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窓の女

「いっそこのデータを消してしまうのはどうだろうか……」


 かおるは口の中だけで呟くと、かぶりを振って考えを追い払う。

 これを誰かに聞かれていないか、注意深く、だがこっそり、左見右見とみこうみと周囲の様子をうかがう。

 そこに居たのは皆一様に白く濁った魚の目をして、一心不乱にパソコンに向かっている姿。何故だか薫にはカタカタと鳴るキーボードを打鍵たたく音が、夜闇の中で歯を噛み合わせる髑髏しゃれこうべを連想し、恐ろしく感じるのは、きっと相当に疲れているのだろうと自己判断を下す。


 一時いっとき。誰かが笑い出し、それに釣られて一斉に同僚達の笑いの輪唱が始まったときには、もう駄目かと思った。しかし暑さを過ぎれば何とやらというように、越えてしまえば意外と平気なものであると、その時の光景を思い出し、薫は頬の筋肉をぴくぴくと引きつらせる。決して目の奥は笑っていなかった。


 無知からくる、無茶な要求。

 それを丁寧に説明して、納期なりを伸ばすのが上司の役目なのだろうが、余りにも簡単に受けてしまう。ころころと仕様を変更するのは、先方の要求をそのまま具現化させようとするためなのだと、最近になって判明した事実。

 上司もまた、無知に毛が生えた程度の知識しかないようだった。

 さもなくばよっぽど質の悪い確信犯であろう。


 定時にあがる人間はあまりいない。

 自分の今日の分のノルマが終われば良い。というわけではなく。早くあがればその分仕事が増えてしまう。特に、上司の仕事が多いときは顕著で、余裕なんだしこれもやっておいて、などと簡単に言うのだ。だから会社を出る時間は、上司の仕事状況に左右されてしまうというなんともめんどくさい仕様。


 上司が会社を出たのを見計らい、追従するように外に出る。

 季節は外套コートが手放せなくなる時期。首には首巻マフラーをして。

 暗い夜道に、街灯の導を頼りに歩く。


 酒飲みなら、このまま繁華街へと繰り出すのだろうが、生憎あいにく薫には酒を飲むという習慣がない。かといって週末の、明日は休日だというのにこのまま何もしないというのもつまらない。彼の足はくるりと、自分の家の方角とは別の場所を目指し始めた。


 ぽっと吐く息が、頬の辺りで白く漂い、一瞬で消える様は、頼りない、果無はかな立つ花のようで。

 濹東ぼくとうの町の銭湯からのぞく煙突の煙も、彼の吐く息と同じに、空へといて、立ちのぼっているのが分かる。

 あれほど入り組み、迷路ラビラントだと思った道も、不思議と迷うことなく、目的の場所まで足が進むのは、かずらの言葉を借りるのならば『縁』が出来た。ということなのだろう。

 途中で首巻マフラーなどを女性達にとられそうになったりした。きゃいきゃいとやり取りするだけで、懇意の女性が居ると言えば、袖を引かれることは無かったが。


 うっすらとした、街灯の光の。

 ぼんやりと飾り窓から漏れる明りに、出方の葛の顔が見える。なにやら素見ひやかしとやり取りをしているようで。


「元気がないねぇ。ほら、北里の旦那、ちょいっと寄っておいでよ。おだけでもかまいやしないからさ」


 馴染みに声を掛けては、少しの間話をして、通り過ぎて行ってしまう。

 初めての素見客ひやかしにはしおらしく、猫撫で声をして、しななどつくってみせたり、いかにも寂しく、持てあました風を装ったり。また別の素見客ひやかしには、少しお堅く、気品と知性を窺わせる姿を見せたりしたが、どうやら今日は誰一人として上がるものはいないらしい。


 それを見送る葛の様子は、大学入試の最後の機会だと心に決め、挙げ句、合否の紙に『ダメ』と書いてあったときの、悲嘆ひたんにも絶望にも暮れる顔というわけでもなく、ごく自然に、茶を飲み、煙草を飲んだり、のんびりと喫食きっしょくを楽しんでいる。

 が、不意に少し寂しそう視線が背中を追うのを見ると、薫はなぜだか胸の内側を締め付けられるような、もどかしいような奇妙な感覚に支配される。

 動悸が速くなり、くらくらっと、目眩めまいまでしてきそうであった。

 胸を押さえながら葛の前へと向かうと、彼女ははっと気付いたように、完爾にこにこした顔を向ける。


「山桜の旦那、久しぶりじゃないですか。わたしはどっかでくたばっちまったんじゃないかと心配で気が気じゃなくて」

「ははは、くたばってもよかったけど、しぶとく生きているよ」

「大方女房の元に帰っていたんだろうけど、今日は喧嘩でもしたかい?」

「所帯を持ったことは一度もないなぁ」

「なら、懇意の彼女と、秋風にでも吹かれちまったのかい?」

「喧嘩するくらいの仲の彼女ひとが居たらもうちょっと元気だったかもしれないなぁ」


 薫はくじらの潮吹きじみた白い息を吐き出してしみじみ呟く。

 同じようにぽっと、葛が煙草のけむを吐き出す。


「上がっていくかい?」

「そのつもりで来たんだ」


 彼女の家に這入はいると、手荷物を放り出して、早速、火鉢の前に陣取り、あたかもそこが自分の指定席のように座り込んだ。

 寒い寒いと暖の前で手を揉むと、葛の手が……。


「ほんとうに冷たい手だね」


 かじかむ指を、母の慈しみに似た慈愛の表情で、葛がそっと包む。

 少しは暖まったかと尋ね、茶を差し出す。

 ぐびり、と飲む干しはしなかったが、適温であるそれを軽くあおった。ほっと、固く絡まった糸がほつれていく塩梅あんばいに、安心感で満たされていく。猜疑さいぎの谷となった日常とは違う、別の世界にでも居るよう。


 あれから薫はちょくちょくと顔を出しては、茶を飲んだり会話を楽しんだりして帰って行った。男女の逢瀬というのも無いわけではないが、ただ、彼女と居るというだけで同じくらいの充足感を得られる。その都度財布は軽くなるが。


 薫が訪れても、いつも部屋は綺麗に片付けられており、聞けば、汚いよりも綺麗な方が良いだろうと、小気味よい笑い声で返された。

 彼女の家は最低限の設備は備わり、台所にトイレ、風呂まであるらしい。

 風呂などは用意するのが大変で、特に冬は時間が掛かるらしく、普段は湯屋を利用していて。客の要望があれば――ということになっているそうだ。

 愉快そうに話す彼女は、決して自分の境遇をなげき、わめき、悲観する姿などない。そのままを受け入れ、愉しんでさえいるという印象を薫はもった。

 果たして其れが本当か、彼女の心の裡を知ることは、薫には出来ないだろう。


 こうして茶を飲み、ぱちぱちと爆ぜる炭の音を聞くという、なんとも安閑とした風情をいと理由わけも無く、ただ耳を傾ける。

 薫は足を組み替えようと身じろぎ。ふと思い出し。乱雑に置いた荷物に手を伸ばす。


「そうだ。夕食を買ってきたんだった。なにか作ってもらおうと思って」

「良いけど旦那。また缶詰ばかりじゃないだろうね?」

「それは……まあ、いろいろ持ってきたから……」


 薫は歯切れ悪く返答する。

 こうして一緒に食事でもと、食料を買い込んでは訪れる。

 それも簡単に食べられる物ばかりを。

 彼に料理の習慣は無く、それをしている暇があるならば寝るか、休むかしか選択肢しかない。そのため簡単に食べられる物というのが最も大事で、必然的にその日食べられる総菜そうざいか、保存の利く物ばかりになってしまう。そもそも薫の好物がコーンビーフだというところから推し量られる。

 彼の持ってきたものも、大根と豆腐と味噌と鯖の味噌煮の缶詰だけなのだから作れる物も限られる。


 葛は手慣れた様子で風呂吹き、手元にあった干菜と大根の味噌汁、あとは鯖を皿によそい、なんとも味噌尽くしな夕飯に仕上がった。


「おいしそうだ。こういう手料理って食べる機会が殆ど無いから凄く嬉しいよ」

「お世辞の上手なことで。こんなに茶色ばかりの食卓も滅多にあるもんじゃないよ」


 普段のんびりとした顔の様の薫が更に弛緩しかんする。

 始めに汁をすすれば、塩味しおみなど良い塩梅あんばいで、根菜と、少し苦みのする干菜を口内へ掻き入れる。風呂吹きに箸を通せばすんなりと割れ、けれど身崩れせず、口に運べばじんわりと、味噌とゆずの香りが鼻に抜ける。米ばかりは今朝に握った飯であったが。子どもの頃に取りこぼした、懐かしの感覚に身を浸す。

 薫は、普段とは打って変わった健啖けんたん振りを発揮し、葛の分を残し、残りを全部平らげてしまったのであった。


 酒でも入り、このまま微睡みの中で酔臥ねむることが出来ればさぞ心地よいことだろう。


「ここに来る前に、その、何人かと応対する姿を見たんだけど……」


 言葉尻が小さくすぼまっていったのは、ほんの少しの後ろめたさがあったから。

 然したる気にもせず、気を害した気配もなく葛が口を開く。


「あれもわたしさ。旦那だってすべての人間と態度が同じ訳じゃないだろう」

「それは……確かに」

「惚れた男を前にすれば生娘にもなるし、別の男の前では阿婆擦あばずれにもなる」

「じゃ、じゃあ、俺の前だと、ど、どうなるんだい?」


 なけなしの勇気、といってもよいのか。

 自分の発言に後悔している。

 顔は紅でつけたのか、目はどぷんと大波小波、おまけに手も忙しないときたもので。そんな薫に向かって、なまめかしく微笑んで見せれば。


「旦那の前では――もちろん秘密さ」


 などと、薫を煩悶はんもんさせるようなことを言う。

 そうこうしているうちに時間は過ぎ、薫は葛の家を後にしようとする。


「今日は冷えるから、気をつけてお帰りね」


 外套コートを着せる彼女の手は憂慮きづかわしく。腰辺りに手を当てたのは、未練だったのか。薫は首巻マフラーをまき直す。そのまままた来るよと言葉を交わして歩き出した。

 夜の、葛の、すらりとして派手に鮮麗あざやかな召し物の、手提灯のつましい明りの中で、悄然しょんぼりと立つ彼女の姿の。

 かすかな笑みを背中に置いて、肩越しにちらりちらりと眺めながら、薫は名残惜しみながら帰路へ就いた。

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