秋の桜
しんと静まりかえった町の、時折、酔っぱらいの声が聞こえる。
泥酔通りの名の由来は様々で、ここが銘酒屋に由来するから、だとか、前後不覚になった人間が、文字通り酒に酔い千鳥足で歩くからとも言われている。
先程から足取りの悪い客がまばらにうろうろと、恐怖映画さながらの動きで、なにかをぶつぶつと呻きながら徘徊している。近くには嘔吐の跡。夜霧で消えてしまえと薫は思った。
そんな雑多な中も、通りを過ぎれば姿が変わる。
雲が出てきたのか、足下はひどく暗く、街灯だけでは足りないほど。
彼等は誰かに見つからぬように、夜も静まった時間に、隠れながら歩く。その心境はさながら化け物に覗かれているようで鬼魅が悪い。
ぼんやりとした瓦斯橙の明りの下を潜る。
それらは薫たちの心の裡の不安を表しているかのように、ジジ――と、微かに炎が揺らめいた。
四方に伸びる、魚の尾びれの火を後ろに置いて、音を立てぬように進む。
と、ぽつりぽつりと小雨が降ってきた。
その雨は地面を叩き、水分を吸い取れば、足場はかなり不安定な、泥とぬかるんでいく。湿地帯か田んぼの中を進むがごとく。
静かな夜道の、月の光も無く、あたかも写真看板で転写したモノクロームの写真のような情景。白と黒の町に、細蛇の目の傘が開くと、紅殻の色が鮮烈やかに浮かび、モノクロの中にたった一つ、朱紅が躍る。
ぽつぽつと、和紙に弾く雨の音が物悲しい。
真っ暗な路を、足取りも不確かな途を、真っ直ぐに歩くのは薫。
葛の腕を憂慮わしげに引く。あの日、出会ったときとは真逆の。
情けなくも「死んでやろうかと思っていた」などとのたまっていた彼の姿は無い。迷うことなく歩む様は、皮肉めいて、いや、それが彼等の目指す場所なのだろう。
あのときの光景を思い出すのならば、いったい誰がこの姿を想像できただろうか。
ひどくぬかるんだ地面を、一歩、一歩と踏み固めるように。
しかし、彼がいつも帰り道に使っている場所が、今はひどく遠くに感じられる。永遠と室内走行機を走らされているような、進めど進めど終わりの見えない洞の中を歩いているような、ひりつく焦燥感を覚える。前に、前に、逸る気持ちと共に早くなる歩行速度を抑え、葛がつんのめらないようにしっかりと腕を組んだ。
段々と吹き荒れる風と雨が彼等をここから出すまいと拒んでいるようで。
ようやく長い隧道じみた通廊に入る。
呼吸を切らせる二人の。ここを抜ければ外へ出る。
胎内めぐりとは、真っ暗な道を、数珠を頼りに進むという。母親の胎内に見立て、そこから出ることで生まれ変わるのだという。そこでは一度死に、そしてまた産まれるのだ。
人の一生など、始まりも暗く、そして終わりも暗い。
彼等がここをめぐれば、新たなる自分へと生まれ変わるのか、はたまた何も変わらないのか。それを知るには、時間が短すぎる。
隧道を抜けると、雨が止み、風も薄らいでいた。
傘を閉じ、薫たちは交番を通り過ぎ、水神橋を越えて、汐入公園の桜に逢いに行く。
そこには赤も白も無く、葉の落ちた枝に、ひっそりとした蕾だけが彼等を迎え入れる。
葛の、いつか見たいと言った桜の姿。
それでも、二人で見る桜は、憂愁を飾るには丁度良い、とても美しいものに見えた。
しかし、やはり少し寂しい。
葛がするりと自分の手絡を解き、それを木の枝に結んで見せた。
人の手が加えられていない景物がどれほどあるだろうか。
薫は、今、この瞬間、この場所で。
誰が、彼が、なんと言おうとも、これが自分たちの桜なのだと、声高らかに宣言しよう。
朱紅の手絡のはなびらが、春の、満開にも負けぬ、なんともみすぼらしくも美しい光景なのだろうか。
それはおそらく、その場の雰囲気に流された、なんの変哲もない光景だったのだろうが。情景とは、心の在り方一つで変わるものだと、彼は確信している。
つまらなかった花見が、葛を介するだけで、何倍も楽しいものになっていたことから知れる。
彼等は凝然と目を瞠る。
はかりしれない愁いを胸に秘めて。
それなりの時間をそうしていて、そろそろかと葛へ振り向けば、うっすらと、消えていくのが見えた。
叫び声も出せずに、指を伸ばし、彼女を離すまいと手繰り寄せようとするが――。
するりと、まったく手が届かず、彼女に触れることさえ叶わない。
焦燥に駆られ、葛の名前さえも言葉に出来ず、影法師と成り果てる。
彼女を追って、追って、追ってもなお届かない。磁石の反発の、近付けば近付くほど遠ざかっていく感覚さえ覚える。
はらりと、半襟に散った、朱紅の手絡のはなびらが、さながら霊魂が落花したようだったけど。
触れることの出来ない彼女が、必死に藻掻く彼の元へと歩む。その距離は、近くて遠く。柔和らかい笑みを浮かべると、彼の耳元でそっと囁く。
「…………――――」
ほっそりとした、幽かな声で。
届いた言葉は、彼女の本当の名前なのだろう。
はっとして、彼女の名前を叫ぶ。
「…………――――」
彼女はうっすらと、満足そうに笑う。
薫はもう一度、大事なものを呼ぶように叫ぼうとすれば、彼女が彼の口元に指を持っていく。
その一言だけで充分だと言うように。
いや、その想いを胸の裡にだけ秘めて、口から、記憶からこぼれてしまわないようにと。
触れても居ないのに、唇は熱を持ったように熱い。
彼女のもう一つの、葛という名前を叫ぼうとするが、もはやその声は届かず。
すうっと、夏の蜃気楼のように、影法師はいずこかへ消える。
彼の胸に、彼女との日々が、幻燈画のように去来する。
瞼に溜まった涙は、雨となって落ちるだろう。
彼にとっての救いは、彼女の最後の顔が、弱々しくも儚く、綺麗なものであったことだろうか。もしかすれば、こんな日が来るのだと、どこかで気付いていたのかも知れない。
死にたがりだった彼では、もはや彼女の元に行くことは出来ないであろう。
ただ一つ残ったのは、彼女の手絡だけ。
この町でしか生きられないと言ったのは、決して、年季でがんじがらめになっているのではない。ましてやこの仕事以外出来ない、他に行くことが出来ないという意味ではないのだと、薫はそのときようやく理解したのであって。
きっと、彼女は町から出れば消えてしまう、精霊だとか妖怪のようなものだったのだろう。
いや、あの町が、住民自体が、どこかに忘れ去られた、陽炎の記憶なのだろう。
彼等の縁は、思いがけないところで結ばれた、胡蝶の夢のようなもので。
彼女との生活というのは、不確かな、揺らめき乱れる、幻灯機に映し出された写真の、記憶の裡に秘めた想いのような、非現実感という葛湯に浸かっていものだった。
彼女の選択は、薫にとってひどく残酷なものだった。
しかし、あの一瞬だけは、葛という出方の女性ではなく、本来の名前をさらすことが出来たのだと信じている。
消え入りそうなあの声を思い出し、深き苦しみと痛みと愛しさの記憶として脳裡に刻みつける。決して忘れぬよう、彼女の本当の名前を…………。
薫は手絡を手に取ると、立ち上がり、歩き出した。
霧の出た、夜明け前のこと――――
参考文献
永井荷風(1951)『濹東綺譚』新潮文庫、新潮社、青空文庫.