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「今から通る道はあまり、周りを見ない方がいい」
「どうして!?」
「多分、とても怖いものが多い」
今二人がいる場所は、冥界でも生き物もそうそう寄り付かぬ寂しいところだ。冥界は無作為に空間を生み出していく。それらを墓場なり刑場なりに作り変えるのは冥界の住人たちの仕事である。ハデスの監修指導の下、空間は有効活用されていくが、時々このように手を加えられぬまま溢れる場所も存在するのだ。ハデスとて完璧ではない。限りなく広がる冥界は、彼の手に余ることがまだ多くあるのだ。しかし多くは、おどろおどろしい亡者や恐ろしい化け物どもの巣窟なのだ。コレーには些か、かなり、刺激が強すぎることだろう。
やはり穴を開けるか、と考え直すハデスの黒衣を、きゅうっとコレーの両手が掴む。
「でも、私ひとりじゃないもの。きっと大丈夫!それに、」
意を決して言葉を続けるコレーは、食べ頃のリンゴのように熟した色をしていた。
「ハデスと一緒なら、怖くないわ!!」
「…………なら、行くか」
改めかけた考えは、どうやら採用には至らなかったらしい。くるりと踵を返すハデスの後を、コレーは寄り添うように追いかけた。
ガウ、グルルル
「ひゃ」
ギャアッギャアッ
「ひ、」
恐ろしい装いの化け物どもの間を歩くコレーは、周りの一挙一動に身体を強張らせ、ハデスの背にぴったりくっつくので、その歩みは遅々として進まなかった。
「戻るか」
「え?」
「乱暴な方法だが、実は先程いた場所に近道がある」
予想に反し、化け物どもが騒ぎ立てていた。冥界には、神でさえもそうそう生者は訪れないのだ。何時もと違う光景に気を立てているのだろう。
しかし実際のところはそうではなく、あのハデス様が女の子を連れている!しかもかわいい!!と主の春の訪れと勘違いして全体が祝杯モードで染まっていたからだった。
そうとも知らずハデスは、軽率だったな、とコレーを怖がらせてしまった結果を悔いていた。元いた場所へすぐに戻ろうと、その場でくるりと身を反転させる。
「だ、だいじょぶよ、このまま行きましょう!」
コレーはそのまま動かずに震えた声で宣言した。どう見ても強がっているとわかるので、ハデスはしかし、と言い淀んだ。二人は対峙する形で向き合っているので、遠目から姿だけ見れば、ドラマで見るような男女の逢い引きの一場面を彷彿とさせた。
「お母様が心配してるし、早く帰らなきゃっていうのはわかってるの、でも」
両手で作った拳は胸の中央に置かれ、愛の告白までもう一押しといった様子で、コレーはハデスへ
「も、もっと長くあなたといたいの!!」
告白した。
おおおお!!と咆哮が轟く。徐々に集まってきた冥界のギャラリーたちは、次いでハデスの反応をごくりと伺った。
「そうか」
ーーーーそれだけ!?
がくっと一同の総ずっこけは、冥界を大きく揺さぶった。そ、そうなの!とさっさと歩き始めるハデスに倣うコレーは、否定されなかったことが嬉しくて、癖なのだろうか、熱を冷ますかのように頬に両手を当てむにゃむにゃと口元をむずむずさせた。
こわい。
暗くってジメジメしてて寒くて。コレーはこれが初めてじっくり触れる外の世界であることに、少なからずショックを受けていた。ハデスからここは特殊な場所であると説明は受けたものの、やはり想像していたようなキラキラした場所ではなくて戸惑いを隠せなかった。
何よりも爪やら牙やらがたくさん生え揃い、ギラギラした恐ろしげに光る目玉たちがこちらをじいっと見ているのが不気味だった。
ハデス。
私と同じ文字がみっつ。男のひと。
異形のものどもに囲まれてもピクリとも驚かないその冷静さに、側に寄り添うことでコレーの恐怖心は薄れていった。
私よりずっと背が高くって、綺麗な黒い髪の毛、私と違ってまっすぐでサラサラしてるわ。
初めて見る異性。異性という存在があることを知った。今日1日だけでどれほどのことを知っただろう。ぜんぶぜんぶ初めてのことを、このハデスから教えられたのだ。
口数の少ないこの男は、自分から会話を切り出しても至極機械的な内容しか話さない。今は背を向け黙って歩き続けている。コレーも口を閉ざせば無言の時間が続いた。ゼウスであれば耐えられずに一人ででも話し始めるだろう。コツコツ、と一定の足音しか聞こえない静寂さ。コレーは、それが全く苦に感じず、それどころか心に落ち着きを与えられているように思えた。
広く逞しい背。コレーはそれを見つめながら、勢いで言ってしまった先程の発言を思い返し、再び頬に赤みを上乗せした。
異性は知らなくとも、恋の概念は知っていた。
コレーの世話係兼話し相手であるニンフたちの一組は、女どうしでつがいとなっていた。デメテルにきつく言われている通り、ニンフたちは男についての話題を避けたものの、恋の素晴らしさ、切なさなどの諸々を、実物を交えて身振り手振りで伝えていたのだ。
ニンフたちの話を思い出し、身に覚える心臓の動悸やざわめきなど幾つかの点が、自分が恋していると気づかせるには十分すぎた。
ーーーああ、お母様、私、このひとのことを好きになったみたい。




