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おそらく、初めてではなかろうか。
デメテルの園へと足を踏み入れた男は。
そして、その場ですぐ、盛大に拳を振るわれたのは。
ーーーがっ!
張り手など可愛げのあるものではない。グーである。怒りの頂点にある女の力は、無抵抗の男の横っ面に見事にクリーンヒットしたのである。
さすがの鉄面皮ハデスの頬も受け入れきれず、その衝撃から口端は避け、つらりと血が滴り落ちた。
「ペルセフォネ。冥王の妻ですって?この子の名前はコレーよ。勝手は許さないわ」
「お、おかあさま………」
「コレーは黙って。こっちへ来なさいーーー良いから来るの!!」
「い、痛い、おかあさま、いやーーー」
「このーーー!」
現れたハデスに駆け寄る前にぶん殴り先制。固まるコレーを無理やり掴むと、引きずるようにハデスから距離をとろうと強硬手段に出たのだがーーー
「ーーーよせ」
柔らかく包むように、黒衣を纏った腕がそれを阻んだ。
「ハデス!お顔、痛いでしょう!ごめんなさい、私がいけないのーーー」
「平気だ。…コレーは、痛くないか」
「平気よ!それと、私、コレーじゃないわ!」
「ああーーーペルセ」
「はい!」
「だ、だからコレーだと言ってーーー!」
「はーいもうこれ以上はイタイ。やめときなさいよ」
デメテルの園へ入った二人目の男が、泥沼の三者の間へ割って入り、激昂のデメテルを羽交い締めにし引き剥がした。
ハデスとコレーは、そんなやり取りすらも気づいていないといった風に、お互いの安否を真摯に案じ合っていた。
「…折角の景観を汚してしまった」
咲き乱れる花々の上に立つハデスの口端から滴った血は、幾つかの花弁に朱の模様を描いていた。
「汚すなんて、そんな!」
コレーはハデスの口端に触れると、未だ滲む血の湿りの感触に瞳を潤ませた。
「ひどい、ひどいわ。こんなに痛いの…」
「平気だ。あまり触るな、手が汚れるーーー」
「汚くないわ、ハデスの血だものーーー」
「あー、そこのおふたり、そろそろこっちの世界に戻ってくれない?」
ゼウスは爆発してしまいそうなほど顔を赤らませるデメテルを必死で押さえながら、ハデスとコレーの胸焼けするようなやり取りを止めにかかった。
それと同時に、ハデスの変貌ぶりに舌を巻いていた。
ーーーあのハデスが。少女漫画のヒーローみたいなーーー
ーーーおもしれ。
ゼウスは新たなおもちゃを見つけた子供のように目を輝かせにやついた。もはやお役目がどうたらなどこの男の頭から綺麗さっぱり消え去っていた。
「ハデスよお、なんか随分コレーちゃんにご執心じゃないの?惚れた?惚れちゃった?」
「あ、あのひと…?」
「あ、コレーちゃん初めまして!俺ゼウス!ピッチピチの男の子!」
「お、とこのひと…」
今になってゼウスを確認したコレーは、ハデスと同じ性別の存在に、何故か恐怖を感じ咄嗟にハデスの背へと隠れた。
「あれ?」
「寄るな、変態」
「ひどくない?」
「話を逸らさないで!!」
「ぐぼえ!」
ふざけるゼウスを力一杯振り払い、デメテルはハデスに詰め寄り胸ぐらを掴み締め上げた。
「この男の言う通りよ。ハデス、あなた。私の娘をどうする気?冥王の妻だとかふざけた名前をつけて!まさか自分のものにするんじゃあないでしょうね!?」
「おかあさま、やめて、おかあさま!」
絞め殺さんばかりの力強さで襟元を追い詰めていく。その剣幕に慄きつつも、コレーはハデスを助けるべく必死に細腕でデメテルに抵抗した。
「いいからこの男から離れなさい!」
「嫌!」
「お、ハーレムゥ〜」
激しい攻防を繰り返す親娘に挟まれるハデスを遠目で復活したゼウスが茶化す混沌とした現場には、先ほどからずっと身体を縮めていたニンフたち、騒ぎに駆けつけた神々やその他諸々の生き物たちがこわごわとやり取りを眺めていた。
「………コレーは、不思議だな」
ぽつり、とハデスが呟く。
ざわめいていた周囲も、コレーたち当事者たちの視線も、口を開いた男に一気に集中し、瞬時に辺りの喧騒は鳴りを潜めた。
ハデスは告白した。




