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ハデスは未だ未婚であった。
冥界を滑る立場としての忙しさ故に、地上に出ることは滅多にない。冥界の住人達は皆ハデスを尊愛しれおり、ましてハデスと番うなど恐れ多く。ハデス自身、妻を迎えるという考えは忙しさに関係なく至らずである。女へ向ける感情がほぼないのはクロノス幽閉事件のせいである。実際妻うを娶ったとしても、手の空かぬ夫、恐ろしい冥界での暮らし。ハデス自身に魅力はあれど、彼の願望の薄さも相まって嫁になる条件としてはかなり厳しいものと言える。そんなわけで、未だにハデスは独り身なのであった。
ハデスは考えた。もしもコレーが妻になったらを。
コレーのことは嫌いではない。純粋で、保護欲を唆る、どこか頼りない。己の傍らにいる様を考える。ちょこんと足を揃えハデスの腕に手を回し震える様をーーー
<こ、怖くないわ!>
ハデスの思考の伝わったコレーは、慌てて彼の予想を覆すべく強がって見せた。
<仮に妻になったとして、私は冥界ばかりいるがーーー>
<勿論よ!>
<コレーは冥界にい続けられるのか?>
<う、へ、平気だわ!>
<私は仕事で手荒な行為も厭わないがーーー>
<血、血がいっぱい出ることでしょう!?エアルとテロスが教えてくれたわ!悪いひとをめってするんでしょう?お仕置きだってこともわかるのよ!>
<ーーーとにかく怖いものばかりだと思うがーーー>
<ーーーハデスがいるから、平気だわ!>
ここまで食いさがる理由が分からない。妻になるには厳しい事実を述べているはずなのだが。
<ハデスが、すきなの。初めて会った男のひと。すき。ずっと一緒にいたいわ…>
まるで目の前にコレーが現れているようだった。ハデスの耳朶から身体全体にかけて、コレーの言の葉が隅々まで染み渡っていった。
<そうか>
<ーーーそうよ…>
<ーーーなら、これからは、コレーではなく、ペルセ、と呼ぶべきか>
<それってーーー>
<私の妻に、なるか?>
「な、りますーーー」
「コレー様!?」
口元を押さえ俯き涙したコレーに、驚いたニンフ達は慌てふためきどよめいた。
<コレー?>
<ーーーペルセフォネ>
<コレーじゃなくて、ペルセフォネ、て呼んで?>
<ーーー長いから、ペルセ、だな>
<はい!>
<ペルセ>
<はい…もう一回呼んで>
<ペルセ>
<もう一回!>
<ペルセ。もういいか>
<うふふ、まだよ、もう一回呼んで!>
「こ、コレー様ーーー」
「いいえ、私はコレーじゃないわ、ペルセフォネっていうのよ!」
「コレー。それは、どういうこと?」
青褪めるニンフ達。同じ青でも、こめかみに筋を立てたデメテルが、ニンフに答え振り返ったコレーの前に立ちはだかっていた。
「なあ。デメテル。聞いてる?デメテルちゃあ〜ん」
ゼウスは篭り気味のデメテルの元を訪れていた。明らかに情緒不安定な、しかもかなり虫の居所の悪い状態だと明らかな彼女を訪れるのは気が引けた。しかしゼウスの配下達の懇願、というより尻を蹴り追いやられる形で駆り出されたため、渋々腫れ物をつつく役を受けたのだった。
ゼウス自身、この状態はけっして黙認できるものではなかった。
塞ぎ込んだデメテルは、己の役目をすっかり放置してしまい、人間界はひどく深刻な危機に追いやられていた。農墾の神として人間界の作物たちの管理を怠ったため、人間たちの食料生産は大打撃であった。特に肉を口にしない民族の人間は死滅しそうなほどで。豊かではない人間達はお互いを食いちぎらんとする暴挙にまで至っていた。人間の数の減少に大きな手を貸していたのだ。
プロメテウスにより生み出された人間は、ゼウス達によって信仰という形で力を贈っていた。以前は人間めんどくせ、ぶっ殺そ、とノアの箱舟事件を起こしたものだが、信仰の力は人の数だけ強大である。もはや無下にできるものではなくなったのだった。己の利益が失われるのを見過ごせるほどゼウスは大らかでもなかった。
「………………なに」
「おーこえ。嫉妬してる時のヘラ以上にこええ。それはそうとデメテルさ、俺が言うのもなんだけどお仕事は?」
「………しらないわ」
「いやいや、子供じゃないだろーよ、そんなんじゃまかり通るほどちいちゃい問題じゃないのはお分かり?」
「………………」
「人間界はタイヘンよ?連続冬。氷河期到来レベルだよ?」
「………………」
「………あのさあ………」
ゼウスはまるで駄々っ子を相手にしている気分になりうんざりした。とても面倒くさくなったので、ついぞ躱していた大元の原因を抉ることにした。
「娘に好きな男取られたからってすねんの、すげえダサいよ?」
「………。ーーーーーー?、!!?はあああ!??」
「お、元気になった」
「だだだだれが、ハデスを、す、好きですってえ!?」
「俺ったらハデスなんて一言もいってないんだけどなあ」
「〜〜〜っっ!!!」
言い逃れできないほど真っ赤になり後ずさるデメテルは、まさに図星を突かれた者の模範的な態度であった。
「認めちゃえって。惚れてんでしょ?我がお兄サマにさ」
「だ、だ、誰がーーー!!」
「まあ娘のことだし?誰がどうしようと勝手かな?あーあ今頃ハデスってばコレーちゃんとラブラブチュッチュかなー」
「や、めーーー!ーーー〜〜〜、わかった、わよ。認めるわよ!好きよ!ハデスが!コレーが生まれるよりずっとずっと前から!ハデスのことが大好きよ!!悪い!?」
「や、悪かあないけど」
開き直り息巻くデメテルの勢いに飲まれかけながら、ゼウスはどうどうと前のめるデメテルの肩を抑えた。
「近親相姦おおいにけっこう。ただね、恋煩い拗らせてお役目放棄はいかん。いかんでしょ」
何を隠そう、ゼウスとデメテルはきょうだいである。さんざヘラとの婚姻を嫌悪していたのは、自らもその鉄を踏んでしまっていたからだった。二度とそんなことは思うまい、といった矢先の恋である。ハデスはゼウスの長兄である。つまりそういうことである。
「う、うるさい!私だって混乱してるのよ!ていうか娘とハデスなんて、違った意味で近親相姦じゃない!」
「ああー親子レベルの年の差セックス、燃えるよねえ」
「せせせ!ま、まさかもうしてるの!?こ、コレー!!」
「ま、さすがにそこまではなーーーあれ?」
またもやこの男神は事態をややこしくさせたのだった。
「お、おかあさま………」
コレーはハデスとの対話を絶やすほど動揺した。久方ぶりに見る母の顔が、背後に般若でも浮かび上がらせているようなほど憤怒に染まっていたからだった。
怯えるコレーを僅かに一瞥するデメテル。ぎらり、とおどろおどろしい眼光で辺りを見渡し、深く息を吸い込むと内なる怒りの炎を相手に思いっきりぶつけにかかった。
ーーーペルセ?
急に対話を途絶えさせたコレーを不審に思ったハデスは、最も疑わしき原因が瞬時に脳裏に浮かんだ。運の悪いことにそれが条件を満たしてしまい、怒れる母の恐怖を対峙する羽目になった。
<ーーーいるのね、ハデス>
<ーーーーデメテル>
<説明しなさい>
<ーーー今すぐ、ここへ、来なさい、早く!!>




