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人事部主任の野中数馬は、エレベーターに乗り込むと九階のボタンを押した。昨日仕上げるつもりだった仕事が存外に手間取り、朝の内に仕上げようと、三十分早く出社していた
時刻は八時三十分を回っている。この時間帯に出社する者の姿は、まばらであった。この、ワールド・カンパニーは、十年程前に創立され、主に貿易とIT関連の研究をしているという。敷地面積は千坪ほどあり、更地を買い上げて、地上十三階、地下一階のビルを建設した。周囲には高層ビルはなく、黒一色に染められたビルは、人の目に異様な光景に映っていた
野中は、ぼんやりと扉を見ていると、三階のボタンが点灯した。停止すると扉はゆっくりと開き、二十代くらいの女が一人乗り込んだ。目鼻立ちの、はっきりとしたモデルのような美人だった
「おはようございます」
女は明るく元気な声で、乗り込みながら挨拶をして八階を押した
―三階は総務課だったな..そういえば、総務課でモデルにスカウトされた女の子がいたとか..名前は確か..
エレベーターは、ほのかに香水の香りに包まれている。野中は女の後ろ姿を見つめながら、名前を思い出そうとしていると、エレベーターは五階で停止した
扉が開くと営業部課長の三木が乗り込んだ
「おはようございます..三木課長」
女は同じように挨拶をしたが、野中は自分のときとは、明らかに違う何か淫靡な波長を感じた
「おぉ、西原君か。おはよう」
二人は後ろにいる野中を気にしながら、肩を寄せ何か小声で話しをしている
―西原?そうだ西原麗華だったな..スカウトされたって女の子は..なるほど、確かに美人でスタイル抜群だ
「じゃ、今夜..」
エレベーターは七階で停止した。扉が開くと三木は彼女の耳元に囁いた
―ふぅん..なるほどね。そういえば彼女は、エリートの妻子持ちを喰い漁っては捨てているなんて噂があったな
西原麗華に対する批判的なイメージが伝わったのか、彼女は身じろぎをした
―ま、エリート漁りなら私には縁のない事だな..嬉しいような残念なような
野中が苦笑をしているとエレベーターは八階で停止した。彼女はおもむろに振り返った
「今度お食事に誘って下さいね。野中主任..」
麗華の、長い栗色の髪が野中の鼻先をかすめた
野中は、ぼんやりと麗華の背中を見送っていると、左肩から細くて、黒い糸のようなものが、揺らめいていた
エレベーターの中に、微かな香水の香りが、ぼんやりと漂っていた