死にたがりだった男
春の陽気に誘われ。
夢現の。
船渠から舫綱を解く。
微睡みを海に、桜のはなびらを舟に、胡蝶の翼を櫂にして、うつらうつらと漕いで行く。
このまま春の湊まで漕ぎ続けそうな気勢。
薫は眠気を振り払い、花見とは名ばかりの、桜餅を眺め、頬張った。ほどよい甘さと塩気に、思わず舌鼓を打ちそうになる。
花見など、いっそこの桜餅を眺めていれば事足りるのではないかと、世迷い言が口からこぼれそうになる。幾ら桜餅の桜色が花に、葉っぱはそのままで、餡子が幹に見立てられるとしても、実物と菓子では種類が違いすぎる。
桜餅を楊枝で切り分けながら、葛は大島桜の写真を眺めた。満開とは言い難いが、充分に美しい、八分の桜。
薫が写真に収めたもので、薄桃と白の花が広がり、なかなか見応えのあるものになっている。
が、桜餅の葉はこの桜が使われていることが多く、それを眺めるのは風流と言えるのか悩ましいところ。
「お前さん良く撮れているじゃないか。見応えのあったことだろう」
薫が独り者だと確信したのか、あるいは気易い仲から心易い仲になったのか、旦那と呼ぶ声が、お前さん、もしくはお前さまへと変わっている。彼の与り知らぬところで、葛にどのような心境の変化があったのか。くすぐったさが募る。
「いつもはあんまり興味が無かったのに。今回写真を撮っていてすごく楽しかった」
「それにしては気合が入っているじゃないか。これ、何枚撮ってきたんだい?」
「いやぁ、ついつい楽しくなってきて、自分でも覚えてないや」
「鷹揚なことだねぇ」
不思議と高揚して、あれも良い、これも良い、この角度で撮ろう、今度は引きで撮ろう、いや、もっと近くで、などと、驚くほど楽しんでいた。
普段花見の楽しみなど、団子くらいしか無かったというのに。
そこに誰か――葛に見せるが加わったのならば、こんなにも違うものか。薫は驚いた。
「一度、ここに行って見てみたいものだねぇ」
「その時は俺が連れていってあげるよ」
「ははは、それはとても嬉しいねぇ。ほんとう、いつか、見てみたい……」
談笑する彼等の元に、とんとんと小窓を叩く音。
慌ただしく葛は机の皿を片付け、それと同時に薫が部屋の奥へと引っ込む。
見つからないようにじっと息を殺して、彼女等が二階に上がるのを確信すれば、ひょっこりと顔を出し、火の番をしている。
春の陽気といえど、まだ肌寒く、長火鉢の炭と湯の前に居られるのは有り難い。
勝手知ったるなんとやら、戸棚からマッチの箱を取り出して、一服。
手持ち無沙汰になり、うつらうつらとまた頭が船旅を始めそうになるのであった。
こうして季節は巡っていく。
薫が「転職しようかと考えている」と言い出したのは、夏も深まる頃合い。
梅雨の長雨。風鈴の音。蚊取り線香の匂い。ボロのうちわで頬を仰ぐ。
側溝から夥しく、天に昇ってうねるほどの蚊の群れが、四辺を飛び交っている。夜のうちにたらふく血を吸った蚊は、朝になれば身体が重く、動きも鈍くなる。それを迂闊にも手で潰してしまえば、真っ赤になることこの上ない。
古蚊帳を部屋に張り巡らせて、それでもどこぞの隙間からぷーんと、侵入る。
低湿地帯だったころの名残か、とにかく蚊が多い。これに薫は辟易してしまう。
家の前の軒の影の。
葛は床几の上に座って、水桶にちゃぽんと足を突っ込んだ。
浴衣姿の、なんとも涼やかな扮装で。本来浴衣は肌着や寝間着の役割で、これで近所の夏祭りの、囃子が聞こえる中ならば問題ではないが、格式張った場所へ行くのははばかられる。
薄布の、大きくはだけ、足をやや開く様は、艶めかしく。
ぱちゃりぱちゃりと水を蹴り上げるのはなんともはしたなく。
とはいうものの、熱を持った地面と、この暑さの中に出歩く姿もまばらで、彼等の他に誰もいないとあっては、見咎める者もいない。
「お前さんそれは白玉をほおばりながら言うことかい?」
「いや、でも、早く食べないと溶けちゃうし、でも、あんまり真面目にすると、その、俺が緊張するし……」
小豆餡の乗ったかき氷をつつきながら、薫の言葉が段々と窄まっていく。
視線を落とせば彼女のふくらはぎばかりに目が行き、まるでそこと会話をしているような。失礼なことこの上ない。
「それがお前さんに必要なことなら、迷うことなんかないだろうさ」
「えっと……さ――」
薫は年季が明ければ一緒になろうと、そんな言葉を呑み込む。
そもそも彼女は借金をこさえているなどと聞いたことがない。それどころか、亭主の稼ぎが少ないために出稼ぎに来た、とか、もしかしたらこの仕事に誇りを持ち、天職として臨んでいるのかもしれないと、致命的な思い違いをしているのではないだろうかと思い言い直す。
「ど、どうしてこの仕事をしているんだい?」
「どう、とおっしゃいましても。負債があるから。としか」
「やっぱり、お金?」
「いいや。金銭ばかりってわけでもないんだけど、物とか労働とか。遊びの対価に魂を取り立てた出方もいるって噂もあるくらいさ。文字通り腑抜けにしちまったんだと」
「怖いなぁ……怖いのはいやだなぁ」
無性にそわそわと落ち着きが無くなり、葛の顔をじっと眺める。縋るような目を向ける。さながら産まれてすぐに打ち捨てられた動物のような。弱々しい様を見せる。
そんな薫の様子を見て、あまりの頼りなさに葛が吹き出した。少しは前向きになったと彼女は思っていたが、どうにも彼の、最初に出会ったときの、死にたいだとか呻いていた、気弱で気鬱な気質が洞の穴から顔を覗かせる。
「あっはっは、怖がらせちまったかい。大丈夫さ。他に浮気さえしなければ取り立てられることはないからさ」
薫はまだ恐ろしさが抜けきっていない様子で葛に尋ねる。
「じゃ、じゃあその負債を返したらどうするんだい?」
「さあてね、たぶん、どこかに消えちまうのさ」
「消える?」
「ここに住んでいるわたしたちみたいなのは、ある場所に行くための駄賃を集めているのさ。集め終われば、どこかにふらりと居なくなっちまう」
「みんなどこに行くんだい?」
「きっと、ここより良い場所さ。まあ、逆にここの住民になっちまった奴もいるらしいし、どこが楽園かなんてそいつが決めることかも知れないねぇ」
「ここを出て行きたいって思ったことはないのかい?」
「出てったって行く先は知れている。それに、ここから出て行って、戻ってきた奴は一人もいないのさ」
薫はなにかを言いかけあきらめる。
何を話せばよいのか、上手い言葉が見つからず、指が宙を掻き、爪で空を掴もうともがく気勢を含ませた。
突いていた氷が、びちゃりと、段々と水に変わるのを見て、慌てて掻き込んだ。
きーんとする痛みに、こめかみを軽く叩く。
そんな薫の様子を横目で見ながら、先に奥底の氷をすべて噛み砕き、今度は葛がひとこと。
「お前さんこそ、最近変わったことはないかい?」
「えっ、変わったこと…………ああ、そう言えば、ここに来る道のりが、心なしか長くなったような気がするなぁ。体力が落ちたのかなぁ」
艶やかに目を伏せ、「そうかい」と葛が吐く息は寂しさを含有する。
風鈴が風鳴ると、蚊取りの煙が漂い、彼女の頬にまとわりついた。
ただそれだけの夏の風物詩。それだのに薫にはひどく儚げな、陶酔じみた艶やかで儚げな情景に見え、印象に残り、しばらく尾を引いたのだった。
花と柳と雑多な町に、色鳥の群れ、空に架かり、紅葉を帯びる。
長夜の、終わりの、朝露に夜明けの光を照らせば、うっすらと霜が降りたよう。
あれからしばらくの間、実生活の忙しさのあまり、なかなか葛に逢いに行く時間が作れなかった。気が付けば暦は秋へと移り変わっている。
「もう来ないんじゃないかと思っちまいましたよ」
「いやあ、ようやく転職先が見つかってさ。色々と準備をしていたら時間が経っていたよ。ふっふっふ、溜まっていた有給を消化して、一ヶ月はゆっくり出来そうだよ」
「縁起にどうだい?」
細い指先、整った爪、葛が煙草を一本差し出す。
それを受け取るついでに、彼女の繊手を両の手で包んでしまおうかと悩んだ果てに、もったいぶって、大様と首を横に。
「止めておくよ。実は未だに慣れないし、むせながら吸ってたんだよ。俺の身体にも悪いし」
「今まで無理してでも吸っていられたことがわたしには驚きだよ」
「俺もちょっとは心に余裕が出来たってことかな」
熱を帯びた目で、薫はこれからの展望や計画など、あるいは夢想とも呼べるようなことまで嬉々として、愉しげに語る。だのに寂寥に耳を傾けていた葛の、遠くを打ち眺めるような目。あのときの表情が思い浮かび、彼を妙に憂虞かりな気分にさせる。
「なぜそんなにも苦しそうな顔をしているんだ?」
「はて、お前さまにはわたしが苦しそうに見えるのかい?」
「ああ、苦しそうというよりも、悲しそうって言った方がよいかもしれないけど」
「それはお前さんと別れなければならないと、惜しんでいるのさ」
「俺はこれからもここに来るつもりだけど……?」
弱々しく首を振る葛。
柳は緑、花は紅。飾らぬ彼女の顔が打ち覗く。
「ここに来られる者は、強い悩みを抱えていたり、生と死が曖昧なのが訪れる場所。お前さんは来られちまった人間なのさ」
「それはどういう……」
意味だと聞こうとして、止める。漠然理解していたことだ。
死にたがりだった、生きているのも死んでいるのも変わらなかった自分が、これからのことを話している。均衡を保っていた天秤が、いや、死に傾いていたはずの天秤が、今では生に傾き始めている。
「お前さんは変わっちまいました。良い方向に。だからこそ、きっと、次は来ることさえも出来なくなる」
彼女には確信があるのだろう。薫がここにはもう来られないと。
一夜の夢がここまで長くなったのは、彼の気質由縁か。
「惚れた腫れたは自分の弱み。それならばいっそ死んでしまったって構わない」
「そんなことを言うものじゃないよ……」
憂慮わしげに伸ばされた手が、彼女の肩に触れる。
「別れの言葉ならば、代わりに。花よ、柳よ、枯れろ、とでも仰っておくれ。そうでないのならば、何も言わずに出て行っておくれ」
言葉に迷い、悩み、どれほどの時間をそうしていたか分からない。
やがて顔を上げると、薫が、葛が、露天神の森に赴くような顔で見合わせる。彼女が彼の後ろに回ると、肩に首を乗せ、すっと、横に、撫でるように、引いた。
吐き出したる言葉は、小さく、弱く、儚げに、しかしはっきりと、覚悟を許ない。
「桜が、見たい」
と彼女は言う。
ここで、また来るよと先延ばしにすれば、おそらく二度と来ることが出来ないだろう。
新しい生活、打算、想い、すべてが頭の中で、魔女の鍋のようにぐらぐらと煮詰められている。やがて稠密詰まった蜜と成り果てるか、さもなくば空となるまで煮続けるのか。
その言葉の真意を噛みしめ、薫は彼女の手を取った。
その手を取れば、壁龕に埋め込まれた花綵の、蛇とのたうち彼等を絡め取り決して離しはしないだろう。
物見遊山などと、生易しいことではない。足抜けた人間は、二度と戻ってこないと言った葛の。追われたのか、あるいは、自らを破滅の火で点したのか。
「桜を、見に行こう」
と彼は言う。
この時期じゃ、蕾くらいしかついていない。
それでも見に行こうと、薫は言った。
「秋の桜を……」
夏のうちに芽を伸ばし、春に備えている。
自分たちは、秋で終わるのだ。
戸外から打ち覗く夜の色は、不思議と、部屋の裡からでも良く視える。