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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

その日、猫の死体を見た。

作者: 前島鹿之助

ご意見、指摘などありましたらメッセージ、またはツイッターにご連絡ください。

http://twitter.com/Swender_d2b

 1


 

 猫の死体を見た。塩素の撒かれていないのっぺりとした雪に血しぶきが生々しい。嫌なものを見てしまった。


 僕はとりあえず手を合わせた。埋葬してやろうかどうかと迷った。が、いわゆる帰宅ラッシュのそこそこ交通量のある雑踏の中、車道のど真ん中にいる猫を助けに行くのもなんだか間抜けというか。


 そういえばこうして文明の利器に弾かれ踏みつぶされた動物達の処理は誰がどうしているのだろう。それ専用の業者みたいなものが存在するんだろうか。


 僕はもう一度手を合わせ、その場を去った。


 僕のアパートはわりと都会にあって、夜でも遠くから街の息が聞こえてくる。夜の鏡が夕闇のネオンを映しだして、なんだかうす気味が悪い。ついさっきあんなものを見てしまったからなのかも知れないけれど。


 そう思った途端、ぞっとした。僕は小さい頃から嫌な予感が当たる。シックスセンスとでもいうのだろうか。


 加えて、霊感も強いらしく、たまにそういう類の気配すら感じてしまう事がある。


 案の定、部屋に入ると何かがいた。僕の部屋には部屋の真ん中辺りにソファがあるのだけれど、そこに座っている女の子がいた。偉そうに、気怠そうに、つまらなさそうに。そして裸で。


 「……どちら様でしょう」

 「猫よ」


 偉く可愛らしい声が返ってきた。


 僕はじっくりとその子を観察した。年は中学生くらい。きめ細かい肌が窓から漏れる光に青白くちらついている。中性的な顔立ちをしており、何か言いたげにジト目を向けられた。


 「猫じゃないでしょ」

 「猫よ!」


 なぜか不満気に唸った。


 「迷子?」

 「違うわよ!」

 「変質者ですか」

 「なぜそうなる!」

 「だって裸で無許可で部屋にいられたらそう思うでしょ」


 女の子は唖然とした表情で口を明けた。


 「人間はもっと驚くものだと思っていたのに」

 「驚いてるよ。これからレイプでもされるんじゃないかって思うと怖い」

 「だから人間じゃない」


 女の子は人を殺しかねない表情でこちらを見て、鋭い犬歯をむき出しにした。


 最近の若い子はキレやすいとよく聞く。殴られるんじゃないだろうか。蹴りなんかいれられた日にはたまらない、ショックと痛みで三日は寝込んでしまいそうだ。


 女の子は威嚇的に立ち上がると、ふっと姿を消した。


 これに身を固くした僕なわけだけど、次の瞬間には身体が本当に石になった。


 「あまりなめてくれるなよ、人間」


 鼓膜が凍るような声。まるで背中から女の子に抱きつかれているような重みだけれど、感触は全く違った。巨大な蛇の胃の中で転がされ、無数の蛆に這いつくばられているように気持ちが悪い。


 僕は巻き付かれていたそれの腕を振り払おうとした。けれども、腐植土の中に手を突っ込んだようにずぶりと。そのまま突き抜けると血管という血管が蠢いているんじゃないかと思うくらいに後味の悪い感触がするだけだった。


 「わかった、わかったからどけ!」


 僕は思わず叫んだ。


 またしてもふっとその感触が消えると、いつの間にかソファに少女が同じ仕草で座っていた。


 僕は浅い息を繰り返しながら少女を睨んだ。


 「ついてない」

 「これでわかったかしら」

 「ああよくわかった。今すぐ出て行ってくれと頼まれてくれ」

 「それはだめよ」

 「どうして」

 「幽霊が現れる時の特徴としては……」

 「未練があるって? 知るか」


 言葉を引き取り、叫んだ。


 「あら、抱きつくわよ。また」

 「わかった」


 僕は即答した。


 幽霊の存在はぼんやりと信じていたし、だからもし遭遇したとしてもある程度落ち着いて対処できると思っていた。だから内心ドキドキしつつも冷静に対話に試みたし、できるだけいつも通りを装った。もし本当に人間だったら、幽霊を前提として話していると間抜けな話だし。本当は、もし本当に幽霊だったらの過程の方が気楽だしよかったのだけれど。


 しばらく体中に寒気と蛆に這い回られる感触を耐えなくちゃいけないっていうのに、それをまたやられると思うと答えは決まっていた。


 僕は部屋の隅のデスクに腰を下ろし、パソコンも付けずに深い息を吐いた。


 冷たい部屋の中、自分の吐息が薄暗く浮かび上がった。


 「明かりでも点けたらどう?」

 「しばらく気持ち悪さをどうにかしたい」

 「じゃあ話でもして気を紛らわさない? あなたが帰ってくるまで退屈で」


 僕は歯を食いしばって立ち上がり、部屋に明かりを点けた。


 なるほどよく見ればうっすら透けていて、黒目も人間離れして細長い。


 「……何?」


 椅子に戻りながら、我ながら間抜けな質問をしたと思った。何者? と聞くのもなんだか変な感じがして、どこの種類の幽霊だ、と聞くのもおかしいと思うとこれしかなかったのだ。


 「化け猫よ」

 「僕の知ってる化け猫ってのは、人の姿になったりはしないな。それは狐だ」

 「それなりに長く生きてきたから、私」

 「どのくらい」

 「侍がいた頃から」

 「それはまた随分と」

 「そうでしょう? それがこんなにあっさり死んでしまうのだから、人生呆気ないものね」


 それ以前の問題だ、と心の中で呟いた。すると、それもそうね、とつまらなさそうに答えられてしまった。


 「それも年の功?」

 「失礼な人間ね。ただ心を読んだだけよ」


 僕はもう、この化け猫に食われていたりするんだろうか。何もかも筒抜けて、かつこちらから手を出せないっていうのはもどかしい。


 「そんなに不貞腐れないで」


 ……口を出す手間が省けるみたいだ。


 「あなた、私達に嫌われているでしょう」


 まず幽霊と話したのはこれが初めてなのだけれど。


 「私達って、基本的に生きているものに気づいて欲しいの。というか、今の言葉で言えば構ってちゃんというところかしら」


 化け猫はふんぞり返っている体制が疲れたとでも言うように寝転がり、艶かしいヒップラインをこちらに向けた。


 「あなたって、人と関わるのが嫌いでしょう。私達もそれがわかっているから関わりにいかないのよ。私達を視れるだけの力はあるくせに」


 人と関わるというか、面倒なのが嫌いなのだ。だから人付き合いは嫌いじゃないのだけれど、必要最低限に留めておきたい。


 今通っている大学は人脈を構築する場、という認識なのでそれなりに付き合ってはいるけれど。


 「そういうあなたの狡っ辛い魂胆がわかってしまうのよ、私達って」


 だから俺に絡んでこないと。願ったり叶ったりじゃないか。


 「君ってついてないでしょ。なんでかわかるかしら」


 確かに、僕は昔からツキが驚くほどない。何をやってもツキがないので運に頼らずやってきたから、それなりに努力が必要だった。


 「それはあなたの守護霊ってやつが、あなたに愛想つかせてどっか行っちゃったのよ」


 それはまた。ついてない。


 僕はパソコンの電源を入れながら、ぼやくように呟いた。


 「こうして取り憑かれるのも、ついてない」

 「それもそうね。あなたロクでもない事頼まれるわよ、私に」


 僕はこれみよがしに嫌な顔をして振り向いた。間抜けたパソコンの起動音が鳴り響いた。


 化け猫は相変わらず無表情に、

 「ある人間に復讐したいの」

 と言った。


 というか殺して欲しい、という事だった。


 話を聞いてみると、化け猫は自分を殺した人を知っているらしい。


 自分が殺されたくらいなら別にいいのよ、とどうでもよさそうに言ったところとかは、さすがに植物みたいな考え方だなあと思った。というか、人以外はそういう考え方をしているんだろうか。


 ただ、と続ける化け猫は眉を若干しかめた。


 その人は日常的に動物をいじめていたらしい。猫にはそういう噂を――猫が会話をするという事自体不気味な事だけど――聞かされ、ちらちらとそういう話をしている人もいたらしい。


 だからと言って僕は殺人なんてできないと突っぱねると、また抱きつくぞと脅された。それでもできないというと、本当に抱きつかれてしまった。


 トイレで格闘している僕に、化け猫はさらに問いただした。まだやる気にならないのかと。拒否するとまた抱きつかれた。


 四回ほど吐いてぐったりとソファに埋もれていると、意外そうな声をかけられた。


 「あなたは合理的な人間だと思っていたわ。一応、人外に取り憑かれているのに」

 「……人としての最低限の部分は守ってるつもりだ」


 口で答えるのが億劫になったので、言葉は出さずに続けた。


 大体人を殺したら警察に捕まる。僕はこれでも平穏平和な生活を送れたらそれでいいんだ。


 「あなたなら完全犯罪くらいできるでしょう。一応、これでも力を持っているから死ぬほど辛い目に合わせてるつもりなんだけど」

 「なら自分でやればいいだろ……」


 それができないから、人に頼んでるんだろ。死ぬ以上の辛さでも殺す事はできないって事は、どうやら直接的な危害を加える事ができなさそうだ。


 「それが居場所がわからないのよ」


 うまく逃げているつもりだろうけれど、それでも殺してと頼むっていう事は本当に殺せないようだ。


 「食えない人間ね」

 「でもこれだけできればそれで満足できないの?」


 僕はもっさりと体を起こした。


 「それだけじゃ済ませたくないのよ。もっと苦痛を与えたいわ」

 「例えば」

 「死んだ後も苦痛を味わってもらうわ」


 そろそろ心が揺れてきた。こいつがその気になれば、僕をそういう目に合わせる事もできるというわけで。


 化け猫はニッコリと微笑んだ。微笑んだと言っても、目は笑っていない。


 「って言われても、そんな事できるわけないし」


 で、化け猫曰く死ぬほど辛い目に合わされるの繰り返し。


 結局、僕が折れた。


 「とりあえず話だけでも聞くって事で」


 ぐったりしながら言うと、化け猫は疲れたようにそれでいいのよ、と言った。疲れたのはこっちの方だ。本当に。


 とはいったものの、名前がわからないし僕は動物虐待しているような人は聞いた事がない。金髪だという事は聞かされたけど、それだけじゃどうしようもない。


 さてどうしたものか。


 「そんなの、本当は悩んでなどいないくせに」


 僕だって立派な社会適合者だ。失礼な化け猫だと思った。




 2



 捜査の基本は足。いつからできた言葉なのかは知らないけれど、とにかくこつこつ地道な作業が必要になるわけだ。


 こういう面倒くさいのは嫌いなのだけれど、一応やってますアピールをしなくてはひどい目に合う。


 化け猫は大学にも僕についてきて、僕の周りをふわふわと浮かんでいる。正直気になってしたかがないのだけれど、やめろと言ってやめる奴じゃないだろう。どうやら人に触れないように気を遣ってはいるらしい。


 裸で。


 しかしどう聞いたものか。いきなり動物虐待してる人がいるっていう話を聞くわけにもいかない。


 ということで、僕は大学の素晴らしきネットの力を借りる事にした。大学になっても裏掲示板なるものが存在していた時は驚いたけれど、そこに書かれている誹謗中傷は中学生のそれとあまり変わらない。いつになっても人が何かを貶したりするのは常。


 でも最近は、それも仕方ないのかもしれないなと思い始めた。前まではどうして人が何かの悪口を言いたいのかわからなかったけれど、人はどうやら自分の主張を曲げたくないらしい。大学に入るまで積極的に人と関わろうとした事がないので、そういうものには疎かった。


 図書館の目立たない場所で借りようかなと思う本を数冊キープして、スマートフォンを取り出した。


 「人間味のない人間ね」


 化け猫の声を無視しながら、僕はスマートフォンを操作し始める。化け猫の話によるとこの近辺にいるのは確からしいから、まあ情報はあるだろう。


 「……ねえ、私も長い間人の営みを眺めてきたけれど、あなたみたいな人間がたまにいるのよ」


 僕みたいな人はあまり珍しくないと思うのだけれど。


 「昔から、この辺りは暖かくて優しい人達が多くてね。この土地にはそういう何かがあるのかもしれないわ」


 オカルトだ。もっとも、今こんな事を思っている事自体オカルトなわけだけど。


 「本当に、色々な人間達がいたわ。昔は私みたいな手合いにも驚かないどころか精通している人間もいてね。私は今まで出会ってきたその優しい人間達が好きだった」


 ならどうして冷たいと言っている僕に近づいたのか。


 適当に新しいスレッドをざっと見通す。


 「あなたみたいな人間は合理的だった事が多いから。無駄な事はしないで、自分に得する事だけやる」


 僕に何か得があるのかな、これって。


 「悪戯されなくなる。けど期待外れね人を見る目があると思っていたのに」


 なら去ってくれ。おっと、それっぽいのを見つけた。


 「一応、あなたに取り付いた手前今更引き下がるのは人の見る目があるって思っていた自分のプライドに傷がつくの」


 おかしなところでプライドが高いなあ。そんなプライドどうだっていいじゃないか。


 どうやらまだほんのボヤ程度の噂みたいで、こうこうこうしている人がいる、という程度の書き込みだった。もちろん叩かれている。


 「私もどうでもいいのだけれど、あなた結局付き合ってくれているじゃない」


 そりゃああれだけの苦痛を味わわされれば……それに殺す事を承諾したわけじゃない。


 「あら頑固ね」


 お前、人が好きなんじゃないのかよ。僕はさらなる情報を探りながら聞いた。


 「別に。基本的に人間の酸いも甘いも知っているわけだし。死のうが死ぬまいがどうでもいいわね」


 人が死ぬのは悲しい事だよ。


 「心にもない事を」


 その後しばらく掲示板を漁ってみると、名前が出てきた。ので、これからの聞き込みは大分楽になりそうだ。


 吉田将という名前を出すと、知っているらしい人はほとんど嫌な顔をした。たまにイケメンだよね、とかかっこいいよね、とかの言葉もあったけど、大抵の反応はよろしくなかった。


 聞いた話によると相当な女好きらしく、結構な数の女の子が吉田将と関係を持っているらしい。というのはほぼ男から聞いた話。けしからん。


 女の子の中にも『あいつ最低だよ』という人もいて、そういう人は僕の見立てによると食われたか、もしくは知人がやられたかのどちらかに当てはまるようだった。


 「ふん、思った通り屑のようね」


 そう決め付けるのは早計じゃないかなあ。


 「……へえ、あなたは人間を見下しているもんだと思っていたけど」


 まさか、と思いながら蕎麦をすする。今日の学食も賑やかだった。話し相手がいるため、隅っこで一人で食べている。高校までの事を思い出すのだけれど、たまに声をかけられるようにはなっている。


 単に自分の目で見て感じて確信を得た事じゃないと信じないだけだけど。


 「懸命ね。慎重というか、優柔不断というか」


 僕の魂胆が見えているんじゃなかったのか。女学生が手を振ってきたので僕も振り返す。


 「表面上だけね。なんとなーく人間の考えている事がわかる程度よ」


 受け流すついでに手招きすると、静かに頷いてこちらへやってきた。手には僕と同じく蕎麦を持っている。


 「偶然だね、同じ物を食べるなんて」

 言うと、理沙子は柔和に微笑んだ。


 「ここのお蕎麦、値段の割に美味しいからいつも食べてるの」

 「そうなんだ、僕もここの蕎麦好きだよ。出汁が何なのか聞き出そうとしてるけど、中々聞き出せないんだ」


 僕が言うと、


 「嘘。調べた後でしょうに」


 という化け猫の声と、


 「うん、おいしいよね。麺もコシがあって好きなの」

 という理沙子の声が重なった。


 が、二人くらいの声ならなんとか両方聞こ取れる。


 「うーん、学食のおばちゃんのこだわりが見れるよね」

 「私も食べてみたいな」

 「ただの学食なのにね」

 「お前は黙ってろ化け猫」


 あ、間違えた。しかも笑顔でさらっと言っちゃったぞ。


 「があそこを通りすぎてったなあ。随分でかい猫だったー」


 理沙子は一瞬引きつった顔をしたけど、振り返って気になるような仕草で見たかったなと言った。

 後ろからからかうように鼻を鳴らす声に、僕は腸煮えくり返った。


 全くなんてやつだ。思考が読まれるっていうだけじゃない、こいつ相当な悪戯好きだ。しかも人の人脈成形を邪魔しようとする邪悪な悪戯だ。


 「嘘。あなたはその子に異性として惹かれてる」


 厄介な化け猫だ。


 「物静かで穏やか。いて落ち着くのがあなたの好みなのね」

 「理沙子、今度の休み空いてる?」

 「うん、空いてるよ」


 理沙子は嬉しそうに言った。


 「遊びに行かない?」

 「うん、いいよ」

 「私も同伴する」


 化け猫は鬱陶しい。


 アパートに帰るなりぶつぶつねちねちと文句を言ってやった。耳を塞がれてもぐちぐち続けていると、今度は抱きつかれた。僕は吐いた。


 聞き込みは地道に続けた。とりあえずどういう人物か気になったのでまずはそこらへんを調べている。


 話に聞くと、人当たりがよく、女の子に人気で男との仲もそこそこ良好。ただ、その反面女癖も悪いようで、恨まれたり憎まれたりもしているようだ。


 要約してみると、悪いやつだけどだらしないという事。


 けれども、動物虐待の話は出てこなかった。大っぴらにそんな話をする人はいないか。バックにヤの人も絡んでいるようで、言い方も結構遠まわしになっている。


 考え事はメモにする癖があって、僕は図書館の定位置でその人物像を眺めた。人物像の場合は箇条書きにするとわかりやすく、大雑把なところも少し細かいところも見えてくるから面白い。


 まだ推測の域を出ないけど、酒癖が悪くキレると収まりがつかず、おそらく甘えるのが好きだ。


 「心理学でも齧っているのか」


 まあ趣味程度に。でもだからって確定したわけじゃないから、推測程度に。


 住んでいるところも大体把握できて、何をしている人なのかもわかった。どうやら小遣い稼ぎ程度に派遣のバイトをしていて、ふらふらと遊びまわっているらしい。うちの大学にもふらっと遊びに来る事もあるとかないとか。


 「青春を謳歌してるって感じだなー」

 「ただ怠惰に遊び呆けているだけでしょう。だらしない」


 遊ぶのは若いうちの特権ってやつでね。


 「時代はどんどん変わっていくわね。面白いものね」


 寛容だなあ。頑固親父ならここで最近の若者は弛んどるくらい言いそうなものなのに。


 「そんな段階はとっくに通り越しているわよ」


 ババアならそれもそうか。


 抱きつかれたけど、なんとか吐き気を堪えた。いつになっても化け猫でもそのワードは禁句らしい。というか、人間以上に上等な精神を持っていそうなのに、それくらいの事で感情が動いたりするんだなと思った。


 その日、吉田将が大学に来るらしいという話を聞いた。どう接触をしようか迷った。


 さて化け猫。僕はそういう運がないのは承知の通りだと思う。できるだけ自然に接触したい。


 化け猫は面倒くさそうに頷いた。


 「本当は目で見るのも嫌なんだけど」


 なんだか矛盾したやつだなあ。


 「感情なんて得てしてそんなものよ」


 まさに言葉通りに。


 国道を脇に入ると緩やかな急勾配がしばらく続き、大学を入るとすぐに100メートルほどの急勾配がある。その急勾配を歩ききるとだだっ広い中庭は見栄え良く手入れされており、真新しい校舎と相まって景観よくできている。


 その中庭で僕は待機して、小説でも読みながら吉田将を待つ。車に乗って中庭に登場すると、予想通り僕の前を通った。その瞬間、化け猫がひゅっと消えて、視界の端で化け猫が吉田将に抱きついているのが見えた。


 吉田将はこの世の終わりのような呻き声をあげると、その場に座り込んで顔を青くした。


 「大丈夫ですか?」


 僕が声をかけても、吉田将は息をするのも苦しいというように喘いだ。


 ……やりすぎだろう、話すらできやしない。


 「それくらい当然よ。それにあなたと同じくらいでやったのに、軟弱すぎるのよ」


 僕は仕方なく肩を抱き、医務室へ連れていった。ぐったりと力を抜いた人の重さっていうのは大したものがあって、すれ違う人に手伝おうかと声をかけられたけど断った。


 ベッドに寝かせると、悩ましげにうーんと唸った。


 「いい気味ね。死んでからもそれ以上の苦しみが待っているわ。そうだ、今すぐ殺してしまいましょう」


 黙ってろ化け猫。


 僕が大丈夫ですかと声をかけると、かろうじて返事らしきものが返ってきた。


 「よかった、突然倒れたからびっくりしましたよ」


 白々しいとばかり鼻で笑われたけど、無視した。


 「悪い……急に立っていられなくなって」


 少し考えてから、

 「いえ、この大学に何か用事ですか?」


 「彼女に会いに来た」


 どうやら周りくどい表現には気づかないくらいに重症らしい。そんなものだろう。


 「名前はなんていうんですか?」

 「将でいい。そっちは?」

 「将くんですね。荻原大和です」

 「大和か。いい名前だな」

 「ありがとうございます」


 化け猫が後ろで馴れ合うなと冷たい声で言ったけど、無視。


 社交性のあるいい人だった。吐くほど具合が悪いだろうに、それでも笑顔を向けてくれたし、普通にしていればいい人なのだろう。そう思うと、冷たい感触にぞっとした。それだけで助かったけど。


 体休めついでに少し談笑した後、


 「これも何かの縁ですし、アドレス交換しませんか」

 吉田将は快く承諾してくれた。


 まあ一歩前進といったところか。帰り道に化け猫に話しかけると、不機嫌そうに鼻を鳴らした。癖なんだろうか。


 「あなた、例え嫌いな相手であってもそうして愛想よくするのでしょう」


 まあね、コネの構築は着実に。


 「なんだか、思っていた人間像とかけ離れていくわ」


 人の酸いも甘いも知っているんじゃなかったの?


 「いくら生きようと話してみないとわからない事もあるものよ」


 いい教訓を学べたよ。




 3




 もうすぐ二月入るっていうのに、その日は霙がじっとりとアスファルトに積もっていた。


 出かけるにも足が引くので、僕らはレンタルショップでDVDを何本か借りると、雨模様と一緒にだらける事にした。


 昼間から酒を味わい、つまみをちびちびと食べる堕落した休日っていうのは僕にとっては貴重だ。普段はする事もなく、筋トレだとか読書だとか、何かしていないともったいない気がするのだ。


 「二杯目、いく?」


 僕が言うと、理沙子は静かに頷いた。真剣な目をしてテレビに食いついている。


 今見ているのは一時期話題になったホラー映画で、僕は一度見た事がある。もちろん言わなかったけど。


 冷蔵庫からビールを取り出してグラスに注いだ。前に、氷を入れるとやんわりと叱られてしまった。僕としては温くならないようにという気遣いだったのだけれど、彼女は純粋なビールの味を楽しみたいらしい。食べているつまみもスルメというしぶいチョイスだし、誰の影響なんだろう。ちなみに僕はビールとジンジャエールを割って氷をちょっと入れて、甘みと苦味を楽しむ飲み方が好きだ。ちびちびと飲んで酔っていくのが楽しいのだ。


 グラスとテーブルの触れ合う音が静かに響く。二度目の味気ない映画を見るともせずに、僕はビールをちびりと飲んだ。真剣な表情でテレビに食いつく理沙子が可愛らしくて、自然に笑顔になるのがわかった。


 彼女と過ごす時間は、こうして緩やかに流れていく。僕はその時間がとても好きだ。


 のだけれど、後ろでちょっとした事でいちいち驚く化け猫がいるせいで、その時間が台無しだった。


 きちんとしたところできちんとした反応をするのだけど、化け猫は、例えば場面が転換しただけでもびくびくとする。


 これには僕も驚いた。自分がその映画に出てくるような存在のくせに、そういうものに反応するっていうのはちょっと新鮮だった。


 ちなみに裸だ。


 「そういえば」


 と理沙子が思い出したように言ったのは、次の恋愛映画までの休憩時間での事だった。この時点で嫌な予感がちらついた。


 「大和くんが最近調べてる人いるじゃない」

 「うん」


 「名前は忘れちゃったけど、昨日あの人に声かけられたよ」

 「……ふーん」


 「嫉妬してる?」

 「どうしてわざわざそういう事を話すかなあ」


 「嫉妬して欲しいからよ」

 「君のそういう変なところで意地悪なところは、直した方がいい」


 「可愛いんだから」


 理沙子はそう言うと、僕の頭を撫でた。するすると髪の毛の間を滑っていく理沙子の手は温かい。


 「尻に敷かれているのね」


 化け猫の声にますます腹が立ち、僕は理沙子を抱きしめた。そのままキスをする。理沙子の少し尖った八重歯を舐めると、理沙子は喉を鳴らした。


 さっきの嫌な予感は、まだ胸から離れない。


 それからそれほど時間がたたないうちに、今度は猫や犬なんかの猟奇的な犯罪が多発し始めた。


 「やっぱり殺すべきだったんだ、あの時に」


 静かな化け猫の声に、僕はぞっとした。


 パソコンの前でコーヒーを啜りながらそのニュースを見ている時に突然だったので、コーヒーカップを落とすかと思った。


 「まだ吉田将と決まったわけじゃないでしょ」


 「やる奴はあいつ以外にいないわ」


 「残念ながら僕は現場を見た事がなくてね」


 化け猫は聞いていなかった。静かに怒気を滲ませながら僕を睨んでいる。目が合わなくてもそれだけで体の芯から冷やされているようで落ち着かない。


 僕は犯行現場を割り出すべく、今まで事件が起きた場所を特定していった。その作業には三時間ほどの時間がかかったけど、総合するとやっぱり大学のある町で事件が起きている。


 地図に当てはめてみると、大学近辺に住んでいる人なら誰もがありそうな行動範囲で、あまり手がかりにはならない。


 「ねえ、この辺で動物が集まったりするところってあるの?」


 僕は地図を示して化け猫に問いかけた。すると化け猫はいくつかそういうポイントを教えてくれた。


 「人間、この件、突っぱねてもいいのよ」

 「……いきなりどうしたのさ」

 「いえ」


 僕はなんだか可笑しくなって、堪えきれずに笑ってしまった。


 今まであれだけやれやれとうるさかったのが、こうして少し危ない感じになると急に優しくなる。


 「……違う。そういう意味じゃないわ」

 「じゃあどういう意味なのさ」


 「事情が少し違ってきた」

 「じゃあ、どうせなら最後まで関わらせてよ」


 そう言うと、化け猫は驚いたように目を見開いた。


 「あなたはこういう面倒事が嫌なんじゃなかったの」

 「確かに僕は合理的で面倒くさがりだし、あまりやりたくはないんだけど、なんだか少しわくわくしてるんだよ」


 その心は、と目で問われたので僕は続けた。


 「不謹慎だけど、僕こういう事って初めてなんだ。昔から運がなくて、自分からこういう事に首を突っ込んだりしてこなかった。だけどさ、これは僕にとっての非日常なんだよ。ドラマでもないし映画でもない。僕の日常で、僕の日常とはちょっと違う。答えのわかりきった問題集ばっかりやってきて、答えの予想できないトラブルはなかったから」


 「それで、あなたはこの状況を楽しんでいると?」


 「楽しんでなんかいないさ。ただ、手探りで何かを追うっていう状況に酔ってるだけ。僕だってフィクションの主人公に憧れていないわけじゃないんだ」


 「人間らしいわね」

 「大和でいいよ」


 化け猫は無表情でこちらを見返した。


 「猫さん、君の名前は?」


 猫は少しの逡巡の後、


 「……椎子。小田根椎子」

 「小田根さん家の猫だったの?」


 「ずっと昔の話よ。名前もその時にもらった」

 「いい名前だね」


 椎子はそれには答えなかった。


 それからというもの、この真冬に外で散歩する日課ができた。東北の二月始めの外気っていうのは、濡れたタオルを振り回せば秒で凍ってしまう世界で、気軽に散歩している人はまずいない。つまり、毎日風邪をひいてしまうリスクの代わりに、犯人を突き止めやすい。車で見張ったりしてもよかったのだけれど、人目がある場所でなんてやらないだろうし。


 電車で一駅二駅離れたところにある僕の町は、繁華街に近いとはいえ夜になると昼の活気を忘れてしまうくらい静かになる。これといった勾配があるわけでもなく、平坦な道がずっと続く僕の町。冬になるとちょっとした街灯でも綺麗にライトアップされて、なんの変哲もない町並みでも急に綺麗になる。乾いた雪をさくさくと踏みしめて、一つ目のポイントにたどり着いた。


 そこは近所の子どもがよく遊ぶような公園で、夏になると泥だらけになって遊ぶ子どもをよく見る。


 そういえば、理沙子と初めてキスしたのはこの公園だった。まだ付き合ってもいない頃だったのだけれど、その頃僕からアタックをかけて仲良くなっているところだった。町内を散歩しよう、という話で行き着いたのがこの公園。砂遊びする子どもを眺めつつ、夏真っ盛りの日差しに照らされながらべちょべちょのアイスを舐めて、ふとなんとなくキスをした。それを子どもにからかわれて、僕らは顔を真っ赤になりながら公園を去ったっけ。


 「あなたらしくない追想ね」


 うるさいよ。


 僕はなんとはなしに公園を歩いた。


 小さな公園に中には人の通り道だけができていて、周りの家のいい排雪場になっている。当然ブランコなんかも上のバーにまとめられていて、その半分が雪に埋まっている。ベンチはどこにあるのかわからない。


 ただ、たまに足跡が脇道に逸れていて、その逸れた場所に赤っぽい物が見えてしまった。


 「ここももう知られているのね」

 椎子が呟いた。


 僕はしばらく、それをじっと見つめていた。


 一日で成果をあげられる人間はそういない。その例に漏れず、僕も当然成果なしだった。


 前にも言ったけど、僕には運がない。だからそれなりに努力をしなければプライベードが疎かになってしまうので、普段の授業には相当身が入る。勉強もそうだけど、特に理沙子の事だ。理沙子はたまに、僕のアパートに勉強をしにきたりするから、そういう日は散歩には行けなかった。


 こつこつと散歩を続けているうちに、血痕をちらほらと見かけた。そのたびに、椎子は悔しげに眉をしかめた。


 「そういえば、椎子はいつも裸だけど、寒くないの?」

 「実体がないから」


 「でも僕には触ってたじゃん」

 「厳密には触っていないわ。なんていうのかしら……そういう勘違いをさせるというか」


 「今喋っているのも勘違い?」

 「そうなるわね」


 「つまり、みんなが騒ぐ幽霊っていうのもつまりは勘違いなわけだ」

 「そうなるわね」


 「なんだか悲しいね」

 「どうして?」


 「僕は君の事嫌いじゃないし、今こうして話しているのも勘違いだと思うと、ね」


 椎子は少しの沈黙のあと、言いにくそうに唇を噛んだ。


 「事が終わったら夢だったと思えばいいわ」

 「持論では、見た事感じた事はすべからく自分のものだからそれは却下で」


 そうやってくだらない話をしているうちに、ようやく初の手がかりと遭遇した。


 曲がり角を曲がると、椎子に急に静止させられた。椎子の指差す方を見てみると、ちょうど雪山と雪山の間でもぞもぞとしている何かが見えた。暗くてよく見えないけれど、粘着質な水音が聞こえてくる。


 ちょっと見てきて。椎子に伝えてみると、椎子は眉を思い切りしかめて首を振った。


 「気づかれる」


 君は幽霊なんじゃなかったのか。


 「あれもその類よ」


 というか、と今まで聞いた事がないくらいの怯えた声で続けた。


 「あれは悪魔とか怪物とか、忌み嫌われて恐れられる存在よ。まさか本物にお目にかかるとは思っていなかったわ」


 椎子の表情を見てみると、冷や汗でも流していそうな怯えきった表情をしていた。


 僕はよく見ようと、雪山の影で蠢くものを注視した。何をしているんだろうか。


 「多分、犬か猫の血を吸っているんでしょうね」


 近づいたらどうなる?


 「あなたもあれと同類になるわ」


 てことは、吸血鬼とか? でも人間の血しか吸わないんじゃなかったっけ。


 「逃げてから話すわ。とにかく帰りましょう、ここにいたくないわ」


 家に帰ってから、まずはコーヒーを入れて一息ついた。


 「あれを見てどう思った?」

 「ぞわっとした。よくないものだと思った」


 椎子は頷く。


 「さっき言った通り、私たちはあなた達人間に妖怪と呼ばれるものよ。あなた達的にわかりやすく言えば、幽霊、妖怪、悪魔っていうのはあながち間違っていなくて、例えば幽霊っていうのは今の私みたいなものよ。実体のあるものに影響を与える事はできないけど、見える人には姿は見えてしまう」


 僕は頷いた。


 「妖怪っていうのは、実体あるものに影響を与えられるけど、そのほどは微々たるものなの。たとえば、あなたの運気をあげたりさげたりするみたいな」


 一呼吸おいて、


 「悪魔とか怪物っていうのは、つまり実体あるものに直接的な影響を与えられるの。それも結構大規模に。俗に言う超能力みたいなものを使えたりするものもいるわね。あくまで、あなた達人間にわかりやすい表現で言うと、よ」


 「なるほど」


 「で、あれの話。あなたが言った通り、吸血鬼って呼ばれているものよ。外来種だからあまりよく知らないしその上又聞きだけど、人間から吸血鬼になったばかりの時は人間を食料にするっていうのは抵抗があるらしいの。だからまずは動物で渇きを満たすのだけれど、それじゃ満たされない」


 「よくある話なわけね」

 「そうね、話が早くて助かるわ」


 「じゃあ君は?」

 「え?」


 「椎子だよ。君は?」


 椎子は間抜けに口を開けて僕をまじまじと見つめた。


 見つめ合った後、椎子は耐え切れないとばかり吹き出した。


 「何、あなた私に興味持ってるの?」

 「大和だよ、椎子」


 そう言うと、椎子はますます笑い出した。


 「あなた、人間が私達の事を知りたいなんて」

 「いけない事じゃないでしょ?」


 なんだかバカにされている気がして、僕はムッとした。


 「でも君の笑っているところは初めて見た」


 「人間と関わるのが久しぶりだったからかしらねつい懐かしくて」


 「それはどうも」

 「でも、せっかくだけど私はもう消えるわ」


 「どうして?」

 「あなたにどうにかできるような事じゃないもの」


 僕はその言葉に妙に腹が立った。


 今まで、僕は運がなかった。だからやってきた事っていうのは全部自分が努力して得てきたものだと思っているし、やらなくちゃいけない事はやらなくちゃいけなかった。


 だから、お前はできないんだと言われるのが腹立つ。


 「じゃあ僕は勝手にやるよ、吸血鬼なんだろうがなんだろうが何かできないって事はない」


 「いえ、だからね」


 「うるさい、やるったらやる。決めつけないでくれるかな、むかつくんだ、こうこうこうだって決めつけられるの。僕が知らない事で根拠も知らない事を決め付けられるのは大嫌いなんだ。だから消えるなら勝手に消えればいいよ」


 「抱きつくわよ」

 「死にはしない」


 「やろうと思えばできるわ」

 「やってみればいいさ」


 ふと、沈黙が僕の部屋に居座った。ここにいるんだよ、と主張しすぎているお客さんだったけれど、僕はそいつに構ったりしなかった。


 僕の父親はいわゆる頑固親父というやつで、こうだと決めた事は頑として曲げない人だった。クイズ番組一つ見ていても、Aが正解だと言って僕がきちんとした根拠を並べて否定しても「いいや、これはAなんだ」と頑として聞かず、結果間違っていても何も言わずに通すような人だった。だから僕が大学に行く時も「お前には無理だ」と言って反対されたりした。結局、話しに話しあって受かれば金は出してやるから、という話に収まって無事に大学に通えているわけだけど。


 そういう父親を持ったからなのか、僕は決めつけられた結果というのが大嫌いなのだ。


 ああ、だからなのかもしれない。突然舞い込んできた非日常は、答えのわからないものばかりで、今まで決まった事しかやってこなかった僕だけど、答えの出ない結果というものを求めたのは。


 退屈でわかりきっていて、同じ事の繰り返しの日常で、だから人は未知のものに興味を抱くんだ。

 僕は、この物語の結末が知りたい。


 「物語、なんて生易しいものじゃない。死ぬかもしれないのよ」


 「僕はツイてないからね、本当に死ぬかもしれない」


 「狂ってるわね。大切な……人間もいるんでしょう」


 そこをつかれると痛いなあ。けど大切な人と言っても、家族間の仲はあまりよくないし、友達と言っても僕の場合本当に上辺だけの付き合いだ。


 理沙子は、そう、理沙子は、僕がもし本当に死んでしまったら悲しむだろうし、僕も死んだら死んだで化けてまで理沙子と一緒にいたいと思うんだろう。


 「でも、僕も男なんだなあって思うよ」


 そういう事に、僕も夢見てしまうというか。困った生き物である。


 「……純粋な好奇心で厄介ごとに首を突っ込みたがる人間は、お前が初めてだよ、大和」


 僕らは笑い合った。







 「ねえ、もし僕が死んだりしたらどうする?」


 図書館の隅っこで勉強している時に、ふと理沙子に聞いてみた。遠くで足音がしたり、時折紙が擦れる音がなんとも図書館らしい。


 理沙子はきょとんとして手を止めた。

 「いきなりどうしたの」


 「いやなんとなく。今までそういう純愛っぽい話をした事もなかったし、一度はいいかなって」


 「捻くれてるなあ」

 「で、どうなのさ」


 「そうだな……何もかもどうでもよくなっちゃうかもね」

 「具体的には?」


 「もう、全然純愛っぽくないじゃない」


 「僕はその具体的な事にロマンを求める人なわけ」


 「具体的なロマンにしちゃうあたり全然ロマンがないじゃない。純愛っていうのは、もっとこう抽象的で例えようのないものだと思うの」


 「例えば」


 「ほら、そうやってリアリティを求める」


 「どうして純愛にリアリティを求めちゃいけないわけさ」


 「求めちゃいけないわけじゃないけど、純愛って要するに気持ちの問題でしょう」

 「うーん」


 「純愛っていうのはね、過去の恋愛にも仕事とかのしがらみも関係なく、純粋に愛し合ってるだけっていうのが純粋なの」


 「そうやって決め付けられるとそうじゃない気がしてくる」


 理沙子はそれを無視した。


 「愛っていうのは永遠なの。だからね、もしも大和が死んじゃったら、大和の分まで生きようと思うよ。その先もずっと」


 「何もかもどうでもよくなるんじゃなかったの」

 「大和は純愛がしたいの?」


 「まあ、できれば」

 「なら、大和が死んじゃっても生き続けるよ」


 「なら僕もそうする」

 「大和は変なところで自分がないよね」


 「締まらないなあ、純愛ってもっとこう、愛してる理沙子。とかで終わるんじゃないの」

 「それは創作の見すぎ」


 「好きなもんで」


 やっぱりまったりと時間が流れていく。僕はこの時間が好きだ。


 そんな時間とは全く違った時間が、夜の散歩だ。寒い中黙々と歩き続けるのは、もう何かの拷問なんじゃないかと思うくらいだった。気の紛らわせ方と言えば、頭の中で勉強の復習をするか椎子と話すくらいのものだった。


 そんな日々がまた続いて、節分には椎子の前で豆を食べたし、バレンタイデーは理沙子にチョコをもらったりした。なんだかこういう行事って案外呆気ないよねと言うと、普段の日常が積み重なってこそ純愛なんだよ、と返されてしまった。


 そのバレンタインの二日後、高齢の町内徘徊をしていると、再びあれと遭遇した。今度は公園の目立たない場所で粘っこい水音をたてていた。


 事前に言われていた事は、危険だと思ったら逃げろ、下手に刺激をするな、だった。もし万が一の場合になってしまったら、力を貸してくれるそうだ。


 最近は特に寒い日が続いていたせいで、降り積もった雪の上でも平気で歩く事ができた。一応、足元を確かめて出来ている道を歩く事にする。


 それでも、僕の足は自然とのっそりとしたものになっていた。心臓は早鐘を打ち、血液はバキバキと音を立てている。白い吐息は熱く、その熱で汗すらかけそうだった。


 水音をたてている何かに後ちょうど十歩くらいのところまで近づくと、その全容が次第に明らかになった。真っ黒なコートとフードに身を包み、容姿は伺えない。けれども、いわゆる人外の何かで体が一回り大きく見える。誇張でもなんでもなく、体の周りをベールのようなものが包んでいて脈打っているのだ。


 どうやらそれは食事に集中しているらしく、こちらに気づかない。どう声をかけようかと迷った。こんばんは、と普通に挨拶するのはなんだか間抜けだし、何してるんですかと聞くのは明らかに刺激になっている。迷ったあげく、


 「あの」


 と声を出した。


 瞬間、それはこちらの身が竦んでしまうくらいの速さでこちらを向いた。


 僕は何も言わずに逃げ出した。フードの影からちらりと見えた目が獲物を狙う肉食獣のそれだった。

 のだけれど、踏み固められた道のように見えたものは、実はツルツルに凍っている雪で、滑って足をとられた。ツイてない。


 僕を呼ぶ椎子の声が聞こえた。ふわっと体に浮遊感を感じると、押し出されるように公園から追い出された。


 吸血鬼は獣よろしいスピードで襲ってくる。人の中じゃそこそこの身体能力があると自負している僕だけど、それでもあれには勝てないと思った。椎子の不思議な力があっても、それでも。


 「死ぬ気で走れ!」


 椎子の怒号に、僕は言われるまでもないとばかり思い切り走った。それでも足りないのか、すぐに追いつかれてしまう。


 椎子の毒づきが聞こえたかと思うと、真後ろにぞくっとした気配を感じた。なんというのだろう、階段から足を踏み外した時のあの感覚を百倍嫌な感じにして、絶望感溢れる感じというか。


 かと思うと、次は熱を感じた。それに吹き飛ばされるように転がり、転がりながら後ろを振り向くと椎子が吸血鬼の前に立ちふさがっていた。両手を吸血鬼にかざして、ぼんやりとした壁のようなもので吸血鬼を食い止めている。


 が、椎子の呻き声の感じはそれも長くはもちそうにない。なんとかしなくちゃ、と咄嗟に思った。


 走りだすと同時に、僕は右足に懇親の力をこめた。そしてそのままそれを思い切り吸血鬼にぶつけた。胴の辺りを蹴られた吸血鬼は思ったよりもふっとび、そのまま転がった。


 かと思うとすぐに起き上がり、為す術もないままに押し倒されてしまった。


 鋭い犬歯が街灯できらりと光り、僕は目を瞑った。


 死ぬんだなと思った。僕はやっぱりツイていないんだ。いつでもそうだった。人生ままならないものだなあ。


 ところが、いつまで経っても痛みがない。代わりに椎子の苦しげな呻きが聞こえるけれど、想像していた痛みがない。


 そっと目を開けてみると、歯を光らせたままがたがたと震えていた。顔は逆光でよく見えず、犬歯だけが妙に鮮やかだ。


 そして何を思ったのか、僕を解放するとそのままどこかへ去って行った。


 気分も体もボロボロのまま帰路につき、アパートにつくなり玄関に倒れこんだ。


 「死ぬかと思った」


 口から零れてきたのが不思議な一言だと思った。


 「どうしてあの時逃げなかった」


 椎子が怒気を含ませながら言った。


 「逃げたじゃん」


 「違う、私が食い止めていた時だ」


 「え、君が死んじゃうんじゃん。あれ、もう死んでるんだっけ。なんだか不思議な感じだなあ」


 「あなたは変よ」

 「でも、これで犯人はわかったね」


 椎子は不機嫌そうに鼻を鳴らした。


 「やっぱり変よ、あなた。躊躇がないんだもの」


 その日、僕は夢を見た。


 どうやらそこは葬式会場らしく、見知った親戚の顔がずらっと並んでいた。僕はそれが過去に経験したものだとわかったし、夢だって事もわかった。明晰夢、っていうんだっけ。たまに自分の思い通りに夢を変化させられると聞いた事があるけれど、僕には無理なようだった。


 参列客を見渡していくと、最前列に中学生の僕がいた。僕はじっと俯いて、こっくりこっくりやっている。全く憎たらしいクソガキだ。


 たくさんの花と一緒に飾られている遺影には、笑顔のおばあちゃんが写っている。


 僕はおばあちゃん子だった。昔はおばあちゃんと一緒に暮らしていて、今の僕の読書好きのルーツもそこに起因する。おばあちゃんは自分専用の書斎を持つほど無類の本好きで、ありとあらゆる活字を読むのを老後の趣味にしていた。特にゲームなんかに興味を持つ事がなくて、ぼっとしているだけの僕におばあちゃんは声をかけてくれたらしい。それはまだ幼すぎてよく覚えてはいないのだけれど、とにかくおばあちゃんは書斎に僕を誘ってくれたのだ。やる事がなければ自分と一緒に本を読んでみないか、と。そのお陰で、そこそこの語彙と人と話す時の引き出しの多さには苦労してこなかったわけだ。


 おばあちゃんの書斎は古臭いカビの匂いや紙独特の匂いが充満していて、僕はそのおばあちゃんの匂いが好きだった。そして、まだ小さな僕にコーヒーを飲ませ、コーヒー好きなのもそれが原因だ。幼心に、カビと紙とコーヒーの匂いが僕とおばあちゃんだけのものだという気がしたのだ。


 おばあちゃんは、僕を書斎に誘うたびに良い豆のコーヒーをその都度違う煎り方、淹れ方で飲ませてくれた。メジャーなところは当然、マイナーなものやおばあちゃん独自のブレンドまで多様に。何をそこまでこだわる事があるのか、味によって勧められる本まで違った。


 僕は無関心に、勧められるままに受動的に受け入れた。おばあちゃんの言っている事がなんとなくわかるような気がしたし、わからないような気もした。


 僕はおばあちゃんが大好きだったし、おばあちゃんも僕をよく可愛がってくれた。


 そのおばあちゃんが倒れた。心臓発作だったそうだ。元々体の弱かったおばあちゃんは、体の負担を最小限にできる娯楽として読書を選んだのだけれど、それも意味がなかったようだ。


 中学生の僕は相変わらずこっくりこっくりやっている。お母さんは泣いていた。僕にとってだけじゃなく、多くの人に好かれていた人のようで、会場にいる人達はその死を悼んでいる。


 人望があったんだなあ。僕は、呑気に寝ているだけのようだけれど。


 突然、棺桶の蓋が開いた。


 ところが、その異変に誰もが気づくわけでもなく、お坊さんのお経に一心不乱に耳を傾けている。


 僕は棺桶に近づいておばあちゃんを見てみた。安らかで、綺麗な顔をしたまま眠っている。ただ、やっぱり生きている時とは何かが違う。


 そうだ、思い出した。


 いつの間にか隣に立っていた幼い自分に気づいて、僕は思った。


 棺桶の中にいるおばあちゃんは、おばあちゃんの姿をした何かなんだと思ったんだ。生きている時とは明らかに何かが違う。生きている時には見えていた不思議な気配が、その死体には何も見えない。


 不思議だった。それは死が見えたような気にもなり、生きているっていうのがどういうものなのか理解したみたいでもあった。


 おばあちゃんの亡骸を見つめる僕は無表情で、悲しくもなければ寂しくもないようで、ただただ見下ろしているだけだ。


 この子は何も思わないんだろうか、大好きだった人が死んでしまったっていうのに。本当に、本当に大好きだったはずだ、僕は。


 木魚の音がやけに耳に響く。


 ただただ見つめている。何の感慨もなく、何の感情もなく、何の感動もない。


 「僕はなんてツイてないんだ」


 その子が呟く。


 「そうだね」


 僕はそれに答える。


 「いつもいつも、どうしてか僕はツイていないんだ。何をしても何をやってもうまくいかなくて、でも本の中じゃ面白いようにうまくいった」


 「そうだったね。でもそれすらどうでもよかった。自分の事だっていうのに、自分が不幸で報われないっていうのに、僕は僕がどうでもよかった」


 「でも構って欲しかった。愛して欲しかった」

 「でも関わらないで欲しかった。嫌って欲しかった」


 「不思議だね」

 「そうだね」


 木魚が鳴り響く。


 おばあちゃんが目を開き、随分懐かしい、優しい声で囁いた。


 「お前はいつまでも、あの部屋にいるんだよ、大和」


 目が覚めてすぐに、僕は行動を起こした。スマートフォンを手に取り、アドレス帳から吉田将を選択、電話した。


 シャワーを浴びて朝ごはんを食べた。歯を磨いている途中、椎子は誰に言うともなく言った。


 「ふと思ったのだけれど、私ここが好きよ。あなたとくだらない話をする時間も、あなたとぼーっと過ごす時間も」


 それはよかった。


 「できればいつまでもいたいくらいよ」


 それはよかった。


 身だしなみを整えると、僕は部屋を出た。今日も日常を謳歌しよう。

 






 「吉田さんに誘われたの」


 昼休み、学食を食べていると理沙子は物憂げに吐き出した。


 「実は私、あれから何度か吉田さんに誘われているのよ」


 「へえ、連絡先の交換なんてしてたんだ」


 「ええ、何度も断っているんだけど」


 「僕としては、きちんと断って欲しいんだけど」


 理沙子は憂鬱げにため息をつくと、


 「そうね、その方がいいわよね」


 と蕎麦をすすった。


 「不安だったら影から見守っておこうか、その方が安心できるでしょ」


 「帰りに一緒に帰れるしね」


 理沙子は微笑んだ。


 夕方にもなると、大学からは人気がさっぱりなくなってしまう。昼の学食なんかは行列ができるくらいだっていうのに、それが綺麗さっぱり消えてしまうのだ。


 その学食に、理沙子は呼び出された。吉田将は相変わらず陽気な感じで、薄暗い食堂が幾分明るく感じられた。


 他愛ない世間話でもしているようで、僕と椎子は息を潜めながら会話に耳を傾けた。


 聞いていて思ったのだけど、吉田将は話の流れを笑いに持っていくというか、明るい方に持っていくのが得意だ。僕にはああいった話の仕方は無理だなあとぼんやり思った。


 ところが、いつの間にか雰囲気がおかしくなっている。変な意味じゃなくて、それくらい自然に大人なムードに変わっていたのだ。


 「ね、俺、理沙子ちゃんの事が好きなんだ」


 「でも、私彼氏がいますし……」


 理沙子は困ったような、ちょっと怯えたような感じで笑っている。


 吉田将は理沙子に少しずつ近づき、覆いかぶさるように壁に押し付けた。


 「なあ、理沙子。俺をとれよ」


 「……困ります、先輩」


 「彼女の貞操が危ないわよ、大和」


 椎子がぶっきらぼうに言うので、僕もぶっきらぼうに相槌を打った。


 理沙子はもう完璧に覆いかぶさられた形になった。それを見て、確かに僕は躊躇がないなと思った。

 嫌がる理沙子の声を聞きながら、僕はぼんやりと思い出していた。


 吸血鬼になってしまった人間を元に戻す方法はない。椎子はそう断言していた。なってしまえばその先ずっとそのままだし、人の間で広まっている吸血鬼に関しての伝承はほぼ間違っていないらしい。


 悲鳴が響いた。僕はゆっくりと立ち上がると、園芸でよく使う鉄の杭を握りしめた。そのまま二人のいる場所までゆっくりと歩いて、目の前まで来ると理沙子が言った。


 「やっぱり気づかれていたのね」


 「僕が理沙子の事を間違えるはずないよ」


 理沙子は口元に血を滲ませながら儚げに微笑んだ。吉田将はぐったりとしていて、まるで死んでいるみたいだと思った。あの時のおばあちゃんのように。


 僕は黙ったまま、吉田将の胸に鉄の杭を突き刺した。肉を潜っていくのは効果音にしてぐずりとしていて、固くなったゼリーに指を突っ込む感触に似ていた。じわりと滲んでくる血が温かい。


 「この人は僕が殺した」


 僕の言葉に、理沙子は目を伏せた。


 ぐるぐると色々な思考が頭をめぐった。だけれど、それはまるで形になっていなくて、思考ってよりもむしろ感情みたいなものに近かったかもしれない。とりとめがなく、それでいて規則的にぐるぐる回る。

 「ねえ理沙子。僕はね、人が大好きだ」


 立ち上がり、食堂の窓から見える元気なネオンを眺めながらとつとつと話した。


 「小説とか読んでると、人の色んなところが好きになってくんだ。温かいところ、冷たいところ、人を愛す事、憎む事、とにかく人の色んな部分が大好きになったよ。大学に来るまで人のそういう営みに触れて、面倒ではあったけど、やっぱり好きになれた」


 これ、見えるかな。僕は椎子を指でさして、理沙子に聞いた。裸の椎子を見て、理沙子は静かに頷いた。


 ああ、言葉っていうのはどうしてこうも煩わしいんだろう。僕の感情をそのまま理沙子に理解してもらえる方法があればいいのに。次の言葉を探している僕に、理沙子がぼそりと呟いた。


 「私、今まで我慢してたのに、人の血を吸ったの初めて」


 「それをやったら、人じゃなくなっちゃう気がしたんでしょ?」


 理沙子は頷いた。椎子の言うとおりだった。


 「大和と一緒にいられなくなる」


 気まずい沈黙が流れた。これからどうなるんだろう。未来に怯える事ばかりがぐるぐるぐるぐる回る。

 血だまりを作る吉田将を見下ろした。彼も彼なりの愛すべき日常を送っていて、こうして死んでしまった事を知れば悲しむ人もたくさんいるだろう。僕の知らないところで色々な事があって、もしもそれを知れば彼を大好きになってしまうような過去や性格もあるかもしれない。


 けれども、それを僕は壊したんだ。


 僕はどうやってその罪を償うんだろう、それとも逃げるんだろうか、どちらにしても、僕はもう今までのような大学生活を送れない。今まで築きあげてきた何もかもも一緒に壊してしまった。


 理沙子との幸せはどこで壊れたんだろうか。理沙子が吸血鬼になってしまった時だろうか、僕が椎子と巡りあって非日常に飛び込んでしまった時だろうか。ターニングポイントはどこにあったんだろう。どこでどうすれば僕はこんな事にならずに済んだんだろう。


 非日常に憧れを持っていた。そうだ、僕はそうだった。けれども、僕は今どう思っているんだろう。

 そして理沙子は? 理沙子だってもう今までのような暮らしはできない。なってしまったのだから、そのようにして生きていかなくちゃいけないんだ。その時に、理沙子は頼るものがあるのだろうか、そもそも生きていくアテがあるんだろうか。


 「理沙子、僕の血を飲んでくれないか」


 そう言うと、理沙子は困惑した表情で言葉も出ないというように狼狽した。


 「僕、もう人の世界にはいられないよ。警察の力をなめちゃいけない。僕らはすぐにでも犯人として突き止められる」


 「大和」


 そこで声をかけてきたのは椎子だった。


 「だめよ、あなたこの世界が好きなんでしょう」


 「僕は理沙子も好きなんだ、愛してる」


 そこで、理沙子は泣き出した。


 「だめだよ大和、あなたまで人じゃなくなるなんて、堪えられない」


 「僕は人を殺した」


 「殺して欲しい、私はもう生きていたくない」


 「理沙子」


 僕はできる限り優しく理沙子を抱きしめた。今までにないくらいに優しく優しく、薄っぺらいガラスに触れている気分だった。


 「理沙子、僕は僕の純愛をここに誓うよ。刑務所に入る事になったって、人として罪を償う事だって、僕にはできる。でもね、僕はツイてない事に、君を愛してるんだ」


 僕はポケットからナイフを取り出すと、理沙子の首筋にひたとあてた。


 「殺してくれるの?」


 僕は理沙子の言葉を無視して、うっすらと切れ目をいれた。理沙子はちくりとした痛みを感じるようで、身を竦ませた。


 薄く切れた傷口からは鮮やかな血がとろりと流れる。ところが、その傷口も植物の成長を早送りで見ているみたいに治ってしまう。


 僕はもう一度、理沙子の首筋にナイフをあてて、今度はもう少し深く斬り込んでみた。すると今度はどろどろと血が流れだしてきて、襟の辺りがじわりじわりと血で滲んだ。


 それは糞尿をすする行為のようでもあり、神聖な性行為のようでもあった。生ぬるい血は口に含むと驚くほど舌に馴染んだ。理沙子だ。


 理沙子は僕を突き飛ばし、信じられないものを見るような目で僕を見た。


 「どうしたの?」


 理沙子は言葉にならない嗚咽を垂れ流し、ぐずぐずと涙を流した。そしてガタガタと震え出す。


 非情に残念な事に、僕は生まれ付きツイてなかった。だからこれまで何もかも自分の力でやるしかなかったし、今までの経験は全て自分のものだ。だからこれからも、僕がやる事は僕のものでしかないんだ。


 「椎子、もう一度確認するけど、吸血鬼って不老不死なんだよね」


 「……ええ」


 「これから僕らは、何百年、何千年、いつまでも生きてくわけだ」


 理沙子の嗚咽はさらに大きくなる。


 「椎子、永遠の時間を生きるってどんな気持ち?」


 「……辛いわ。死ねるなら、消える事ができるなら、そうしたい」


 「だからとめてくれたんだね。ありがとう」


 「人に戻りたい。幸せになりたい。時間を戻したい」


 「理沙子、これからもずっと愛してる」




 6




 「追い出し猫。それが君の本当の名前だろう」


 僕が言うと、椎子は沈黙を返してきた。


 「簡単なアナグラム。小田根椎子、追い出し猫ってね。四百年以上前、ある寺に住む和尚さんは猫をまるで自分の子どもみたいに可愛がっていた。けれどもある時、その寺に大ねずみが住み着いてその寺に色々な厄災を招きこんだ。困った和尚さんを見かねて、和尚さんの飼い猫は何百匹もの仲間を集めて、その大ねずみと戦って、退治した。結局、飼い猫もその仲間の猫もみんな死んでしまったけど、和尚さんは優しく供養してくれたらしいね」


 椎子は答えない。


 「猫は和尚さんも、その寺もどっちも大好きだったんだろうなあ。だって、自分を構って可愛がってくれる人がいる場所だったんだから」


 僕はぺらりとページをめくった。


 何年ぶりかに訪れた実家は、幸い書斎も昔のままで、読んだ事のない書籍がまだ山のようにあった。


 カビと紙の匂い、湯気を揺らすコーヒーの匂い、染み付いているおばあちゃんの匂い。何もかもあの頃のままだった。どうやら両親はここをこまめに掃除してくれていたようだ。


 「大和、これでよかったの?」


 「さあ、わかんない。でも、君は僕に色々と教えてくれるんだろう」


 「私が憎い?」


 「それもわからない。ただ、これからずっと僕と一緒にいてもらうよ」


 「彼女を愛しているんじゃなかったかしら」


 「僕は倒錯しているわけでもないし、君は小田根椎子で、追い出し猫だ。けど、君は理沙子なんだ」

 「そう」


 昔、大好きだったおばあちゃんと一緒にコーヒーを飲み、本を読んだ大好きな書斎。今はもう、おばあちゃんもいない。


 アパートの僕の部屋を思いながら、僕はページをめくった。


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