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「こ、こんにちは」
「ガウウウ…!」
コレーは門番の前に立ち、おっかなびっくりしつつも律儀にぺこりと挨拶した。
ケロベロスは見覚えのある女を前に、今度はヘマをせぬよう、気を引き締めて門の前に立ちはだかった。もう通さないぞ、と見せつけるように牙を剥き出し鋭い爪を持つ脚を何度も踏み鳴らした。
「あのね、また、通して欲しいの」
「グルル!!」
鋭い咆哮はダメだ!と言わんばかりだ。常人が尿を漏らすほどの迫力を見せるのにもかかわらず、コレーはおっかなびっくりながらも目を逸らさずに続けた。
「今日はお土産を持ってきたの。これをあげるから、通してくれないかしら」
コレーは胸に抱えた荷物の包みを解いた。
「お野菜、嫌いかしら?」
ケロベロスは地獄の門番である。恐ろしい風貌をした巨大な犬は、所詮は犬であった。
目の前にぶら下がった好物を前に、抗える理性は悲しいかな、持ち合わせてはいなかったのだった。
ーーーハデス様…あんたのとこに、デメテル様の娘さんが来てますよ…
いつも通り仕事をこなしていたハデスの心中に、随分と沈みきったヘルメスの声が響いてきた。彼の落ち込みようも気にはなったが、伝えられた言葉に聞き捨てならないものがあり、ハデスは一瞬動きを止めた。
「ハデス様?如何なさいましたか?」
腹心のひとりが主人の不自然な停止に目敏く気づいた。
「コレーがここに来るらしい」
「は、それはあのーーー」
ーーーハデス様の恋のお相手でらっしゃいますか!?
腹心は表面上冷静さをとり繕いながら、後から続く言葉を内心で嬉々として叫びながらハデスを窺う。
「来た」
またもやケロベロスが門番の役目を放棄したらしい。侵入者の気配がハデスに伝わってくる。一体コレーはどんな手を使ったのか。ともかく、このままにしておくわけにはいかぬ。また仕事が遅れてしまう。ヘルメスと同じように少し滅入りながらも、仕方なくハデスは手を止め立ち上がった。
「ハデス様、どちらへーーー」
「デメテルのところに返してくる。悪いがーーー」
「お仕事の方はお任せ下さい!ハデス様の分もやり遂げてみせますぞ!」
「………助かる」
聞き分けが妙に良すぎる部下を不思議に思ったが、ハデスは素直に厚意に甘え、無害な侵入者の確保へ向かった。
ハデスが去った後、腹心は恐ろしいスピードで残された仕事を終わらせると、影のように音もなく、凄まじいスピードで出歯亀すべく彼の後を追ったのだった。
コレーは事前、ニンフたちから得られる限りハデスの立場と、冥界の仕組みについて教えられていた。
冥界は地上とどのような違いがあって、それを治めるハデスはどのような存在か。それらを大まかながらコレーはしっかりと頭の中に入れてきたのだ。
予備知識を手にいざ参らん、としたものの、やはりひとりで来る冥界は不安だらけだ。第一。ニンフの協力でここまで来れたものの、ハデスがこの広い冥界の何処にいるかは全くの手探り状態である。しかもデメテルの隙を突いてやってきているので、気付かれぬうちに戻らねばならぬ為滞在時間は限られている。前回よりうまくいくと思っていたコレーは、考えの至らなさに気づき出鼻を挫かれてしまった。
ーーーどうしましょう。私ったら、なんておばかさんなのかしらーーー
門を通り過ぎすぐに広がる無限にも思える広さの冥界に、コレーは立ち尽くしたまま俯き、既に泣きそうになっていた。
「懲りないな」
低い、やや呆れの混じった声。コレーが求めてやまなかった彼のもの。
「ハデスーーー」
「帰れ」
しかし降ってきたのは非情な言葉である。ハデスはコレーの背後、地上への出口を真っ直ぐ指差して言った。
「ここはお前の来るような所じゃない。デメテルに心配をかけさせるな」
冷たいようだが、ハデスも忙しい身なのだ。少女ひとりのためにちょくちょく時間を作れる程暇ではないのだ。ただでさえ不安定な精神状態のデメテルを刺激するのもよくない。ハデスはもう一度帰れ、と呟くと地上への門にゆっくり手をかけた。
「ーーー待って!」
その手をコレーはひしと掴む。振り払うことも出来たのだが、デメテルのことを考えると、どうにも娘を傷つけまいと身体が動いてしまう。ハデスは抵抗しないまま、手を掴むコレーを見た。
「あの、もう少し、お話出来ないかしら」
「忙しい。残念だが、以前のような時間を作るのは難しい」
「そ、そうなのーーーめいかいのお仕事、大変なのね…」
「ああ、だから」
「あの!色々助けてくれてありがとう!」
すっかり元気になったわ!と前回治療された腕を振ってみせる。ああ、それはよかったと生返事する。なぜだかうまく事が運ばない。ハデスは食い違うタイミングに首を捻らせた。
「ーーーごめんなさい。言う通り帰るわ。我が儘言っちゃって、本当にごめんなさい」
離した手を門に添えると、コレーは振り返らずハデスを見た。
「また、会える……」
「……難しいな」
「これで最後なのかしら」
うるりと、コレーの涙腺は緩くなっていく。このままで帰られてはまずい。ハデスは咄嗟に打開策を打ち出した。
「会うのは、難しいが。…会話だけなら」
「できるの!?」
ハデスだけでなく、他の神々も使う精神を通じた伝達手段。おそらくコレーは使ったことはないだろうが、できるはずだ。心の中で、伝えたい相手を思い浮かべて、言葉を発する。たったこれだけのこと。神だからこそできる共通した能力の一つである。
「試してみるかーーー…ーーー。今、私が言った言葉が分かるか」
ーーーケロベロスーーー
コレーの身体全体にハデスの声が響き渡る。コレーはハデスの声を内にも外にも聞く事ができ、不思議な感覚にほうっと息を漏らしながら問いに答えた。
「ケロベロス、って聞こえたわ。誰のこと?」
「外にいる三つ首の犬の名前だ。教えた通りにすれば出来るはずだ」
「じゃ、じゃあ!おうちにいるときでもハデスとお話する事ができるの!?」
「ああ……だから、無闇にここへは来るな」
「わかったわ!もしも来たい時は最初に聞けば良いのね!」
「ーーーまあ、アポイントメントは取っておいた方が分かりやすいがーーー」
「本当!?また来てもいい!?」
「デメテルの許可を取ってからなら…」
「なら、約束してくれる?」
興奮冷め止まぬ様子でしかし控えめにぴょこりと小指を差し出してくる。期待のこもった瞳に見つめられ、何故か拒否する気にはなれず、ゆっくりとハデスは己の指を絡ませた。
所謂指切りげんまん。幼少ですら体験したことのないこの契りを、幾年も過ぎ去った今することになろうとは。ハデスは目の前の少女といるうち、自分も幼い時分であるかのような錯覚を覚えていた。
「ゆびきり!約束よ、また会ってちょうだいね!」
「…わかった」
ひょっとしたら、子供の純粋さを持ち続けるコレーの能力かもしれない。なんとなく、この少女の願いを聞いてやりたくなってしまうのは。
ふたりで地上へと戻ると、ケロベロスは満足そうに舌を舐めていた。
「まあ、ケロベロスちゃん、全部食べたのね!」
美味しかった?とコレーは臆することなくケロベロスに歩み寄り、よしよしとそれぞれの顎を撫でてやっている。
「食べた?」
易々を接触を許しているケロベロスにも、恐ろしい筈の容貌のはずも無害な動物を開いて取るようなコレーの態度にもハデスは驚いていた(表情には現れなかった)。
「ケロベロスちゃんにね、お土産を持ってきていたの。お母様の畑のお野菜をちょっとだけ貰ってきたのよ」
お野菜好きだったみたいで良かったわ。
コレーはそう言い微笑みながら、ごろりと寝転がり腹を見せるケロベロスをワシャワシャと撫で回したい。
ーーーそれは、通れたのも当然か。
ケロベロスはすっかりコレーに懐いたようで、ハデスに甘える時と同じような媚びた細い鳴き声を上げていた。
「…そろそろ帰れ」
「あ!そうだったわ。お母様に見つかっちゃう!」
帰らなくちゃ、と立ち上がるコレーに、ケロベロスはもう行くの?とばかりにくうんと鳴いた。
「ケロベロスちゃん、また会いにくるわ。約束よ」
そう言うと、コレーは小指をケロベロスの鋭い爪の上にちょこんと当てた。その行動の意味はわからなかったが、ケロベロスはコレーがまた会うと言ったことにピクリと耳をぱたつかせると、嬉しさいっぱいに尾を振りワンと一声鳴いた。
「それからーーー」
くるりとハデスの方へ振り向いたコレーは、ぽぽぽと頬に熱を溜めながら、小指を立てたままの手を差し出した。
「ハデスにも、また会えますように。もう一回、約束して?」
「ーーーわかった」
ーーー何故か、おかしな方向に向かっているような。
そう思いながら、ハデスは言われるがまま二度目の指切りをした。




