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「いた、くない……?」
コレーは衝撃が襲うと覚悟していた身がなんの痛みも感じないこと、それどころか地面ではない柔らかい何かがクッションになったようだ。コレーが地面に転がる共に落ちてきた瓦礫を横目で視認すると、ゆっくりと自らが乗っているものの正体へと視線を移した。
漆黒。コレーの視界に広がったのは強烈な一色だった。何か黒いものの上にいる事を知る。やがてうつ伏せになっていた身体を起こすと、無言でこちらを見つめる銀色の瞳と目が合った。
「だあれ…?」
顔、腕、胴体。ヒトのもつ特徴を持っていることは分かった。しかし、コレーが自分以外に知るヒトは僅かなニンフのみ。そして何より目の前の存在が"男"であることがコレーの判断力を鈍らせていた。
先に見た花よりも艶やかな黒髪肩に掛かる程度の長さだろうか。は、彫刻のような白い肌によく映えた。やや吊り上がった、銀色に光る瞳の周りには、均等な長さの睫毛が縁取られていた。高く筋の通った鼻と引き結ばれた薄い唇。まるで芸術品のように美しい作りであった。コレーもまたその美しさに感嘆の息を漏らす。
ーーーお母様も美しいけど、この女神も違った魅力があるわ。
異性を知らないコレーは、男が同性の存在であると認識していた。しかしコレーが知る女の特徴の違いが次々と現れ、疑問に思ったコレーは勝手にべたべたとその身体に手垢をつけた。
ーーーおかしいわ。なんだか全体的に固いような、何かしら。あら、変よ。胸が平らだわ。
知らず知らずに手の動きが下へ下へと下がっていく。静観していたハデスは、ようやく飲み込んでいた言葉を発した。
「ーーーそろそろ降りてくれると助かる」
「きゃ!?」
低く、だがよく通る声がコレーの耳に突き抜けた。今まで聞いたことのない低音に、小さな悲鳴と共にぴたりと動きを止めた。
「…や、やだごめんなさい!!」
己が乗っていたものが何かをようやく知覚したコレーは、弾かれるように飛びのいた。慌てるあまり瓦礫とのひとつに足をかけてしまい、今度こそ地面に身を伏せてしまう。…ところをいつの間にか上体を起こしていたハデスの手がコレーを支えた。やはり女のような柔らかさはなく、しかし大きな芯のある手に包まれ、コレーはなんだか妙な動悸を感じながら、改めて非礼を詫びた。
「本当にごめんなさい、怪我はない?気分はどうかしら?」
鼻が触れ合いそうな距離にまでハデスに近づき、コレーは身体の損傷がないかどうかをよく見、直接触れて確認した。
「ーーー血が!」
落ちるコレーごと倒れこんだハデスの後頭部は割れるほどに破壊されたのだが、不死の名の下にコレーがあれこれ動いている間に元通りになっていた。力の強い神ほど回復スピードも早い。傷の修復が流血の乾きを上回るほどだった。
棘のある草木を誤って掴んでしまい、指先にぷくりと赤い玉が浮かんだことがある。実際に血を見た経験はその程度ではなく、手を染めるほどに大量の血液を見たのはこれが初めてだった。
指先を切った痛みにも耐えかねていたコレーは、この大怪我は一体どれほど壮絶な痛みであろうと、そんな惨状の上にのうのうと居座っていた己の軽率さを思い知り、止めようもない涙がみるみるうちに溢れ出した。
「ごめんなさ、痛いのに、こんなひどい、ひく、」
ただ謝ることしか思い浮かばなくて、情けないやら惨めやらで、コレーはぐすぐす泣き続けた。
「怪我は治っている。痛くない」
「うう、でも、」
「大丈夫だから、泣くな」
長い指が熱くなった目頭を辿る。拭われた涙は不思議とまぶたの奥へとなりを潜め、パチパチと瞬きながらハデスを見つめた。
「……泣き止んだな」
えらい、と起伏のない声色で幼子を相手取るように、立ち上がったハデスは座り込むコレーの頭を幾度か撫でた。
「立てるか?」
怪我は無さそうに見受けられるが、ハデスが差し伸べた手をそっと掴むコレーはぼおっと虚ろであった。
どうやら熱があるらしい。




