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『デメテルのむすめごや、ハデスやも、おぬしらぞ、人間界で暮らしてみい』
「ーーーは!?」
『んん、ようやと口開いたかや、まあたく、ぶすうとしてからに』
デメテルはガイアが苦手だった。ゆったりとした独特の口調で遠慮ない物言いは他の神々にはないもので、どうにもペースを乱されてしまう。何よりもひとの心を見透かすような目が落ち着かなかった。
『まあまよお聞くぞや、デメテルの恋路も無下にはせん考えなのぞ』
「こ、こいーーー」
『なあんに、しらばくれても無駄ぞな。ずうと見ておうたぞや。デメテルがハデスをの』
「あああああああ」
突然大声を上げたデメテルの声量でガイアの台詞の後半が掻き消され、なんと言ったのかハデスには聞き取れなかった。くつくつと悪戯めいた表情のガイアから察するに、デメテルをからかうような内容だとは思う。
ハデスもまた、デメテルと違った意味でガイアが苦手だった。クロノスから解放され、三つの世界を統治するようになってからは、ガイアは傍観に徹していた。以前はひとりで子供を産んでその子供と子供を産んで、とゼロから苦労したガイア。苦労の末に安寧の隠居生活を手に入れたのだが、最近は暇を持て余したのか、気分次第で方々ちょっかいを駆け回っていた。ハデスも例外ではなく、仕事を中断させられることは一度だけではなかった。ゼウスのような同格の神ならまだしも、下手に力を持ちすぎるご隠居相手では、さすがのハデスもその場をやり過ごすしか手はなかった。今回も適当な思いつきで周りに迷惑をかけるのだろうな、と既に回避不可能であると確信したハデスは諦めたようにため息をついた。
コレーは突如現れた巨大な女性におろおろ、びくびくと忙しかった。デメテルを交えた修羅場も、彼女の登場で一気に霧散してしまった。自分のことも言われて、何がどうやら、なぜどうしてがぐるぐる渦巻いていた。
『それでデメテルのむすめごや。んん、コレーといえばよいぞ?ハデスの嫁ごになればペルセフォネと呼べばよいぞ?』
「あ、えっと、ペルセフォネって呼んでください!」
コレーもといペルセフォネは、反射的にハデスに名付けられた名を希望した。デメテルが狼狽えながら複雑な顔をする。物言いたげだが、ハデス本人の前でまたガイアの口が滑りかねないのでだんまりを決め込んでいた。
『ほほおう、恋敵の前で強気に出たものぞ』
「恋敵?」
自分と同じようにハデスを好いているものがいるらしい。ペルセフォネは誰だろう、と辺りを見回した。あからさまに眼を逸らしたデメテル。誰であるかは明白なのだが、母親に直に避けられる瞬間を目にしたショックの方が大きく、当事者探しは二の次になった。
「おかあさま…」
「ふ、ふん、私の娘はコレーよ。ペルセフォネなんて名前の子は知らないわ」
「そんな、」
ハデスへの強い風あたりに思わずムキになってしまったが、やはり血の繋がった母親から拒絶されるのは悲しい。ペルセフォネはしゅんと縮こまった。デメテルはその様子に胸がずきりと痛んだが、あえて知らないふりをした。うそぶいたとはいえ可愛い娘の悲しむ姿はデメテルにとっても悲しく、だんだん強気な態度もしおらしくなり、親娘でだんまりしんみりと立ち尽くしてしまった。
『意地悪いおなごよのお、むすめごがかあいそうぞ』
呆れたようにガイアは欠伸を漏らした。次いで不満げに鼻を鳴らす。
『話が逸れてばかりで進まぬぞや。まあたく、皆聞けい』
改めてこほんと咳払いすると、ガイアはずびしと無遠慮にハデスとペルセフォネを指差した。
『ともかく、おぬしらぞ、人間界で暮らせい』
「に、にんげんかい?」
先程から出てくる馴染みない言葉にペルセフォネはきょとんと首を傾げた。
『おお、ペルセフォネは知らんぞや?人間界はの、こことは全く異なる新しい世界のことぞや』
「新しい、世界」
ペルセフォネは心をくすぐる単語に徐々に瞳を輝かせた。すかさずデメテルが抱き寄せ言った。
「ちょ、ちょっと!人間界なんて野蛮なところに!しかも男と暮らせなんて無茶よ!」
『ハデスの柄を知いておろ。ゼウスめではないぞや?たやすく尻を撫でる男でもあるまい』
「久々、俺の台詞。ていうか俺がいきてーわー。コレーちゃんと人間界バカンス。ん?俺が嫁にするとしたらコレーちゃんの名前何になんのかなぶべえ」
「あんたは、黙って、いなさい」
空気も読まず話の腰を折り近づいてきたゼウスを、デメテルはコレーを抱えたままぶん殴って沈めた。間近で母の制裁を目の当たりにしたペルセフォネは自分が見に受けたかのようにぎゅっと目を瞑り身体を強張らせた。
「みなさい、こんな風に、コレーに下衆な考えで近寄る男なんていくらでもいるのよ!」
いくらハデスが紳士的でもねごにょごにょ、とデメテルは尻すぼみな口調で何やら呟いた。それもしっかり耳にしたガイアは、予想通りといった顔つきで続ける。
『わかあておるぞや。デメテルはむすめごに触れる男をよしとせんのであろ?ーーーなあら触れねばよきだけぞ』
「それは、どういうーーー」
『だあからの、人間界に暮らす間、ハデスはむすめごに髪の毛一筋たりとも触れねばよいんぞ。ああ、むすめごも同じぞ。公平ではないからのおう』
「な、」
『勿論、むすめごの危険はハデスがぜえんぶ何とかするのぞ。触らぬままでなあ』
どうぞな?文句のつけようがあるまいや?と自身の案に満足げなガイア。しかしそれは、あまりにハデスにとって厳しい。ハデス自身の下心が非常に、無いに等しいと言っていいほど少ないことは好条件であったが、暴漢の手から、またペルセフォネ本人の不注意での危険から守るのに、手を掴むことも出来ないならば一体どうすればよいのか。何より日常を過ごすにあたり完全に触れずにいられるのだろうか。
「そんなの、出来ないわ…」
ペルセフォネは絶望の声を上げた。ハデスの厳しい条件もそうであるが、自分がハデスに触れることができないのが辛い。とても。ハデスの逞しい胸板や優しく頭に触れる大きな掌の感触を忘れられぬペルセフォネ。そんなの、我慢できるはずがない。
『なあんも言おうぞがもう決めてもおたのよのお。けってえい。意見は受け付けぬぞやあ』
「、」
「え、きゃあ!?」
ふふーんと鼻歌交じりのガイアの両手が大きく天へ伸ばされる。バキバキ、とその動きに呼応するように、ハデスとペルセフォネの足元は地盤ごと大きく捲れ高く浮き上がった。咄嗟にハデスは体制を整えたが、ペルセフォネは叶わず足を踏み外してしまった。地盤は急上昇し続け、ペルセフォネは呆気なく地面へ落下してしまうーーーのを、ハデスがペルセフォネの地盤の方へ飛び移り抱き上げ事なきを得た。その行動を面白そうにガイアは見やる。片方に乗り移ったのを見るや、ハデスが乗っていた地盤を引き上げていた手をふいと下ろす。地盤は瞬間、力を失ったかのように真っ直ぐに地へ落ちていったーーーデメテルの、真上に。
「あ、」
デメテルは動揺し動きを鈍らせ、回避する事ができぬほどの距離まで地盤の侵入を許してしまっていた。不死とはいえ、直撃してしまえばひとたまりもない成す術なくデメテルは身を固めた。
パアン!
デメテルの眼前に迫った地盤は、瞬時に砕け散り小石の粒となって降り注いだ。瞬時にハデスが空気を圧縮し、弾丸のように地盤めがけて弾き飛ばしたためである。
そばにいて、とっくに復活していたゼウスはハデスの動きを察知し、自らが動く事はなかった。というかゼウスの能力は全体的に大味で、細かな動作には向いておらず、至近距離で下手に手を出してしまえばデメテルに危害が及びかねなかった。
「お、かあさまーーーー」
ハデスの腕に支えられたペルセフォネはデメテルの無事に安堵の息を漏らした。ハデスも心中で同様の思いをしながら、たちの悪い悪戯を仕掛けたガイアを見上げた。
『おう、おう。こわあいかんばせしおうて。ちょっとした練習ぞて。デメテルはよかども、むすめごには手が出てもおたのおう』
「………他にも制限がありそうだな」
『ふふう、それは本番でつとえてやろうぞ。では、はじめい!』
ハデスが物言う間も無くガイアは残りの掲げた手でばちんと指鳴らす。するとパクリと地面そのものが大きく割れ開き、ふたりの立つ地盤は重力に従い下へ向かう。もう一度ばちん、と指鳴らす。
地盤が微塵と化し、ふたりは、完全に宙へ投げ出されていった。
「ーーーコレー!!!」
デメテルが慌てて割れ目覗き込むも、ふたりの姿は既になし。
デメテルは後悔した。己がもっと寛容で、素直になれたら。
もう遅かった。
「落ちたねえ」
『落ちたぞい』
似たもの親子か、ゼウスとガイアは状況を楽しんでいた。
「これからどうなるん?」
『まあの、いろいろ仕掛けもありきよ。よき暇つぶしになりそうぞ』
ガイアは今後の展開に大いなる期待を寄せながら、にんまりと口端を吊り上げたのだった。




