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くしゅん。
ペルセフォネは再び小さなくしゃみを漏らした。ハデスが首布の半分を巻いているので、むき出しになった腕が冷たい空気に晒されてしまっていた。
ハデスはローブも脱いだ。首にある一つの留め金を外すと、股下まで音なく指を滑らせる。ジッパーのようにひと流れで合わせ布を開いた。そのままそれをペルセフォネの肩の上から掛けてやる。一回り小さな背丈のペルセフォネにとっては、ハデスの黒衣は余りある。布先が地面についてしまう。ハデスは下についた布先と腕を通さず垂れ下がった両袖を、目をぱちくりさせながら大人しくしているペルセフォネをそばに器用に結い上げていく。詳しい工程も捉える間も無く素早い動作で作業を終える。
「ーーーまあ、素敵!」
ハデスの黒衣はペルセフォネの身体に結ばれ、ポンチョのように上半身を覆い隠した。暖かさだけでなく、ペルセフォネの衣服にひとつアクセントをもたらした、まあその、おしゃれな感じになっていた。
上着を脱いだハデスは、全身黒のシャツとスラックスのシンプルな格好であった。季節外れの格好とはいえ、人間界で着用するには違和感があるものではない。もともと、黒衣の下は人間界で過ごせるような格好を身につけていたのだ。以前人間界に降り立った際に身につけたままであったが、黒衣の下で、自然と時代に合うような人間界の服装に変化していた。それはともかく、ペルセフォネはハデスの体温がまだ残る衣服をハデス自身から身につけさせてくれたことへの喜びで、くるりくるりと回りながらあちらこちらをふらふらうろついた。そのせいでハデスと繋がる首巻きはシュルシュルと解れてしまい、ふたりの姿を再び現す形となってしまった。
突然現れた外人美男美女に道歩く人間達はざわめいた。
ーーー撮影?カメラは?
ーーー芸能人?ハリウッド!?
現代の格好に合わせた、とはいえハデスの格好は今の時期では些か布地が足りなすぎる。取り落とした首布を拾い上げながらハデスが追う先のペルセフォネは、興味深々で周囲の景色を見回し、矢継ぎ早にハデスに質問を繰り返していた。
ハデスもついそれに答えてしまっている内、ペルセフォネは誤って躓きがくんと体制を崩してしまう。ハデスも手を差し伸べるが、ガイアの言うゲームを思い出しピタリと止まった。
触れずに生活する。
当然支えるため腕を掴むなどは御法度である。ペルセフォネはなんとか自分で起き上がることが出来た。まだこの世界に来た理由を知らないままであり、今回は事なきを得たものの、まだまだ予断の許さぬ危うい状況である。
衆人環視に気付いたペルセフォネは、ハデスに自分の様子がおかしいのかと不安げに問うた。目立つ格好をしているからと適当に理由付けしながら近づいたハデスは、改めて首布をペルセフォネと自身に巻き直した。透明になったふたりは、消えたどこだと騒ぐ人間達の最中、速やかにその場から離れるのであった。
「あら?は、ハデス、皆、私達のこと気づいてないみたい」
「これを巻いていると、姿を見えなくすることができる」
「ええ?どうしてそうするの?」
「今の格好では目立つからな」
そうね、早く着替えなくちゃね、と逸るペルセフォネの首布をやや引き、はしゃぐ犬のリードを引く飼い主のような気分になりながら、ハデスは自分の懐を弄った。ガイアが忍ばせたるうるぶっくなるものを探ってみる。
ない。
確かに人間界に降りる寸前、ハデスの胸倉をガイアの手管が這い回った感触があり、何か入れたような素振りがあった筈だ。
ブラフだったのか。ただからかっただけなのか。
そのどちらでもある気がした。ガイアはひとを振り回すのが大好きなのだ。
さて、つまりはなんの準備もないまま知らぬ地へ放り出されたわけだ。事情を知らぬペルセフォネは不思議そうにハデスを、なんら疑いを知らぬ目で見つめてくる。さて。
困ったな。
ちっとも困ったような表情でなく困ったハデスは、やり場なく溜息を一つついた。
「あら?葉っぱが動いているわ」
ほんの軽い空気の排出であった。ペルセフォネが驚き指差す。ハデスを吐いた息がちょうどはらりと落ちた近くの木の葉に当たった。するとその葉は地に落ちることなく、ふわふわり、低空飛行を続けながらハデス達の前を通り過ぎた。その場でぴたと止まるが、ややあって浮き進む。また止まる。ハデス達の様子を伺っているとでもいうのか、その葉は妙な動きを繰り返した。
「この子、ついてきてって言ってるのかしら?」
見たことない現象に瞳を煌めかせるペルセフォネは、わくわくを抑えられぬ様子でハデスを仰ぎ見た。ので、ハデスはもう一つ溜息をつきながら、ペルセフォネの言わんが言葉を代弁する。
「………ついていくか」
ハデスたちが付いて行く先で先導する葉が一枚。人間から見れば葉っぱがひとりでに浮いているように見えるだろう。変に思われても面倒なので、ハデスは首布を伸ばして葉にかけてやる。布地の重みにも負けずその葉は、首布ごとふわふわと浮き進んでいった。
「まあ、すごい葉っぱ!」
はらり、と葉が浮力を無くし落ちた先は、ペルセフォネが声を上げた通り、手入れを放棄された植物たちが好き放題伸び、恐らく僅かに見え隠れするもので判断するに建物らしきものを覆い纏っていた。葉が落ちた目先には、微妙に取手のようなものが。扉かと思われる。ハデスは躊躇わずそれに手をかけると、ぶちぶちと草木の膜が千切れるのにも構わず門戸らしきものを開いた。ぎい、と年季を感じさせる音を軋ませながら開く。開いた先もまた、入口以上に荒れ果てていた。蔦や蔓が二度と解けぬようなほど複雑にからまりあい、名もないような雑草たちがハデスのしかいさえも覆うほどに伸びきっていた。
「見えないな」
ハデスは入口同様に力尽くで草根を掻き分けようとする。
「あ、待って」
おっかなびっくりでハデスの後をついてきたペルセフォネが静止する。
「葉っぱさんもあんまり引っ張ったら痛いわ。生きてるんだもの」
そう言うと、ハデスの横にしゃがみ草根に向かって呟いた。
「私たち、中の様子が見たいの。ちょっとだけどけてくれないかしら?」
ずざざ。
ペルセフォネの声に呼応するように、絡まっていた草根たちは潮引きに似た動きであっという間に隅へ身を固まらせた。
「まあ、お家だわ!」
荒地と思われた土地には、かなり立派な純日本家屋が軒を構えていた。ペルセフォネの一声で、モーセのようにぱっくりと雑草が二分した動きを見たハデスは、神の息かかった屋敷であろうことを察した。
〜今日からここに住むべし。~
しゅるる。
掻き分かつ蔦蔦がハデスの足元まで伸び、ご丁寧に句読点まで形作りながら文字を現した。
それはすぐに崩れ、だらしなくハデスの周りでばらけた。
「ハデス、どうしたの?」
足元をじっと見つめていたハデスを訝しんだペルセフォネ。先程の植物の動きには気づいていない様子だ。
「いや、なんでもない」
ハデスそう短く返した。




