あのころのように……
鏡台の前で薄くなった髪を綺麗に撫で付け終えた初子は、ふと手元にあった口紅に手を伸ばした。ひ孫の忘れ物であるそれは息子夫婦と初子、老人ばかりのこの家では使うものすらなくずっと転がったままだったものだ。
キャップをあければ艶の濃いピンク色が現れた。指先を戸惑いに震わせながらそれを当てる。
水気を失い、小さなしわにすぼまった唇に華が咲いた。
特別な日なのだから、このぐらいのおしゃれは許されるはずだ。この口紅の色に合わせて、今日はあのセーターを着ていこう。通販で買ってみたが思ったより乙女ちっくな色と自分の年齢に臆して袖も通さなかった薄紅色のあのセーターを……。
鏡に顔を近づけてはみ出した口紅を整える初子の顔は八十年という人生を刻んだ皺に深く侵され、いくつか浮いた老成のしみは隠しようも無い。それでも小さく奥まった瞳の輝きは、娘のように期待と恥じらいに輝いていた。
待ち合わせの場所は近所の公園。
精一杯に装ったつもりだったが、茶色につや消しされた杖が全てのコーディネートを台無しにしている。ベンチに座る初子は日向に背中を差し出して暇をつぶす老人にしか見えない。
待ち合わせの時間ちょうどに現れた『彼』は、いかにも今日日の若者らしい細身の長身を折って謝罪を口にした。
「すんません。本当は俺のほうが早くくるべきなのに」
年上に対する敬意と礼儀に満ちた言葉に初子は軽い失望感を感じる。
仕方の無いことだ、『彼』はまだ高校生。初子のひ孫より年下なのだから。
「いいのよぉ、おばあちゃんなんか時間があまって困っているんだから。ここで暇つぶししていただけよ」
幼子を宥めるような言葉を口にしながらも、初子の心中に小さな嵐が吹いた。
「『女』は待つのが仕事だしねぇ」
わざと強めに発音したその単語を彼は一瞬の戸惑いの後、くすりと小さく笑って受け止める。
「いや、やっぱり俺が先に来るべきでした。『女性』をこんな寒いところで待たせるなんて、俺、サイテーじゃないっすか」
彼のこの口のうまさをいぶかしむ声も周りにはある。だが初子は曲げることなくこの青年の本質を見抜いていた。
若者ゆえの頭の回転のよさと、ノリというものだ。他意はない。
「で、今日は何を食わせてくれるんスか?」
初恋の男によく似た笑顔がまぶしい。
いや、正直そんな遠い日の記憶などあやふやで、本当にこの青年が彼に似ているかすら怪しい。ただ、こんな屈託の無い笑いを初子にくれる男であった……それだけは確かだ。
心が一瞬にして乙女に引き戻される。二つ年上の幼馴染に片恋をしていたあのころに。
縁がなく、お互い別の相手と平穏な人生を送ることになったが、笑顔をかわすだけで苦しかったあの感情は幻なんかじゃない。
だからこそ彼によく似たこの青年に人生最後になるであろう『恋』をした。
「嫌じゃないんなら、俺、肉が食いたいです」
無遠慮な提案をしながらも、初子をベンチから立たせるその手は決して焦ったりはしない。軋む膝にあわせて実にゆっくりと動く。
知り合いのひ孫である彼を食事に誘ったのは初子の方だった。
年をとると人間はこうも大胆になれるものだろうか。恥も外聞も無く老智をめぐらせて……遅ればせながら入学祝という名目で彼を誘い出した。
「今日は杖はボッシューです。俺を杖にしてください」
繋いだ手は暖かく、若さに満ちた力強さが頼もしい。
彼は知ったら笑うだろうか、この老いらくの恋を。
初子の中では今日はデートなのだ。もちろん、タダメシに釣られてきただけのコドモに無体なことを要求するつもりなどない。ただ乙女だったあのころのように高鳴る胸を必死で隠しながら隣を歩ければ……
そんな気持ちを知ってか知らずか、彼はひょいと身をかがめて顔を覗き込む。
「俺のおばあちゃんじゃないんだし、『初子さん』って呼んだら……失礼ですかね?」
儚く残り少ない鼓動を惜しんでいた心臓がとくん、と鼓膜に沁みるほどの心音を立てた。久しく感じなかった自分の体温がその血流に乗り、冷え切っていた指先に熱が灯る。
初子の残り少ない時間が、彼を求めて大きくうねりだした……