火鉢と煙草と秘め事と
薫は頭に手拭を乗せたままの。
もそもそと地を這う虫の、蛹か、さもなくば簑か、兎にも角にも、頭からすっぽりと覆った手拭から顔を出す姿は、間抜けとしか言いようがない。
そんな彼に女性は、火鉢に掛けてあった湯でお茶を沸かし、差し出した。
ほっと、体の芯の、そのまた奥まで暖まっていく気勢に、昂揚感を覚える。
ぐるりと室内を見渡せば、どうやらこまめに掃除をしているらしく、良く整っており、埃も被らぬ縁起棚には酒が数本並べて置いてあるのが見えた。
「濡れている上着も脱いで、そこで乾かしていくといいさ」
「……ありがとう」
女性は、別に構わないとばかり、にかりと笑うと、少し含みを持たせ、手提げたばこ盆を引き出すと、とんっと煙草の箱の底を叩き、火を付け、すぅっと、そして白い煙を吐き出した。
「わたしは葛ってんだ。まっ、仕事は見れば分かるだろう」
「見ても良く分からない」
「はあ、なら旦那はここになにをしに来たって言うのさ」
問われてみれば首を捻る。
理由など無いに等しいのだから答えにも、身の振り方も窮するばかりで。
ならばと身振り手振りで示そうと考えるが――腕をくねらせて、たこ踊りの様相を呈する姿ばかりが頭に浮かび、悪戯に醜態を晒すだけだと頬を引きつらせる。
どうしても、ふわりとした形にすらならない思考が続く。
そういえばここに来る前は散策に興じていたのだと思い出し、それなりの沈黙の後に。
「散歩に……」
と、絞り出すように言った。
すると女性は竹を割ったように、豪快に笑い出した。
「あははははは。そうかい。散歩かい。この町でわたしたちとふざけに来る旦那は居たけど、ただ通りがかりの、散歩に来ましたって言い放った旦那は、わたしの知る限りおまえさんがはじめてだよ」
足を崩して座り込み煙草を吸う姿は、はしたなくも見える。が、さながらこの部屋の城主のような貫禄で。
天井に吊された電灯の明りが、彼女の黒艶めいた髷と、黒真珠のような双眸に吸い込まれ、顔がくっきりと、よく通った鼻梁が美しい。
その所作一つ一つに意味があるような、すべてが様になっている。
そこではじめて薫は、その美貌の、女性の姿をまじまじと見たのであった。
少女と大人の憂いを帯びる束の間の年齢――ではあるまいが、熟れた、というには若すぎる。
煙草に伸びる指先は驚くほど整っており、爪は磨かれた珠か真珠のようで。
手によって人の気品や優雅さが分かるのならば、きっと、さぞ雅やかな家の令嬢だろうと。
この見目麗しい葛という婦人は。
人形師が丹念に造り上げた傑作、と言えば納得してしまいそうな、完成された美しさを具えた彼女の、その見た目の年齢からかけ離れた貫禄は、人に愛と才能を与え、精気を啜る吸血鬼ではないかと、きっと人外の、妖怪か、妖精か、その類の物だと勝手に空想して、頷いてしまうほどだった。
気付かされれば気付かされるほど、薫の居心地は悪くなるばかり。
自分のような人間がここに居て良いのかと、暗く湿った性根からふつふつと、底なし沼から噴き上がってくる臭気がごとき毒性を持ったガスでも発するかのように。
縮こまって、なるべく彼女の視界に入らないように、汗の臭いが届かないように、あるいは呼吸が。それこそ石ころにでもなってしまえとばかりに強く念ると、自分の後ろ向きな思考の方向性に諦観にも、開悟にも似た、諦めの気持ちが灰汁のように浮かび上がる。
「旦那はここに来たくて来た人間じゃなくて、来られちまった人間なんだねぇ」
その意味を咀嚼し吟味しようと――などと高尚なものではなく、彼女の言葉の意味が理解出来ずいるだけだが、疑問符を浮かべる薫を余所に、短くなった煙草を始末しようとしたとき、彼女の眼の中に飛び込んだのは、きっと、魚の頭だったのだろう。
一瞬の間に、どうやら薫のネクタイに視線が注がれているのに気付き、葛が。
「なんだい旦那、そのネクタイは、はっはっは」
「これかい? ほら、柄じゃなくて魚になっているんだ。こっちのネクタイピンは蟹の手になっているんだ。まるで蟹が魚を食べようと挟んでいるようだろう。俺の唯一の趣味でね」
「あっはっは、旦那面白い人だねぇ」
目尻に涙まで溜めた姿を見るに、ようやくこのネクタイに付いて言及してくれた人がいたと、薫は少し嬉しくなった。職場では死んだ目をした同僚しかおらず、上司は彼に興味がなく、誰の目にも留まることはなかったからだ。
葛がもう一本の煙草に手を伸ばすと、薫の視線がそこに落ちる。
妙に落ち着かない、まるで悪いことをしようとする子どもの、何とも頼りない声音で葛に。
「お、俺にも煙草を一本分けてくれないか?」
「吸うのかい?」
「ぜんぜん。だけど吸いたい気分なんだ」
「わたしは構いやしないが、気をつけなよ」
葛に差し出された一本を受け取ると、ひっくり返したり、葉っぱの詰まった部分をまじまじと見る姿は、狙いを付ける照準器のそれであり、暗室の孔でも覗いているのか、彼の目には向こう側の像が映っているのかもしれない。
「なんだろう、甘いような匂いが……」
試しに咥えてみると葛がマッチを取り出す。
「わたしが付けてあげるよ」
「ありがとう」
マッチを擦り、火を熾す。
それを薫の口元に持っていくと、彼は煙草を口から離して付けようとするものだから葛が。
「違う違う」
「えっ?」
「吸いながら、火を付けるのさ」
尖端に付くか付かないかの距離に火を置いて、薫は吸い上げてみると、ぼっと火が移る。が。
「うぐっ、ごはっ、ごふっえぇうふ、うげぇ」
今際の際の雄鳥でも、もう少し綺麗な波形の鳴き声をあげるだろうと、実に聞き苦しい形を見せた。
憂慮わしげに伸びた手が、彼の背中を優しくさするものの、降ってくる声には幾分かの呆れが混じる。
「大丈夫かい旦那。咳き込むのはいいけど、吐くのだけは勘弁しておくれ」
「ごほっ、ごめんなさい」
咳き込んだ息をつくと、ようやく顔を上げ、目を白黒させて捲くし立てる。
「なんだこれは、煙がいろんなとこにしみるし、葉っぱは口の中に入るし、これは吸う人達の喉は鉄製で出来ているのに違いない」
「なんで吸えもしない煙草を吸おうと思ったんだい」
「いやぁ、健康に悪いことをして、死んでやろうかと思って」
今度はゆっくりと、深く、味わうにつれ、薫の吸い込む息に合わせて、尖端に傷痕じみた火が熾る。
暗き夜の下ならば、鬼火のように。それが部屋にふたつ、番の蛍のようで。
一方は止まって、もう一方は落ち着きがなく、ぴょこぴょこと上下に揺れる。
灰をたばこ盆に落とすと、少し咳き込み、不思議そうな顔つきとなり、
「からいような、後味があまいような……」
ねぎまのネギの中の芯が喉を殴打でもしたかのように呟いた。
そのまま自分の胸当たりまで手を伸ばし、押してみたり、擦ってみたり。
頻りに胸を撫でさすっているのは、痒いから、というわけではなく。吸い込んだ煙の違和感を覚えたからだ。普段慣れていないことをするものだから、ありもしない幻痛を抱いている。
もちろん、直ちに影響が出るわけでもなく、口先でふかしただけなのだからそれほど煙を吸い込んだともいえない。
思い込みというものは質が悪く、毒にも薬にもなろう。
「さて、わたしはおぶ代さえ包んで頂けさえすれば、茶も出すし、酒も出すし、一時間でも二時間でも居着いてくれたってかまいやしないけど。これだけ出してくれるなら、普段恋人にも言えないようなことだってしてあげるよ」
薫に体を預けるようにしな垂れかかる。
葛の白粉の白肌と肌の境目に彼の視線が落ちる。
「それはいったい……」
「もう分かっているだろう?」
耳朶をくすぐるように囁かれる甘い声が、薫の脳を葛餅を煮とろかすようにじーんと痺れさせる。
どいうこと、と言う言葉は、葛の手が彼の懐へと伸びたところで、ごくりと、生唾と一緒に呑み込まれてしまった。
葛はそのまま、触れるか触れないかという手つきで、彼の身体をまさぐる。
ここがどこで、彼女がなにかと問われれば、自ずと答えは出てくるもの。
とうに失われた銘酒屋町が、ここにはあった。
「旦那、名前は」
「か、薫だ。山桜薫」
「綺麗で良い名前だねぇ。わたしは桜なんてめっきり見なくなって久しいよ」
「ここからなら汐入公園にだって、桜橋の方にだってあると思うけど」
「わたしはこの場所に縛られているのさ。ここから出るときは、きっと、死ぬときだけ」
「なんだか寂しいことを言うね……」
「旦那にだけは言われたくないねぇ。さっきから死にたい、死にたいとばかり呟かれるものだから、わたしもちょいっと暗い気持ちになっちまったのかねぇ」
「ごめんなさい……」
「ここでしか生きることが出来ない奴もいるのさ。他の場所に行けば、ふっと、消えちまう。だから――」
「だから?」
その時、きらりと葛の眼の中が光ったように見えたのは、ただの反射だったのだろうか。
いや、彼女は夜鷹の目で以てして、薫を掴み、彼を掴み、離さないとばかりに、目元に浮かんだのは、ほんのりと、化粧の裡から覗く、薄紅梅。
「旦那がわたしの桜になっておくれよ」
濡れそぼった瞳を向けると、媚めかしく微笑む。
この部屋の主だと貫禄を感じていたはずの人物は、薫の腕の中に収まると、その形を潜め、すっと、心音が聞こえるくらいの距離まで近付いた。
性を感じさせない立ち振る舞い、と言えばいささか大袈裟であるが、確かに、今目の前にいる人物は、自分とは違う、異性なのだ。
華奢な肩、香の匂い、膝の内側に掛かる足、それらすべてが男としての情念をむくりと呼び覚ましていくよう、だった。
彼女の行動に著しく動揺した薫は、まず離れようと後ずさりを試みるが、相手は手練手管の名手であるからして、うまく逃れるすべなど彼にはなかった。
慌てで手を振り、赤面した顔で捲くし立てた。
「待った、待ってくれ、俺はそんなつもりじゃあ……それに、こういうことはもっとお互いを知ってからのほうが良いと思うんだ」
「旦那。これもお互いを知るためのことに違いないさ」
「た、確かにそうかも知れないけど!?」
逃げようとする薫が新鮮なのか、余計に火が付いてしまったようで、じりじりと、彼の逃げ道を塞いでいく。
「それとも、わたしじゃ嫌かい?」
「そういうわけじゃないけが」
「だったら、わたしが良いっていってんだから良いさ」
「いや…………そ、そうだ、今持ち合わせが無くて」
「そんなこと気にしなくてもいいさ。旦那なら――良いよ。本当に嫌なら、わたしも引き下がるからさ」
彼女にとっては数秒の、彼にとっては数刻の。
間の中で、薫の指は彼女の手を取って――。
そのまま彼等は二階に上がり、夜は更け込んでいく。