迷宮(ラビラント)の入口
『銘酒屋』
「めいしや」と発音する
銘酒を売るという看板を掲げ、飲み屋という名目で私娼を抱えていたお店
「いっそ飛び降りてしまおうか……」
男は橋梁の真ん中で、隅田川を渡る屋形船の船尾を漠然と目で追いながら、いっそ身投げしてしまおうかなどと不穏な言葉を口にする。
波と泡の線の跡に、虚しさ、とか、やるせなさ、とかを覚え、胸中にか黒い考えがふつふつと沸き上ることを止められない。
そのままぐっと欄干に寄りかかり、溜め息をついた。
あまり広いとは言えない橋の歩道では、通行の邪魔になって仕方がない。
よれた背広に、魚の形をしたネクタイ。それを蟹のハサミの形をしたネクタイピンで留めているという、なんとも感想の言い難い小物で。
目には精気が無く、何もかも放り出してしまいたい気分で、意気地に欠け、生彩を欠き、生きる気勢すら失いかけている。
このくたびれた男は、山桜薫というたいへん麗かな名前の。
せいぜい虫に食われて枯れ果てた木の、更にはどぶ川のごとく濁った眼をした男には似つかわしくないほど爽やかな代物で。
この状態のまま満開の桜を目の前にすれば、名前負けの申し訳なさから、木の下にでも埋まり、養分となったほうが社会の役に立つのではないかと、そんな心境になること間違いない。
きっと、あれほど見事に咲くためには、人が一人くらい埋まっていなければ道理に合わないのだろうから。
昼前までは良い日和で。
薫の気分を反映させたわけではないが、昼を過ぎた辺り、空は墨流しのように暗く、うっすらと光の漏れる破れた雲の合間に、むらむらと更なる雲が累なり合い、薄墨の布で縫い合わせたよう。
空が黒く濃くなるにつれ、風が出てきているようであった。
多くの人が傘を掻き抱いている。と言えば、今の天気が推し量られるというもの。四辺は霧と靄が立ちこめてきて、普段見えるはずの汐入公園の姿も隠され、更にはいつもならばこの白鬚橋から聳え立って見える電波塔も、うすぼんやりとして正体を得ない姿。
さながら、蜃気楼か白昼夢のような、茫漠とした気配に呑み込まれ、見知った場所だというのに、どこか見知らぬ場所のような錯覚に襲われて。
深い霧で覆われた街の、別世界のような風情を漂わせる。
だというのに、そんな中、男はしみったれた声を響かせる。
「いやあ、でも高いところから落ちると、水面はコンクリート並みの堅さになるって聞くし、きっとすっごく痛いんだろうなぁ。いやだなぁ。痛いとか苦しいとか辛いとかいやだなぁ……。でもなぁ……」
などと、煮え切らず、要領も得ず、なにが言いたいのか分からないことをぼやくばかりで。
白い橋から見える茫洋とした景色を眺めながら、ぽつり、ぽつりと、口から吐き出される言葉は『辛い』だの『死にたい』だの『働きたくない』だの、曇り空よりも湿っぽく、さながら長梅雨に放置したTシャツから生えてきたカビと茸の臭気を発している。すなわち、辛気くさいことこの上ない。
この薫という男の。
楽しみもなく、趣味もほとんどなく、酒も嗜まず、煙草も吸わず、なにを目的として生きているのかも分からず、ただ、日々を無為に過ごすばかりの。
仕事の上司が厭で厭で堪らないほど厭であるが、転職する気概も気力もない。
新人歓迎会で新人に隠し芸をやらせるような上司だ。
とにかくお祭り騒ぎが大好きな上司で、ことあるごとに飲み会だのなんだのと開催したがる。
そのくせ幹事などすることはなく、自由参加だとのたまっておいて、参加しない者がいれば、次の日露骨に態度に顕れる。
居丈高な態度。自分の思いつきで仕様を変更するが、納期は伸びない。
思いつきで、会員登録した人間にダウンロード出来る、簡単なアプリゲームを用意するように言われたが、納期は延びない。
思いつきで、仕様を追加するが、納期は決して伸びない。
部下が失敗すれば部下の責任で、部下が成功すれば上司の手柄になる。
あの脂下がった顔で『僕の言ったとおりでしょう』などと言われれば、苦痛は最高潮になる。
死霊の行進が終わり、半ば無理矢理半休を取らせれ、しっかりと部下の管理もしているなどとアピールすることだけは一人前で。
薫など、家に帰ってもすることが無いため、もしくはなにもかもが疲れ切ってしまい、こうやってぼーっとしているのであった。
通りがかる番に、「あの人、飛び降りそうじゃない?」「マジ? 警察とか読んだ方が良い?」なんていう会話が聞こえてきて、確かに、飛び降りようかと迷っていたところで、しかしそんな気分にもなれず、踏みとどまり、いや、ただ意気地がないだけだと頭を降り、終いには居たたまれなくなり、ばつの悪い表情を浮かべ、そのままとぼとぼと明治通りを東に歩いていく。
自分の家の方角とは違うのだが、たまには散策も良いだろうと進む。
それには「特にしたいこともないし」と、すべてを台無しにする言葉が続くが。
秋口だというのに暑さがまだまだ残り、数分歩くだけで、額から汗がじんわりと滲むほど。
湿気と熱気のさなか、それでも天気からか、段々と肌寒くなってきたようにも感じられる。もしかすれば雨が近いのではないかと、薫は空を仰ぎ見る。
もう少しすれば夕方だろう。
視界に入る通りの街路樹も、まだ青さを残しているが、ところどころ、にわかに詫びだつ、紅葉の気配が混じる。
途中休みながら、百花園を横目で見て、東向日駅を通り過ぎ、交番を横切り、そういえばこの辺りは昔、銘酒屋の看板を掲げる店が建ち並んでいた場所だったと思い出した。が、それも上司が花見かなにかの席で、得意気に語っていたことだったと思い起こし、げんなりとした。
ふと、商店街の廂間の隙間の細い路地に目が行き、惹かれる。
しばらく忘れていた冒険心とか、好奇心とか、興味心が沸き上がり、酩酊でもしているのかのごとく、ふらふら路地へと足を踏み入れる。さながら人魚の歌に導かれる船頭か、さもなくば笛吹き男に誘われる子どものような。まるで頼りない足取りで這入っていった。
店の雑多な裏側の、室外機や段ボールなどが見え、入り組んだ道には、玄関の軒先に自転車や、乳母車にも三輪車にもなる物が置かれていて、車も2台がぎりぎりすれ違えるかどうかの広さで。
真新しい家から、古びたアパート、進む先に道が分かれ、更に進めばまた道が分かれ、さながら複数の枝分かれした樹林のような様相を醸し出している。
と、次に曲がった先の角で見つけたのは張り紙――だった。
誰かの悪戯心で設えた代物なのか、『とおれます』『近道』『安全通路』『いろは通り』など書かれたものがあちこちに点在している。
特に薫の目を惹いたのは『泥酔通り』などと書かれた横看板。
派手な色の板切れが、さも商店街の入口のような顔をして居座っていた。
そのような面白い名前の通りなど、この辺りで暮らし始めてから一度も聞いたことがない。
道とも呼べない通廊の、向こう側は真っ暗で、光すら窺い知ることが出来ない。さながら深淵から覗かれているような錯覚さえ感じる。
しかし、何故だか薫は惹かれ、ふらりと足が勝手に進み、吸い込まれ、感興と心奪の尾を曳きながら道へと踏み入った。