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黒い薔薇で囲われたゴシックなロゴに、しっとりと切なげなBGM。
背景には抱き合う若い男女の姿。
穏やかな男性の声がタイトルを読み上げた。
『黒薔薇狂想曲──さぁ、真実を見つけよう』
「略してブラカプの、アズルートのバッドエンドのことよぉおおお!!」
「乙女ゲームの話かーい!!」
私はがっくりと膝をついた。ていうか部屋の隅で膝を抱えていたのは、ブラカプをやってたからだったのね……。
いやぁ、まあ、でも、マルスがこうなる気持ちも分かる。私も初見プレイ時にアズのルートは最初にバッドエンドに到達しちゃったんだけど、あのシナリオを読んだ時の衝撃たるや……!
黒薔薇は一年前に発売された乙女ゲームだ。
洋風ファンタジーな世界観で、不思議な能力を持つ主人公が様々な人と出会い、時に事件に遭遇しながら自分の秘密に近づいていくって感じのストーリーで、攻略対象として出会うのはアズとシークレット含めて五人いる。
総合的にハッピーエンドは甘々でめちゃくちゃ尊いんだけど、最近の乙女ゲームはバッドエンドで主人公が死んだり攻略対象が死んだりとにかく死んだりとまぁ……胸が締め付けられる展開が多い。
件のアズルートでは主人公の能力を狙う悪い組織の大ボス(紳士なイケオジ)が登場するのだけど、実は終盤でアズはその組織と繋がっていたことが判明するの。
その時にはほぼ相思相愛が確定していた二人だっだけど、アズは主人公を護る為に悪い組織側につくことを決意し、主人公の前から去ってしまう。
でも、主人公だってアズの事を助けたい。だけど組織の大ボスは狡猾で、主人公をじわじわと追い詰めて──とうとう主人公は選択を迫られる。
『私の元へ来るか、皆を犠牲にして一人だけ助かるか──さぁどうする?』
そして主人公は大ボスの手に──だけど組織から解放される約束だったアズは結局組織にいて、主人公の犠牲に意味はなくなり、アズの慟哭と大ボスの高笑いでエンド。
ところでこのエンドに大ボスの台詞で『私の子を孕め』っていうのがあったんだけど、本当に耳から孕まされるかと思ったよね。ちなみに大ボスが隠し攻略対象で、アズの他三人の全ルート攻略で解放されます。あ、あと十八禁ではないです。はい。
「あーあもう……心配して損した……」
「アタシ、アタシ……うぅ──心配って、アタシを? どうして?」
「急に正気に戻らないで……」
マルスの涙と鼻水がティッシュの中に盛大な啜り音と共に消える。次の瞬間にはマルスは何事もなかったかのようにけろっとしていた。切り替え早いな。
「はぁ……だって、急に恋だのなんだの言わなくなっちゃったじゃん。スマホも返してくれたのはありがたいけど、急に大人しくなっちゃったから……その、一昨日何かあったのかな、って」
ほら、私覚えてないから。そう言うとマルスの長い睫毛が静かに伏せられた。
「アタシの……せいよ」
「え?」
「全部アタシのせいなの、アタシが全部悪いのよぉおぉおおお!」
「ちょ、ちょ、ちょ!? え!? なんでまた泣くのさ!?」
と思ったらまた床に伏せって号泣し始めるものだから本当に参った。何度も言うけどうちの壁そんなに厚くないの!
「お願いだからもう、落ち着いてよぉおおおお!」
どうにかこうにか話を聞き出せたのは一時間後のことだった。
──ティッシュ一箱を犠牲にして。
「飲み物に……クスリを……?」
部屋一面に転がる丸まったティッシュを拾おうとした手が止まる。
青天の霹靂、寝耳に水。マルスの口から語られたのは予想外過ぎる事件だった。
「そう。後で色々ネットを調べたらね、若い二人組にナンパされて連れ込まれた先で何かを飲まされて……っていうのが、多発していたみたいなのよ。ネットの掲示板に書かれていたその二人組の特徴が、マフユとチアキと一致していたわ」
「ま、まじか……」
「あんな可愛い顔して、やる事ゲス過ぎるわ……まぁ、アタシ自らお仕置してあげたけれどね。もう二度とあんな悪さはできないくらいに、ね」
「……」
なんていうかもう、言葉が出なかった。
噂に、っていうか、合コンや大学サークルの飲み会とかで、強いお酒を飲ませたり、それこそ変なものを混ぜて酩酊させて悪戯をするっていう事件が実際にあるってことは私も知っている。SNSをやっていると、色んな話やニュースが流れてくるしね。
でも、そんなの私とは無縁だった筈だ。
自分には関係ない。ノンフィクションのようでフィクションのような、絵空事だってそう思っていた。
なのにそれが実際私の身に起きたらしい。未遂だったし、私は覚えていないけど、画面の向こう側ではなく本当に。
だってそうでしょ。今まで地味でオタクな私は見向きもされなかった。
声を掛けられても街頭アンケートくらいだ。
それが昨日思い切ってイメチェンをして、生まれて初めてナンパされて──正直私も舞い上がっていたけど、あのチアキくんがだなんて信じられない。
だから、急に怖くなった。
もしもマルスがいなかったら、私はどうなっていたんだろうって。
「ああ、モトコ……」
傷ましげな声が落ちてくる。
私の恐怖を感じ取ってくれたみたいだ。マルスの長い紫色の髪にさらさらと覆われて、私は逞しい腕の中に閉じ込められた。
(……あ、この感覚)
すごく美人な見た目に対して、意外とがっしりとしたマルスの腕。相も変わらず彼が着ているルームウェアが私よりも似合っているのが悔しいけど。
ふわふわと記憶が私の頭に蘇る。おぼろげな中で唯一覚えているもの、それはきっとこれだ。
「怖かったわよね、ごめんなさい。アタシがアナタの気持ちも考えずに、ついていくって決めたからあんなことに……」
「……でも、マルスが助けてくれたんでしょ? 私を抱えて……なんとなく、それだけ覚えてる」
「アタシにあんなものが効くワケないもの。あの二人ってば相当驚いていたわ」
「……もしかして、あの雄々しい声も……?」
「それは気のせいね」
いや絶対嘘でしょ。
でもそれは言わなかった。マルスが赤ん坊をあやすかのように私の髪を撫で始めたから。
「……女の子に怖い思いをさせるなんて。アナタに幸せな恋を運んであげるって言ったのに。アタシが堕天使だったから助けられたけど、アタシが堕天使じゃなかったらと思うと……本当にぞっとするわ。だから本当にごめんなさい、モトコ」
「……もう、いいよ。謝らなくて。今こうして無事でいるんだしさ」
「…………こんなんじゃ、アタシ天使に戻れないわ……」
私を抱き締める力が強くなった。
ぎゅっと、でもそれは私を抱き締めるというよりマルス自身を抱き締めている風に思えた。
直前の呟き。とてもとても小さな声だったけど、すごく弱弱しかったから。