら、何だかご不満を抱いたらしいマルスの顔が目の前にあった。
マルスにベッドを占領されてしまったので仕方なく床に予備の布団を敷いて寝てたんだけど、マルスは私に跨るように膝立ちしていた。
相変わらず太ももが眩しいこと……。流石に寝るときにまでニットワンピを着られちゃたまらないので、泣く泣く貸した可愛らしいルームウェア(これもコラボ商品)がよく似合っている。
「なぁに、マルス……もうちょっと寝かせてよ……」
「それどころじゃないわよ! いいから起きなさい!」
「ええ……」
「起きるわよねぇえええ?」
「はい起きます今すぐ起きます」
「よろしい」
渋っていたら凄みのある野太い声で脅された。
私の上からマルスが下りたので眠たい目を擦りながら身体を起こすと、そこに広がっていた光景に私は目を瞬かせた。
「何なのよコレ!」
「……いや、それは私のセリフだと思うんだけど」
朝から頭痛がしそうな予感に額を抱える。
マルスが指したコレとは、クローゼットから取り出されたであろう私の服たち。
某衣料量販店で買ったTシャツやジーンズ。その中にはもちろんアニメやゲームの公式グッズとして販売されたものもある。
ニットワンピ以外にもTシャツでもブランドとコラボされてるから、ラフスタイルが好きな私にはありがたい。
そんなおしゃれの『お』の字もないラフなファッションアイテムの数々が部屋いっぱいに広げられていた。
まるで空き巣にでも入られたみたいな、そんな光景。
ご丁寧に普段愛用してるショルダーバッグまで中身をひっくり返されている。
「一体なんなの……?」
「なんなの、じゃないわよっ! オシャレさのカケラもないじゃない!」
だってそういうのと無縁だったし、と開き直りのように口にすれば『あぁん?』と凄まれた。
やだこの堕天使ガラ悪い。
「だ、だって、私には推しがいれば充分……」
「勿体無い……なんて勿体無いの! 人間に生まれておきながら、オシャレもしないなんて嘆かわしいことだわ!」
「そ、そんな大げさな……たかがオシャレくらいで別に生きていけないわけじゃ」
「おだまりっ!」
ピシャーンッと雷が落ちた気がした。
マルスの勢いに私はびくりと震え上がる。この人が凄むと本当に迫力があって怖いんだけど。しかも声音まで変えてくるし……!
私はその場で正座になり、そしてマルスが腕を組んだポーズで私を見下ろす。
「いい? まず、アタシは別にモトコのオタクなところを否定したりはしないわ」
「……マルスもあんまり人の事言えないもんね」
「────何か言ったかしら?」
「いいえ何も」
何せアイドルの追っかけしてたくらいだもん。それで私のことをどうこう言おうもんなら押し負けてでもマルスを追い出すところだった。
しかしオネエさんは図星を突かれるのは好きじゃないご様子。モトコひとつ賢くなった。
「アタシたち天使にはオシャレという文化がないのよ? 服は白色のみ、それもシンプルなものばっかり! お化粧もしないし、……まあしなくても綺麗だからいいんだけどね? ウフフ!」
「……はあ」
「髪色だってそう、天力で起こす奇跡として変えることはできるけどそんなことする天使なんてまずいないし! ……まあアタシはやっちゃうんだけどね、ウフフッ」
あれ? てっきり説教が始まるんだと思ったのに自分語り入っちゃってませんかマルスさん。
熱が入ってきたのか、マルスは握り拳をマイクにするかの如く語り続ける。
私を置いてけぼりにして。
「はぁ……でもホント、人間って良いわよねぇ。オシャレも恋も自由なんだもの。アタシたち天使なんてちょっと邪な思いを抱いたら即堕天よ? ちょっとくらい見逃してくれたっていいのにねぇ。ホント、天使長サマは頭が堅いんだから!」
「…………」
「大体イマドキ、天使も純真でなきゃイケナイなんて古いったらないわ。天使長サマだって絶対影でコソコソ……」
(これ、いつまで掛かるのかなぁ……突然起こされたから眠たいし)
マルスはすっかり自分の世界に入ってしまっていた。
昨今の天使事情がどうのこうの、天使長さんとやらへの愚痴をぐちぐち。
このままだとまた寝ちゃいそうだ。瞼も重たくなってきたし。
微睡み始めた意識で私が考えるのは今日から始まるアプリゲーム内のイベントのことだ。
イベント前にメンテあるし、先にログインして経験値でも稼いでおこうかな。そういえばまだ限定ガチャ引いてないし、イベント特効カードをゲットして育てておかなきゃ。……ああ、それに。
「────ちょっと! モトコ聞いてるの!?」
「うぇええ、あっ? は、はい! 聞いてる、聞いてるよ!」
不意に話を振られて、ぼんやりしていた頭が一気に目覚めた。
もう全く聞いてなかったけどとりあえず返事をしておく。
「アナタせっかく人間に生まれてきたんだから、若いうちにオシャレして楽しんでおかないと損よ!」
「……んん?」
いつの間にか話の先が私に向いているし!
あの話の流れから一体どうして戻ってこられたんだろう。不思議で仕方ないんだけど。
「────決めたわ! 今日はモトコをオシャレに目覚めさせるところから始めましょう!」
「ええっ!?」
「まずは眼鏡をやめてコンタクトレンズにするところからね! イメチェンの定番だもの、ウフフッ」
「コンタ……ッ!?」
さすが詳しいですね! 人間観察が趣味なだけあります!
その後は服を買いに行って美容院へとか言ってるし。しかもこの辺りだったら買い物はココが良いわねってデパートの名前まで挙げてる。詳しいってレベルじゃない……!
「さあモトコ! 一番近いところでコンタクトレンズを購入できるところをググるのよ!」
「そんな単語まで知ってるの!? ──いやいや待って! お、お願いだから今日はその、勘弁してくれませんか……? き、今日だけ! 今日だけでも!」
────推しが! 推しが私を待ってるんです!
私はついマルスにしがみついてまで懇願してしまう。
今日スタートダッシュをかけておけば、一定のランキング内には入れるし、この日のために貯めておいたアイテムもいっぱいある!
だからどうかお願いです、天使さま──いや堕天使さまマルスさま! どうかご慈悲を!
懇願する私にマルスはクスッと目元を緩ませて柔和に笑った。
それはもう女神の如く美しく。
母性を感じさせる微笑みと、心に差し込んだ光明。
今までのような妖艶さはない慈愛に満ちたマルスの笑顔に、私は希望を見出す。
「───だ・め・よ?」
しかし希望は打ち砕かれ、囁きかけるように吐き出された短い単語に全身が粟立った。
私はがっくりと膝を落とす。
その無駄に色っぽく言うのやめてほしい……。
「推しとやらに会いたければアナタも頑張ることね、モトコ。それまでこれはお預け、ね? ウフフッ」
いつの間に手に取ったのか、マルスの手には私のスマートフォンがあった。
ご丁寧にホーム画面まで開いてくれてやがる。
ニッコリと太陽のような笑顔が眩しい推しが私を見つめていた。
(お預け……)
おあずけ。
言葉の意味を理解するまで随分時間が掛かってしまった。
ええと? つまり?
私は推しを人質にされてしまったようです。
「いやぁああああ! そんな殺生な!!」
それだけは! それだけは勘弁を!
一気に涙目になった私は再びマルスにしがみついた。
紫色の長い髪がふわりと靡く。あ、なんかいい匂いがする……葡萄みたいな。髪が紫だから? ────なんて今はそんなのどうでもいいわ私のバカ!!
「オタク女子から推しを奪うなんて、命を奪われるのと同義だよ!? 類義だよ!? お願いだから推しを返してぇええこの腐れ天使ィイイイ!!」
「アラ、モトコったら口が悪いわねぇ。それに今のアタシは天使じゃないわ、堕天使だもの。手段は選び放題、だからアナタを脅し放題……フフッ」
「──ああっ!? ちょ、その指の動き……ヒィッやめ……あ、ああアプリを消そうとしないでくださぁああい!? ていうかスマホの操作まで知ってんの!? いやぁ、やめてえええええ!!」
「残念、アナタの手には届かないわ。ウフフ」
葡萄の香りを靡かせつつ長身のマルスがひょいっとスマホを高く掲げてしまえば、彼の言う通り私がどんなに手を伸ばしても届かない。
まるで推しと私の現実の関係のよう。どんなに手を伸ばそうと見えない壁に阻まれて決して触れることは出来ない尊きお方。しかし私の癒やし、活力、原動力。貴方さえいれば私はいいの。心は満たされてるから。
────でも、でも、でもぉおおおおお!!!!
「ほーら、ほーら、悔しかった取ってご覧なさーい」
「いやぁあああ! 返して!! 返して!! その指の動きを止めてぇええええ!」
堕天使さまには敵わないのです。
万が一消されたとしてもちゃんと引き継ぎ設定はしてあるのに、推しを奪われ冷静さを欠いていた私がそれを思い出すことはなく。
お隣さんから煩いとクレームがくるまで、私とマルスは部屋の中をぐるぐると追いかけっこし続けていた。
その後はやっぱり私が負けて再び土下座する羽目になり、マルスの言う通りにせざるを得なくなり。
こうして今に至ると言うワケです……。