ユレ
深夜、エレベータのメンテナンス作業を終え、稼働確認のためボタンを押すと、不思議な声がこだまする。
「ああ、おかげでとても軽くなったよ。あんた、いい仕事っぷりだね。」
高池は驚きのあまり、反射的に後ろを振り返る。しかしエレベータの中には誰もいない。声はエレベータの内部に反響している。
「どうだい、恩返しと言ってはなんだけど、好きな場所に連れて行ってやるよ。」
エレベータの隅々を確認するが、どこにも音源らしきものはない。一体誰がどこから喋っているのか、状況は理解できないが、彼は半信半疑に、
「自分のマンション」
と言ってみることにする。
「よし分かった。じゃあ、扉が閉まってからちょっとの間、目をつぶっててくれよ。」
彼はひとまず指示に従い、目を閉じる。扉が閉まり、今までに聞いたことがない、がたがたという不穏な音を立てて振動する。まるで外側から揺らされているかのようである。
数秒後、「チン」という音と共に、扉が開く。目を開けると、見慣れたマンションの扉が立ち並んでいる。そこは疑いもなく、彼の自宅マンションである。しかも先程までメンテナンスをしていたエレベータが、自宅のエレベータになっている。彼は我が目を疑った。エレベータが一瞬のうちに、空間をワープしたのである。いや、正確には、自分がエレベータの中でワープをしたのである。一体どうなっているのだろう?十年以上も同じ仕事を続けているが、こんな不思議な事は、初めてである。
彼は次の日、昨日とは別のエレベータの清掃作業を行い、潤滑油の補充をした後、今度は自分から話しかけてみることにした。古い年式の、ところどころにハゲがあるエレベータである。
「どうだい、調子は?」
間をおかず、内部に声が反響する。
「前より大分楽になった気がします。大変助かりました。」
昨日のエレベータより大分声が高く、言葉遣いも丁寧である。
「こんな風に、よく人間と話したりするのかい?」
「いえ、私どもは普段、滅多にお話はしません。ただこうして、丁寧に作業をしてくださった方には、お礼を申し上げる者も、それなりにいるかと思います。」
「なるほど、そういわれると、仕事のやり甲斐があるってもんだ。」
エレベータとはいえ、自分の仕事に感謝されることが嬉しかった。が、話し相手の顔が見えないから、どこに向かって話をすれば良いのか分からない。高池は更に質問を続ける。
「君はワープみたいなことができるのかい?」
「ええ。基本的には可能です。我々エレベータ同士で、ちょっと会話をするようなものですので。ただ、エレベータ同士にも『相性』というのがございますから、中にはうまく接続きないケースもあります。そのあたりは、人間の方と、大差ないと思いますね。」
なるほど、人間同士でも、全ての人と会話はできないからな。彼はもう、エレベータが喋るという事自体には疑いを持たず、妙に納得してしまった。そして試しに、昨日よりも更に遠い場所はどうかと尋ねてみる。エレベータは少し間をおいてから、可能であると回答した。彼は仕事の荷物を畳んだ後で、そこへ行ってみることにした。
「ただ一つ、扉が閉まってから開くまでの間、絶対に目を開けないでください。」
大丈夫、昨日も同じようなことを言われたから、と彼は答える。扉が閉まり、目を閉じる。ガタン、ガタンと、前後に二度ほど揺れる。チン、という音がするまでの時間は、昨日よりも短く感じられた。しかし昨日と同様に、目を開けるとそこは全く別の場所になっていて、彼は再びワープすることに成功したのである。
その日以降、彼は積極的に仕事後のエレベータに話しかけてみることにした。大きさ、年式、メーカーはそれぞれ異なるのだが、そのキャラクターは実際に話をしてみないと分からない。仕事中はエレベータの個性を想像し、仕事を終えた後に話をしてみると、かなりイメージと異なる性格であることも多い。商業施設やマンションのエレベータには、自動音声の声を発するエレベータがあるのだが、実際の声はそれとかなり異なる。どのエレベータも、あんなにゆっくりとした、型通りのテンポではない。寧ろ人間以上に、個性的な話し方をするエレベータもある。
回数を重ねるにつれ、メンテナンスの作業をしないと、エレベータは決して会話に応じてくれないという事がわかった。そのため、この秘密を知っているのは、ほんの一握りの人間しかいないだろう、と彼は考えた。彼は今まで、自分の仕事が嫌いという訳ではなかったのだが、大した魅力も感じてはいなかった。
しかし今となっては、自分の仕事が大変奥深く、楽しみに満ちたものであると感じられるようになった。エレベータごとに個性はあるけれど、ワープをさせてくれることには、皆寛容である。最初のうちは、もっぱら自宅に帰る事のみに移動を活用したのだが、次第にどこか、もっと遠くに行ってみたいと思った。
高池は今まで、海外旅行というものに行ったことがなかったので、思い切ってエレベータを使って行ってみたいと思った。ただ問題は、帰りの移動手段である。もし仮に移動先のエレベータと言葉が通じなかったり、帰りのワープを拒否されたりすると、かなり面倒なことになる。方言で話すエレベータもあるくらいだから、当然英語しか喋れないものもいるだろう。そういった懸念を、仕事終わりのエレベータに相談してみると、問題はあっさり解消された。
「あら、それなら私の方から、事前に何月何日に、こっちに帰って来てもらえるように、伝えておくわよ?」
なんと気軽な事だろう。エレベータ同士の意思疎通は、どうやら我々人間の言語とは異なる水準で行われているらしい。彼は実際に、その親切なエレベータの助けを借りて二箔の海外旅行をし、無事に帰ってくることに成功した。
それ以降、彼は更に活動範囲を広げ、さまざまな場所にエレベータでワープを繰り返した。どんなに遠くても、エレベータさえあれば、ほんの数秒で、どこにでも移動できるのである。仕事自体が楽しくなり、しかもこんな魔法のような移動ができるなんて、自分はなんてラッキーなのだろう、と彼は思った。ただ一つ、どのエレベータからも移動中は、「目をつぶる」事を約束させられた。場合によっては、かなり入念に注意を促される。彼は最初のうち、そのルールを特に不思議に思わず、目を開けなかった。
しかし次第に、ワープ中に一体どんな変化が起こっているのか知りたいという好奇心が湧いてきた。数秒で移動できる事も不思議であったが、それ以上に、エレベータが全く別のエレベータになってしまうことも、不思議であった。ある日、彼はいつものようにメンテナンスを終え、事後の調子を尋ねてみる。
「おかげさまで、節々のしこりがとれたみたい。生まれ変わったみたいよ。」
丁寧な女性口調のエレベータの言葉に、彼は満足気な表情を浮かべる。その後もしばらく世間話をし、いつもアパートの子供が閉ボタンを連打するのには、若干うんざりしていることが分かった。しばらく会話をした後、彼は本題を切り出してみる。
「ところで、この後家に帰りたいんだけど、大丈夫かな?」
と尋ねる。
「いいわよ。ただ一つ、移動中は絶対に目を開けないでね?」
彼はいつものように了解したが、今回は約束を守る気はなかった。扉が閉まり、目をつぶる。エレベータがガタガタと揺れ始める。彼は恐る恐る、薄目を開けてみる。しかしながら、微かに映る視界には、一向に変化がない。いつもであれば、どんなに長くても五秒程度で着くのだが、なかなか揺れが収まらない。彼は不安になって、薄目に開いた目を閉じ、尋ねる。
「なかなか着かないね?」
しかし、彼女の返事はない。その代り、揺れが大きくなる。地震のように激しく揺れる。あまりの激しさに、目を閉じていることもできない。倒れてしまう。しかし揺れは収まるどころか、より一層激しくなる。どうしてこんなに揺れるのだろう?壁に頭を激しくぶつける。それでも揺れは収まらない。彼の視界は遠のいていく。