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地上へと続く道の出口には、地獄の門番ケロベロスが鎮座している。地獄から抜け出そうと目論む亡者や、生き別れた相手を求めて冥界に入ろうという輩が後をたたないのだ。生と死は明確に、決して同じ場所にはいてはいけないのだ。その線引きを担うため一役買っているのが彼らである。
ケロベロスは三つの首を持つ怪犬だ。酸の唾液を持ち、巨大な剥き出しの牙は解毒不可能な毒を持ち、ルールを破る者を断罪する。一度噛まれてしまえばたとえ神であってもひとたまりもないのだ。性格は獰猛で、内から外からはみだそうものなら容赦はしない。コレーとて例外ではないだろう。ハデスは後手でコレーを制し、少し待つように言う。
「い、行っちゃうの?」
初めて取り残されてしまう不安が募り、コレーは引き止めるようにハデスの黒衣を握りしめた。その手をゆっくり剥がすと、ハデスはコレーを一瞬見るとすぐ戻る、と言い離れていった。
神は容姿の優れている者が多い。力の強いものは容姿にも表れているといっても過言ではない。ハデスもまたそうであり、コレーは知らないが、名を連ねる神の中でもその美貌は一際目立っていた。司る世界や彼の性格などから高嶺の花とも言われている。そんな彼が、少女に対して手を握り見つめ優しく(?)囁く様など誰が想像出来ただろうか。つい先ほどハデスへの恋心を自覚した少女がこれをやられて落ちないはずがない。魂が抜けたようにはい、と頷くと素直にその背を見送った。
うわあああああああ!
きゃあああああああ!
その様子を息を潜めて伺っていた冥界のギャラリーたちはもうお祭り騒ぎだった。絶対に力関係の崩れないと言われるラグビーで、弱小チームが優勝候補を破った衝撃などどこがすごいのか、と鼻で笑うレベルである。
当事者ハデスはデメテルの娘を傷つけずにお返しするために気をやった結果であるが、勿論自覚などなかった。
門番ケロベロスは、冥界から聞こえる足音にすぐさま反応を示した。そして巨躯を持ち上げ、それに見合う長い尻尾を千切れんばかりにブンブン振った。
「キャン!」
「……落ち着け」
酸たっぷりのよだれを撒き散らし飛びかかるケロベロスを、ハデスはその身一つで受け止めた。酸入りよだれはびちゃびちゃとハデスの衣服を濡らし、シュウシュウと煙を上げている。常人ならば悶え苦しむ代物であれど、冥界の王にとってはただの分泌物に他ならない。特別製の衣服は溶けることなく、徐々にその煙を燻らせていった。
門番であるからには当然求められる恐怖と威厳。しかしハデスの前に仰向けになりゴロゴロ身をよじらせる様はただの犬畜生である。ケロベロスが目も開かぬ頃から育ててきたのはハデスであり、ケロベロスにとっては生みの親よりも絶大な信頼と愛情を注ぐべき存在なのである。
くうーんくううーんと切なそうに鼻を鳴らす三つの首を器用に撫で回す冥王と地獄の門番。本当にその名を任されているのか怪しぶまれる。その様はただの飼い主と犬のムツゴロウ物語にしか見えなかった。
やがて愛撫する手を止めたハデスに、ケロベロスはもっと、と名残惜しそうに細く鳴いた。普段は神も恐れぬ獰猛ぶりであるが、もっと撫でて、と言わんばかりに媚び売る威厳もくそもない彼奴は御役解任ものである。
「悪いが、少し場所を空けてほしい」
地獄と常世の境目は、日当たりも良くポカポカとした陽気の穴ぐらで、穴ぐらの入り口には美しい花が咲き乱れ、草木は青々と茂り、ケロベロスが居なければピクニックに訪れたくなるような穴場である。門番を配置する際、ハデスがどうせなら過ごしやすい場所がいいだろうと配慮した結果である。当然ケロベロスもこの場所がお気に入りで、近寄る輩は嚙みつきかねない勢いだ。それが門番としての役目を果たす結果につながるので、そこはハデスの名采配といえるだろう。
ともかくケロベロスはいきなり離れろと言われ、ハデスであろうと不満げにグルグル言うのだ。
「少しでいい。終わったら呼ぶ」
なおも食い下がりがうがう甘噛みするケロベロスにハデスは言う。
「終わったら、遊んでやる」
パッと三つ首を一斉に上げると、ケロベロスは嬉々として冥界の彼方へと消えていった。
どこに行っていろとまでは言わなかったハデスは、まっすぐに冥界の通り道に駆け出していったケロベロスが見えなくなった後はたと気づく。
ーーーコレーのところに行ってしまっただろうか。
ケロベロスを追いやった最大の理由として、コレーがその存在に恐怖してしまうのを危惧したからであるが、ケロベロスがもしもそのまま直進したのであれば、待っているコレーの元にたどり着いてしまう。
ハデスは無駄足にならぬよう、早足で元の道を引き返した。
結果的にケロベロスはコレーの元へは行かなかったようだ。その場で立ち竦んでいたコレーは、足早に戻ってきたハデスを確認するとほっと息をついた。ハデスもケロベロスの脅威が向かわずに済み、内心同じく息を吐いた。
その様は僅かでも残していった恋人が心配でならなかったかのように見え、また新たな興奮材料を冥界の者共に与えてしまっていた。
「このまま歩いていけば出口だ」
「帰れるのね」
でも、とコレーはハデスの横に並び歩きながらどこか寂しそうな顔をする。
「どうした」
「あの、また、会えるかしら?」
心苦しそうに眉根にしわを寄せ、顔を赤らめながら頭一つ分高いハデスを上目で見やる。
「まあ……機会はなくもない、かもしれない」
「本当に!?」
「多分」
そのようなやり取りをしているうちに、太陽の光が二人を照らす。ついに地上へと戻ったのだ。
そのようなやり取りをばっちり確認していたデメテルは、さながら地獄の門番のように鬼の形相をしながら二人を待ち構えていた。




