絶対に触れてはいけない24時、降臨
ーーーーいつも見上げるばかりだった空。今はこんな近くにあるなんて。
ペルセフォネはふうと気を失った。一度に起きた出来事は、彼女にとって受け止めるにしてはあまりに多すぎたのだ。
ハデスは力無くしたペルセフォネを落とさぬよう、より深く抱え込んだ。気絶した少女と落下による重みが同時に伝わる。
『今のうちにたあぷり触っておくがよいぞの』
ガイアである。落下するハデスの真横に顔を位置づけ悪戯に息を吹きかけた。厳密にはガイアの精神がハデスに語りかけていた。ガイアの精神は形をつくり、本来の巨躯にあらず、平均的な女性のサイズに収まっていた。落下で上下にはためくハデスの髪が僅かに横に凪いだ。ガイアほどの力を持つ神ともなると、精神を具現化させ相手に接触することすら可能なのである。ペルセフォネを抱え腕が塞がっているのをいいことに、ガイアは好き勝手にハデスの身体を撫でくり回しながら続けた。
『ほおんにつれないのおう。ちょぴりでも反応すれば面白いんに』
ガイアはつまらなそうに唇を尖らせると、何気なくペルセフォネの方へと手を伸ばした。
ぱしり。ややバランスを崩しながら、ハデスはペルセフォネを片手で支えつつ、ガイアの手を払いのけた。その様子を見たガイアは目を瞬かせながら口角を持ち上げた。
『楽しませてくれそうやのお、ほんに』
満足げに鼻を鳴らすと、ガイアはハデスの懐にぬるりと手を差し入れた。
『我が秀逸な閃きを詰めたるうるぶっくを忍ばせてやあたぞや。うまいことやるのやぞ』
ーーー地に足つけた瞬間から、すたあとよ。
そう言い残しガイアは煙のように消えていった。
眼前にはすでに足場が迫っていた。
ハデスは唐突にペルセフォネを放り上げた。支えを失った身体は重力に従い地へ落ちていくーーー寸前、ハデスは空間を操り見えない籠を作り出す。ペルセフォネは危なげなくそれに受け止められる。地面まで触れるかどうかのギリギリな場面であった。
ハデスは衝撃を伴わないよう慎重にペルセフォネを寝かせた。緩やかなウェーブを描いた亜麻色の髪が、横になった顔にぱさりとかかる。それを見たハデスはどけてやろうかと手を伸ばすが、地面の感触を唐突に感じると、その手を素早く引っ込めた。
頭上に広がるは、雲もまばらな青い空。天の限りも捉えることも叶わぬ地上ーーー人間界に、降り立った。
ーーー人々が行き交う、大都会の交差点のど真ん中に。
確か、人口の過密さから観光名所としても知られている場所だとか。コンクリートで固められた地面には鮮やかな白黒の塗料の線が描かれ、規則的に並び人々の交通整理に一役買って出ている。目が痛くなるようなありとあらゆる色が空を覆い尽くさんばかりの建造物にふんだんに駆使されている。オリュンポスや冥界とはまるで違う特異な景色に、ハデスはしばし目を奪われた。なにぶん人間界に降り立つのは久しい。知らぬ間に自分達で独自の社会を作り上げていったようだ。
ーーークシュ。
ハデスは小さな音の出所に目を落とした。ペルセフォネは気絶から睡魔へと誘われていった様子で、先ほどから控えめな寝息が聞こえていた。ハデスもペルセフォネも、元の世界のままの意で立ちである。ハデスの黒衣はローブのように丈が長く、目に見えないほど編み込まれたそれは保温性に長けた優れものである。冥界は地上と比べ気温が低いので、自然と防寒を考えられた装いとなる。一方のペルセフォネは、地上オリュンポスの住人である。オリュンポスは年通し穏やかな気候が保たれ、春と夏の中間程度の、少し暖かいくらいの過ごしやすい環境である。故にハデスよりも布地は薄い。ペルセフォネはノースリーブのドレスに似た格好である。真白な腕や大きく開いた襟元から覗く首回りが寒々しい。ハデスらを避け足早に歩く人間達は皆コートやマフラーなどに包まり身を縮めながら歩を進めていた。
ハデスは自身の首に巻かれた布を外した。黒に近い紫のそれは幅が広く長い。じぐざぐに折りたたみペルセフォネの首回りと腕が覆われるように掛けてやった。
ペルセフォネはまだ目を覚まさない。肩を揺さぶり起こすことも出来ないので、ハデスは膝を折り静かに呼びかけた。
「コレー。起きろ」
むにゃむにゃ言いながらもペルセフォネは目を開けず。
「んーん、ちあうわ、わたしの名前はぺるせふぉねよ……」
「………起きろ、ペルセ」
寝言で訂正されてしまったので、従いついでに愛称で呼びかけてやった。
「ペルセ」
ーーーんん……
ペルセフォネは微睡みの中、急な肌寒さに身を震わせた。何かが上に掛かり、じわりと暖かさが広がり、心地よさに再び眠り込もうとした。しかし、何かが自分を呼んでいる。コレー、いや違う。ペルセフォネという名を好いた相手から名付けてもらったのだ。私の名前は
「ペルセ、起きろ」
「ひゃわ!?」
急にクリアになった視界に目一杯広がったのは、件の最愛の彼の整った顔であった。ペルセフォネが起きたのを確認すると、ハデスはふいと顔を引き離れていった。ペルセフォネは弾かれたように飛び起きると、全く見慣れぬ辺りの景色に目をパチクリさせた。
「あ、あら?お母様は?ここはどこ?」
「人間界だ」
「にんげんかい……」
ーーーピロリン。
「やっべこっち向いた!」
「つーか何?急にいたんですけど!」
「どこの国の人?女起きた」
ここは人間界である。ガイアの計らいにより、地に降り立った瞬間から人間達の目に映るよう仕向けた。忙しく歩く人間達は、現れたハデス達を今まで道を歩いていた一部として認識した。しかしペルセフォネを起こそうと暫くその場に佇んだことにより、徐々に人間達から奇異の目で見られていく。始め通行の邪魔だと言わんばかりに面倒臭さそうに避ける中年のサラリーマンたちだけだったものが、興味関心の旺盛な若者のスマートフォンが盗み撮ったのを皮切りに、いつの間にやらハデス達を囲み円のような人だかりが出来ていた。
ハデスもペルセフォネも、オリュンポスの住人も羨むような美しい容姿をしている。はっきりとした目鼻立ちや高い背丈が、周りの人間達とは明らかな人種の差を示していた。
ここは人間界ーーートウキョウの都心である。
「これは、よくないな」
ハデスは未だ状況が掴めていないペルセフォネに掛かった布を摘み上げると、自身の首に巻き直した。すると布先が伸び、ハデスはそれをペルセフォネの首に巻いてやる。マフラーを二人で分け合うような感じだが、マフラーにしては離れて歩いても首が締まらないほどに余裕がある。
「え、消えた?」
「うそ、どこ行った!?」
ハデスの巻く布は通常はストールやマフラー変わらない。が、彼の意思により巻いた存在を視認出来なくする力を発揮する。騒ぐ若者達の反応の通り、ふたりはその場に居ながらして透明人間と化したのであった。
「とりあえずここから離れる」
「え、なあに、ハデス?」
そのまま歩き始めたハデスとつながる首布も、彼の動きに合わせて引っ張られる。ペルセフォネは慌てて立ち上がり小走りで追いかけた。
ハデスとペルセフォネの人間界生活は、こうして始まったのだった。




