第187話 返事を待つ時間にも、向こうでは誰かが読んでいる
正式設置申請書を提出した翌朝。
梅桜高校の空には、薄い雲が広がっていた。
雨が降りそうな暗さではない。ただ、太陽が雲の向こうへ隠れているせいで、校舎の白い壁も中庭の木々も、昨日より少しだけ色を抑えて見えた。
校門前では生徒会の二人が挨拶運動をしている。
「おはようございます」
「おはよう」
「おはよー」
「眠そうですね」
「一時間目から数学だから」
「それは関係ないでしょう」
通り過ぎる生徒たちの返事は様々だった。
昇降口では、スポーツ特待の男子生徒が片方の靴下を裏返しに履いていることを友人から指摘され、その場で直すか教室まで行くか本気で悩んでいる。
普通科の女子生徒たちは、昨日出た小テストの点数で騒いでいた。
誰も。
昨日、十一組ラボが正式設置申請書を提出したことなど気にしていない。
なつきは、それが少しだけもどかしかった。
「今日返事来るかな」
階段を上がりながら、思わず口にする。
「昨日出したばかり」
隣を歩く春樹が答えた。
「分かってる」
「じゃあ」
「でも来るかもしれない」
「先生たちも授業ある」
「知ってる」
「施設管理も」
「知ってる」
「生徒指導も見るかも」
「それも知ってる」
春樹が少し笑う。
「じゃあ待つ?」
「待つ」
「できる?」
「……たぶん」
「怪しい」
「春樹は平気なの?」
「平気じゃない」
「良かった」
「何が?」
「私だけじゃない」
同じような会話を。
昨日は島中としていた。
自分も。
大して変わらない。
正式設置したい。
返事が欲しい。
早く。
でも。
急かしても早くならない。
頭では理解している。
二階へ着いたところで。
十一組ラボの教室から島中が顔を出した。
「来てる?」
なつきが思わず聞く。
「何が?」
「返事」
「俺が聞きたい」
「来てない?」
「先生まだ来てない」
島中は腕時計を見る。
「提出から十七時間くらい」
「寝てる時間含めるな」
後ろから田辺が来た。
「でも十七時間」
「学校閉まってた」
「施設管理の先生は家でも考えてるかもしれない」
「怖いこと言うな」
なつきが笑う。
島中は本気で返事を待っている。
自分も。
春樹も。
多分。
紅秋も。
美優も。
蓮も。
ただ。
出し方が違うだけ。
朝の短い時間。
十一組ラボでは、昨日提出したファイルの控えを確認した。
「提出先」
紅秋が言う。
「担当教師経由で施設管理、生徒指導、教務」
「三つ?」
島中。
「共用廊下の正式掲示だから」
「校長は?」
「最終承認が必要なら回る」
「めっちゃ見る」
「それだけ学校のものになるってこと」
なつきは。
昨日感じた少しの寂しさを思い出した。
学校へ渡る。
十一組ラボの試作ではなくなる。
だから。
色々な人が見る。
それは当然だった。
「今日やること」
紅秋が黒板へ書く。
『提出記録整理』
『保存版変更履歴』
『正式設置後の意見回収案』
「最後」
島中が反応する。
「許可出てないのに?」
「出た後から考えたら遅い」
「でも出なかったら」
「無駄にはならない」
「何で?」
「正式設置後に意見を受け取る方法自体は、別の案内でも使える」
「なるほど」
島中は少し考える。
「じゃあやる」
「待ってるだけよりいいでしょう」
「それが一番」
授業前の短い活動はそこで終わった。
なつきは自分の教室へ戻る。
一時間目。
二時間目。
授業は普通に進む。
なのに。
廊下を教師が通るたび。
少しだけ気になる。
十一組ラボ担当教師ではない。
分かっていても。
職員室から誰かが来るたび。
もしかして。
と思う。
三時間目の休み時間。
「横田さん」
隣の女子生徒が声を掛けた。
「何?」
「今日ずっと廊下見てない?」
「見てる?」
「先生来るたび」
「少し」
「怒られることした?」
「してない」
「じゃあ何」
「返事待ってる」
「大國くんから?」
「違う!」
思わず声が大きくなった。
近くの何人かがこちらを見る。
女子生徒は目を丸くした後。
笑いを堪え始めた。
「そっちじゃないんだ」
「そっちって何」
「付き合ってるって聞いたから」
「どこから」
「色々」
「色々って怖い」
「でも本当?」
また。
この質問。
なつきは。
以前より少し慣れた。
「うん」
「おお」
「声」
「ごめん」
「でも返事は春樹じゃない」
「何の?」
「十一組ラボ」
「ああ」
女子生徒は少し拍子抜けしたような顔をする。
「案内の?」
「うん」
「まだやってたの?」
その言葉で。
なつきは少し止まる。
悪意はない。
本当に知らないだけ。
「まだっていうか」
「うん」
「正式に置く申請出したところ」
「そんな段階あるんだ」
「ある」
「すぐ貼れないの?」
「共用廊下だから」
「大変」
「大変だった」
「でも楽しい?」
急な質問だった。
なつきは。
少し考える。
「うん」
「即答じゃない」
「大変も本当だから」
「なるほど」
女子生徒は笑った。
「通るといいね」
「ありがとう」
その短い言葉。
返事を待っている今は。
思ったより嬉しかった。
昼休み。
十一組ラボの教室。
島中は。
机へ突っ伏していた。
「何してるの?」
茜が聞く。
「待機」
「朝から?」
「授業は受けた」
「本当に?」
「受けた」
「返事は?」
「ない」
「だから待機?」
「うん」
田辺が島中の背中へファイルを置く。
「これやれ」
「何」
「保存版変更履歴」
「待ちながら?」
「できる」
「確かに」
島中は起き上がった。
教室には笑いが広がる。
返事を待つ。
だから。
何もしない。
ではない。
提出版の変更履歴を。
十一組ラボ内部で今後も参照できる形へ整える。
何を変えたか。
なぜ変えたか。
何を変えなかったか。
理由。
不採用案。
使えた役割。
全部。
「これ、正式設置されたら」
美優が言う。
「学校側にも簡略版渡したい」
「申請書に添付してるのと違う?」
島中。
「申請書は審査用」
「こっちは?」
「引き継ぎ用」
「誰に?」
「次の管理担当」
「俺らじゃなくなった時」
「うん」
また。
少し寂しさ。
でも。
島中は前ほどそれを嫌そうにはしない。
「なら」
少し考えて。
「分かりやすく書こう」
と答えた。
なつきは。
その言葉が嬉しかった。
何かを手放す。
そのために。
ちゃんと渡す。
それも活動なのだ。
「横田」
春樹が隣から呼ぶ。
「何?」
「この二つ」
春樹の前には。
意見記録の分類。
『案内自体への意見』
『案内を使った経験への意見』
「分ける?」
「どう違う?」
「『矢印見やすい』は案内」
「うん」
「『友達が戻ってくれた』は経験」
「なるほど」
「でも経験も案内改善に使った」
「うん」
「だから保存するとき、どっちかに入れると分かれすぎる」
「両方?」
「重複する?」
「参照だけ付ける?」
話し始める。
返事待ち。
その間にも。
記録は少しずつ整理される。
昼休みの終わりが近づいた頃。
扉が開いた。
全員が。
反射的に見る。
十一組ラボ担当教師。
島中が。
椅子から立ち上がった。
「来ました!?」
「何が」
「結果」
「まだだ」
「……ですよね」
島中がゆっくり座る。
教師が笑った。
「期待しすぎ」
「してます」
「知ってる」
そのまま教室へ入る。
「でも」
教師の声が少し変わった。
全員が。
今度は静かに見る。
「施設管理から確認が来た」
紅秋が立ち上がる。
「確認?」
「結果じゃない」
教師が先に言う。
「審査途中」
「はい」
「一つ」
教師は紙を机へ置いた。
「黄色い三角について」
なつきの胸が。
少し強く鳴った。
やっぱり。
そこ。
最終通し確認。
少し。
「ここへ入っていいか」
迷った人。
正式申請書へ。
隠さず書いた。
「質問」
教師が紙を読む。
『黄色い三角表示について、複数利用者が「注意」の印象を持ち、一名は入室可否について一時的な迷いを示している。形状変更を行わず正式設置申請へ進めた判断根拠を確認したい』
教室が。
静かになる。
否定ではない。
でも。
聞かれている。
なぜ。
直さなかったのか。
全員が。
記録を見た。
「返事」
教師が言う。
「今ここで即答しなくていい」
島中が。
少し驚いた顔をする。
「いいんですか?」
「お前らの申請だろ」
「はい」
「考えたことを返せ」
「はい」
「俺が答え作っても意味ない」
教師は窓際へ寄る。
「ただ」
少し笑った。
「申請書には理由書いてある」
「はい」
「それでも聞いてきた」
蓮が反応する。
「理由が足りない?」
「さあ」
「相手がどこを気にしているか確認?」
「可能性」
「じゃあ」
紅秋が言う。
「一度、全員で整理する」
「そうしろ」
教師は教室の後ろへ座った。
見守る。
答えは出さない。
紅秋が黒板へ。
『なぜ黄色三角を変えなかったか』
島中が最初に言う。
「文字読めば解決したから」
「それだけ?」
田辺。
「……だけじゃ弱い」
島中は自分で止まる。
「注意に見えたから、表示見た人もいた」
春樹。
「うん」
「発見の入口」
美優。
「形変更をすると、注意感が減る可能性と同時に、発見性も変わる」
蓮。
「比較してない」
「そう」
なつきは。
記録を見つめる。
以前。
自分は。
不安が出るなら変えたいと思った。
春樹は。
注意感が表示を読む入口として働くなら、現状でもよいと考えた。
その後。
記録を見た。
変えない方へ。
自分も変わった。
「私」
なつきが言った。
「うん」
紅秋。
「最初は変えたいと思ってた」
「理由」
「不安になる人がいたから」
教師も黙って聞いている。
「でも」
なつきは。
一つずつ言葉を選ぶ。
「不安になった人が、そのまま使えなくなったわけじゃなかった」
「うん」
「黄色を見て」
「うん」
「何かあると思って」
「うん」
「文字を読んで」
「うん」
「意味が分かって」
「うん」
「その後は進めた」
紅秋が黒板へ書く。
「それと」
なつきは続ける。
「黄色い三角に気づかなかった人もいた」
「うん」
「位置変えた」
「うん」
「教室名の横にしたら、気づく人増えた」
「うん」
「だから、問題が形だけじゃないって分かった」
美優が。
「位置と形を分けて確認した」
と書き足す。
「形を変えなかった理由」
教師が聞く。
なつきは。
少し考え。
「困った声だけ見て、届いていた役割まで消したくなかったから」
教室が。
静かになる。
教師が。
わずかに口元を緩めた。
「申請書に近いな」
「同じこと考えて書いたので」
「そうか」
今度は。
春樹。
「僕は」
「うん」
「形を変える必要性が、確認できなかったからです」
「必要性?」
「はい」
「注意に見える人はいた」
「はい」
「でも、強い行動停止はない」
「はい」
「入室回避もない」
「はい」
「誤った方向へ行くこともない」
「はい」
「だから」
春樹は。
少し間を置く。
「『注意に見える』という印象だけで形を変えると、今度は新しい形で別の問題が出る可能性がある」
「だから現状?」
「現状で正式設置後も見る」
「問題が出たら?」
「形を変える」
「今ではない?」
「はい」
教師は。
うなずいた。
次。
島中。
「俺も」
「うん」
「最初は直せばいいって思いました」
「いつも通り」
「先生まで」
笑いが起きる。
島中も笑った。
「でも」
少し真面目な顔になる。
「迷った人しか見てなかった」
「途中で?」
「はい」
「読んだ人もいた」
「はい」
「黄色があったから確認した人も」
「はい」
「だから」
島中は黒板を見る。
「今変えるより、正式に使ってから声を見た方がいいと思いました」
「正式設置を実験にする?」
教師の問い。
教室の空気が少し固くなる。
島中も。
すぐには答えない。
「……違います」
「何が違う?」
「安全に使えることは確認した」
「うん」
「正式設置後は」
「うん」
「安全か分からないものを試すんじゃなくて」
「うん」
「使えるものを使いながら、もっと良くする」
教師は。
しばらく島中を見る。
「それなら分かる」
島中が。
ほっとした顔をする。
「今の怖かった」
「本番の質問はもっと固いかもな」
「やめてください」
教室に笑いが戻る。
紅秋が回答案をまとめる。
『黄色い三角は「注意」の印象を持たれることが確認された一方、表示への発見・確認行動の入口として機能した。位置変更によって発見性は改善しており、現時点の利用者確認では強い行動停止・入室回避・誤行動は確認されていない。形状変更による新たな影響を十分検証できていないため、現形状を正式設置候補として維持する。ただし正式設置後も誤認・行動抑制を継続確認し、強い不安または入室回避等が確認された場合には形状を再検討する』
「長い」
島中。
「でも答えてる」
田辺。
「削る?」
「削らない方がいい」
なつきが言う。
「どうして?」
「相手が気にしてるところだから」
「うん」
紅秋も頷く。
「これで返す」
教師が。
回答案を受け取る。
「俺から施設管理へ渡す」
「今日?」
島中。
「今日」
「返事は?」
「分からない」
「ですよね」
「成長したな」
「先生も言う」
笑い。
教師が帰る前。
扉のところで止まる。
「一つ」
全員が見る。
「申請書」
「はい」
紅秋。
「ちゃんと読まれてるぞ」
なつきの胸が。
少しだけ熱くなる。
「黄色で迷った一人」
「はい」
「そこまで拾って質問来た」
「はい」
「良いか悪いかはまだ別として」
教師は言う。
「流し読みはされてない」
それだけ言って。
教室を出ていった。
扉が閉まる。
しばらく。
誰も声を出さなかった。
「読まれた」
春樹が言う。
「うん」
なつき。
「本当に」
島中も。
少し笑う。
「質問来た時、嫌だったけど」
「今は?」
田辺。
「ちょっと嬉しい」
「何で?」
「見てるから」
「同じ」
なつきが答える。
学校から。
まだ。
許可は出ていない。
でも。
申請書は。
誰かの机の上で。
紙の束のまま止まっていない。
読まれた。
引っ掛かった。
質問された。
自分たちが書いた理由を。
向こうで誰かが考えている。
「待つ時間」
紅秋が言う。
「何?」
島中。
「何もしてない時間じゃなかったね」
なつきが。
少し驚く。
昨日。
春樹と似たことを話した。
「向こうでも進んでる」
美優。
「こっちから見えないだけ」
「だから待てる?」
田辺が島中へ聞く。
「少し」
「少し」
「返事は欲しい」
「そこは変わらない」
「変わらなくていい」
教室に。
柔らかな笑いが広がる。
放課後。
帰り道。
雲の間から夕日が見えていた。
なつきと春樹は。
校門を出て。
いつもの道を歩く。
人が少なくなったところで。
自然に手をつなぐ。
「今日」
なつきが言う。
「うん」
「質問来た時、怖かった」
「僕も」
「『そこやっぱり駄目』って言われるのかと思った」
「僕も少し」
「でも違った」
「理由聞かれた」
「うん」
「何か」
なつきは。
夕方の空を見る。
「申請って、試験みたいに正解出すものじゃないんだね」
「どういうこと?」
「学校が『これは正しいですか』だけ見るんじゃない」
「うん」
「『何でこうしたの』って聞く」
「うん」
「私たちが答える」
「また向こうが見る」
「話してるみたい」
春樹は少し考える。
「紙で?」
「うん」
「面白い」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「好きだから?」
「申請書を?」
「違う」
なつきが笑う。
春樹も笑った。
「返事」
なつき。
「うん」
「いつ来るかな」
「分からない」
「明日?」
「可能性はある」
「明後日?」
「ある」
「一週間?」
「ある」
「長い」
「待つ」
「一緒に?」
「うん」
「なら」
なつきは。
つないだ手を少し強くする。
「待てる」
春樹も。
返す。
返事を待つ時間。
何もしていないように見える。
でも。
向こうでは。
誰かが読む。
引っ掛かる。
考える。
問いを返す。
こちらでは。
その問いを受け取る。
また考える。
言葉にする。
渡す。
見えないところでも。
進んでいる。
なつきは。
少しだけ。
待つことが。
前より怖くなくなっていた。




