細蛇の目の傘
薫は小路を歩く。歩く。歩く。
建物の影に隠れた、隧道じみた路で、薄暗く、よく気をつけないと、なにかに蹴躓き、よろめいてしまいそうになる。
自分がどこへ向かっているのかも分からず。胸中に不安やら、恐怖心やらが鎌首をもたげてやってくる。それでも進み続けたのは、何かを期待していたのかも知れない。
疾うの昔に失われたものを探す心積もりで、あるいは現実からの逃避だったかもしれない。
薫の体感としてはとてつもなく長く、道のりとしてはほどほど。それもようやくうすぼんやりとした明りが見え、出口を見つけることが出来た。
抜け道の先は、その泥酔通りという名の、通りと言うには慎ましい広さの横道にしか見えず。しかし茶屋やカフェーなどの看板と髪結いの店の、町屋のような気配。
この辺りは商店街と、住宅地くらいしかないと思っていたが、このような場所があったとはまったく知らなかった。
古めかしい建物と、どうにも泥臭いというか、時折、排水溝から臭う独特の、臭気といったものが漂ってきている。複雑に入り組んだ途は、先がどこへ繋がっているのか見当も付かない。薫など歩き回れば同じ処をぐるぐると辿ることになること相違なく。この道をあえて表現するのならば、迷宮と呼ぶのが相応しいだろう。
茶屋の看板と、間口の狭い、二階建ての長屋風建築物が建ち並び、小さな丸窓から、島田髷の女性の、煙管を咥え、煙を吐き、小さく手招いて見せたりして。
少し時代を感じさせる洋風の扮装の女性に、カフェーの女給仕達が、なにやら悩ましげな目でこちらを見て、誘い声を掛ける。
さながら、とうの昔に失われた銘酒屋の様相で、薫はなにがなんだか理解の範疇を超え、ただ呆然と突っ立っているばかり。
「降ってくるよ」
と、男の声。
辺りがにわかに物気だつ。
墨の東を題材にした小説のごとく情景に、だが、薫は傘など手にしてはおらず、そこから始まる物語など期待など出来ない。はずだった。
ぽつり、ぽつりとよしずを叩く音が、やがてざあっと、強く殴るような響へ変わる。
曇り空だった夕方の天気は、ついに夜を待たずに、変わってしまったのである。
慌ただしく走り抜ける靴の音、一種寂寞たる銘酒屋の街と、足下にはぬかるんだ土の道。
「旦那。そんなところに突っ立ってると、濡れちまいますよ」
「いいんだ。このまま風邪でも引いて、肺炎でも起こして死んでやろうかと思って」
「まあ、そんなことを言うもんじゃあないよ。さあ、こちらにお入んなさい」
ぱっと、傘を広げた女性の、ぽつぽつと、和紙に弾く雨の音が耳に心地良い。
白の目の少ない、紅殻を塗り混ぜた細蛇の目の傘。
女性は柔らかく微笑み、薫に向かって、憂慮わしげに傘を差し出す。
彼の頭上に赤い影が翻ると、雨や傘の背の、遮る物が何一つ無くなり、眼前に真っ白な、半襟の縫いから打ち覗く咽頭と、微かに匂う油の、真紅の鮮やかな手絡が麗しい、結錦の女性。
横から覗く、女性のうなじが彼には眩しく、そして目に毒だった。
「俺のことは気にしないで……その辺の石っころだと思ってくれて構わないから」
「あははは、面白いことを仰る旦那様だねぇ。なにがあったのかは知らないけど、そんなに自分を卑下するもんじゃないよ。ほら、遠慮なんかしないでさ、濡れないようにもうちぃっとわたしに寄りかかんなって……」
すっと、裡に入ってくる物だから、薫はどうしてよいか分からなくなる。
女性と相合い傘など、彼にとって産まれて初めての出来事で、申し訳ないやら、切ないやら、借りてきた猫でももう少し動きがあるというくらい、恐縮しっぱなしで。
萎縮した体を解きほぐすように、女性がはっと息を吐いた。
「ほら、すぐそこにわたしの塒があるから。そこまで歩けるかい?」
「ええと、ねぐら? ねぐらってキミの家のこと!?」
「はいはい、これ以上ここにいたらびしょ濡れになっちまうよ。さあ、歩いた歩いた」
片手で着物の裾をまくり上げ、気っ風の良い褄捌きで、薫と腕を組み、ぐいぐい進んでいく。
ぬかるんだ地面に、思わず足を取られ、滑りそうになるが、彼女の細やかな気遣いが、慌てさせないくらいの速さで、時折、引く手を休め、ちらりと振り返ってみせる。
たとえ転びそうになっても、ぐっと、支えてくれた。
なにやら立場が逆な気がしないでもないが、泥に足を取られ、滑らぬよう、おっかなびっくりと慎重に歩く薫とは違って、慣れた足取りの彼女であった。
その様子は、さながら酒に酔って、千鳥足のごとくふらつく、情夫を介抱しているよう。
細い路地を通り抜け、辿り着いた場所は、ずらりと葦簀の日覆を掛けた立ち並んだうちの一軒。
竹で組まれたそれは、どこか隠棲的な気色を漂わせ、なんとも涼しげな印象を醸し出している。その横に人が内側から覗いてそうな、小さな飾り窓が目を引く。今は窓布で覆われ、中を窺い知ることは出来ない。
このように気分が沈み自分のことでさえも手に余っているときでなかれば、少しは興味を示し、物珍しさに物見遊山の客と化していただろうに。
そんな彼に、招き猫を思わせる手の動きで、女性が手招きをする。
「お這入りよ」
「お構いなく」
「びしょ濡れじゃあないかい。拭いてあげるから寄ってきなよ」
「いや、俺はいいよぅ」
「頑なに拒むけど、なにか理由でもあるのかい? 懇意の女がいる、とか」
「えっ? 別に理由なんてないけど、このまま雨にでも濡れて、風邪でも引いて、肺炎でも起こして死んでやろうかと思って」
「随分と投げやりだねぇ。わたしが慰めてあげるから。ほら、這入った這入った」
「そこまで言うなら……まあ」
と言いつつも、薫はまさに恐る恐るといった様子。
化け物の口の中にでも這入るかのような慎重さで、足を、一歩、一歩と踏み入れた。
ぬらぬらと蠢く舌根の床に、あかあかと光る口蓋の天井。
彼にはこの家が胃の腑にでも見えているのだろう。
だいたい呑み込まれてしまえば何もかも遅く、恐怖を覚えるくらいならばさっさと彼女の手を振り払って逃げるなりすればよかったのだ。それをしなかったのは微かな期待が恐怖心を上回ったからとも、未知のものに対する冒険心とも言えよう。
「なにをしているんだい?」
「こう、足もとからぱくりって食べられないか怖くってさ」
「わたしの家をなんだと思っているのさ。借家だけど。それに雨に濡れて死のうと言っていた人間とは思えないねぇ」
「怖いものは怖いじゃないか。それに痛いとか苦しいとかは嫌なんだ。齧られるとか、なんかこう、すっごく痛そうな響だもの」
「あっはっは、ほんとおかしな旦那様だねぇ。丸呑みにされたら痛いとか感じずにおだぶつだろうに」
中に這入れば、格子の中仕切り、鈴のついた赤い簾、部屋の中央には長火鉢が置かれていて、薫は古民家だとか、茶屋だとかを想起させる。
濡れた服で、上がり框に腰を下ろそうかと迷っているうちに、女性がどうやら手拭を持ってきてくれたようで。
「拭いてあげるから、ちょいと屈んで」
「じ、自分で拭くよ」
「遠慮なんてすることないのに」
半ば引ったくる勢いで手拭を受け取り、気恥ずかしさからか、必要以上に頭を顔まで隠してごしごしと。
女性に優しくされた最後の記憶は母の……とまでは遡らないにしても、ここ数年間そういうこに縁がなかった。久方ぶりの感覚に耐性も薄れた、とすれば、彼の名誉のためにこれ以上は止めておこう。
薫は思った以上に身体が冷えていたらしく、ぶるりと背筋を震わせる。
と、薫は暖につられ、光を求める夏の虫の考え無さで、そのまま火中に飛び込まんばかりの勢いで中へと這入った。