兄を守る妹の決意〜柊梢の観察日記〜
中学三年生の秋、私は自分の部屋で日記を書いていた。
柊梢。高校二年生の兄・蒼磨の妹だ。
日記の最新ページには、こう書かれている。
「瑠璃川詩織は絶対に何か隠している。お兄ちゃんを騙している」
私は最初から、あの女が信用できなかった。
兄が詩織と付き合い始めたのは、一年半前のこと。
兄が彼女を家に連れてきた時、母は喜んでいた。
「蒼磨、素敵な彼女さんじゃない! 詩織ちゃん、また来てね」
父も「真面目そうないい子だ」と言っていた。
でも、私は違和感を覚えていた。
詩織の笑顔は完璧すぎた。作られた笑顔だと、直感的に分かった。
兄と話している時の目が、時々冷たくなる。ほんの一瞬だけ。
その瞬間を、私は見逃さなかった。
「梢ちゃん、仲良くしてね」
詩織は私に優しく微笑みかけた。
「はい」
私は表面上、愛想よく返事した。でも、心の中では警戒していた。
この女は、何かを企んでいる。
兄のことを本当に好きなわけじゃない。
そんな予感がしていた。
それから数ヶ月は、表面上は平和だった。
兄は詩織と楽しそうにデートに出かけ、家でも彼女の話をしていた。
でも、私は観察を続けていた。
詩織が家に来た時の行動、兄といる時の表情、スマホを触る頻度。
全てをチェックしていた。
そして、異変に気づいたのは夏休みが終わった頃だった。
詩織が家に来た時、彼女のスマホが何度も振動していた。
「ごめん、ちょっとトイレ」
詩織は慌ててトイレに駆け込んだ。
その隙に、私は兄に言った。
「お兄ちゃん、詩織さん、最近様子変じゃない?」
「そうか? 普通だと思うけど」
「スマホばっかり触ってるよ。しかも、お兄ちゃんの前で画面隠してる」
兄は少し考え込んだ。
「気のせいじゃないか?」
「そうかな...」
兄は優しすぎる。疑うことを知らない。
だから、騙されやすい。
私が守らなきゃいけない。
それから、私は本格的に調査を始めた。
詩織のSNSアカウントを探し、投稿をチェックする。
表向きは普通の高校生の投稿。兄とのツーショットもたまに載せている。
でも、位置情報が時々おかしい。
詩織が「友達と遊んでる」と言っていた日の位置情報が、全然違う場所を示していることがあった。
そして、フォロワーの中に怪しいアカウントがいくつかある。
派手な男のアカウント。詩織の投稿に頻繁にいいねをしている。
鷹取玲恩。隣の学区の高校に通う三年生らしい。
このアカウントの投稿を見ると、明らかに遊び人だと分かった。
高級車、ブランド品、夜遊び。
そして、何人もの女性との写真。
この男が、詩織と関係している可能性が高い。
私は確信した。
詩織は、兄を裏切っている。
でも、証拠がない。
兄に話しても、きっと信じてもらえない。
「梢の思い込みだよ」と言われるだけだろう。
だから、私は待った。
決定的な証拠が出るまで。
そして、その日は思ったより早く来た。
十月の終わり、学校から帰る途中、駅前で偶然に詩織を見かけた。
でも、兄とは一緒じゃなかった。
派手な男と腕を組んで歩いていた。
鷹取玲恩だ。SNSで見た顔と一致する。
二人はビジネスホテルから出てきたところだった。
私は急いでスマホを取り出し、写真を撮った。
証拠だ。
でも、この証拠を兄に見せるべきか迷った。
兄は傷つく。相当なショックを受けるだろう。
でも、早く知らせないと、もっと深く傷つくことになる。
その夜、私は自分の部屋で悩んだ。
どうすればいいのか。
兄を傷つけずに、真実を伝える方法はあるのか。
結局、直接的に伝えることにした。
翌日の放課後、学校の裏門で兄を待っていた。
「お兄ちゃん、また振られたの?」
兄は詩織にまたドタキャンされたらしい。三週連続だという。
「振られたわけじゃない。体調が悪いらしい」
「へえ。で、SNSは?」
「見てない様子だな」
私は溜息をついた。
「お兄ちゃん、いい加減気づいたら? あの女、絶対に浮気してるよ」
「梢」
兄の声は少し厳しかった。でも、私は続けた。
「だって明らかじゃん。スマホばっか触って、デートはドタキャン。しかも体調悪いって言ってるくせにオンラインになってる。これで浮気じゃなかったら何なのよ」
兄は何も言わなかった。
分かってるんだ。薄々気づいてるんだ。
でも、認めたくないだけ。
「まあ、様子を見るよ」
「お兄ちゃんは優しすぎるんだよ。その優しさにつけ込まれてるって気づいて」
私は立ち上がった。
「先に帰ってるからね。晩御飯、お母さんが揚げ出し豆腐作るって」
兄の背中を見て、胸が痛くなった。
優しすぎる兄。
裏切られていることに気づいていても、信じようとする兄。
そんな兄を見ているのが辛かった。
その夜、兄の様子がおかしかった。
夕食を断って部屋に籠もり、何かをしている様子だった。
私は兄の部屋の前を通りかかった時、ドアの隙間から中を覗いた。
兄はパソコンに向かっていた。
画面には、詩織のSNSアカウントが表示されていた。
そして、何かのスクリーンショットを保存している。
兄も、動き始めたのだ。
翌日から、兄の雰囲気が変わった。
表面上は普通を装っているが、目が違う。
冷たくて、鋭い。
詩織とのメッセージのやり取りも続けているが、以前のような温かさはない。
機械的に返信しているだけだ。
私は兄が何をしているのか、大体察しがついた。
証拠を集めているのだ。
詩織の浮気の証拠を。
そして、復讐の準備をしているのだ。
ある日の夜、兄の部屋に入った。
「お兄ちゃん、最近様子変だよ。何かあった?」
「大丈夫だ」
「嘘。絶対何かある」
私は兄の隣に座った。
「あの女のこと?」
兄は頷いた。
「やっぱり。で、どうするの?」
「証拠を集めてる」
「証拠?」
「浮気の証拠。そして、浮気相手の男の違法行為の証拠も」
私の目が驚きで見開かれた。
「お兄ちゃん、本気なんだ」
「当たり前だ。俺を馬鹿にした代償は、きっちり払ってもらう」
兄の声は、今まで聞いたことがないほど冷たかった。
優しい兄が、こんな表情をするなんて。
それだけ、傷ついたんだ。
「手伝えることがあったら言って。私も、あの女許せないから」
「ありがとう」
それから、私は兄の復讐計画を陰ながらサポートすることにした。
詩織のSNSアカウントの情報を集めたり、学校での様子を報告したり。
兄は全ての情報を整理し、完璧な計画を練っていった。
そして、決行の日。
兄は全ての証拠を、それぞれの場所に送付した。
詩織の学校、両親、玲恩の学校、警察。
全てに、完璧なタイミングで。
翌日、学校で噂を聞いた。
「瑠璃川詩織って子、大変なことになってるらしいよ」
「裏アカで色々書いてたんだって」
「彼氏のこと馬鹿にしてたらしい」
計画は成功した。
家に帰ると、兄が自室にいた。
「お兄ちゃん」
ドアを開けると、兄は窓の外を見つめていた。
「全部、終わったよ」
「そっか」
私は兄の隣に座った。
「お兄ちゃん、本当にこれで良かったの?」
「どういう意味だ?」
「だって、復讐は成功したけど、お兄ちゃん自身は幸せになったの?」
兄は答えられなかった。
私には分かった。
兄の心は、まだ傷ついたままだと。
復讐しても、その傷は癒えないのだと。
「分からない」
「そっか」
私は兄の隣に座った。
「お兄ちゃんが辛いのは分かる。でも、いつかは前を向かなきゃね」
その言葉が、兄に届いたかは分からない。
でも、言わずにはいられなかった。
数日後、詩織の母親が家に来た。
娘を許してほしいという懇願だった。
私は二階から、その会話を聞いていた。
兄の冷たい言葉。
詩織の母親の泣き声。
そして、兄の最後の言葉。
「詩織さんが本当に反省しているなら、俺に許しを求めるべきじゃない」
その言葉を聞いて、私は涙が出そうになった。
兄は、本当に強くなったんだ。
優しかった兄が、こんなに強くなるなんて。
でも、それは悲しいことでもあった。
人は、傷つかなければ強くなれないのだから。
詩織が転校した後、兄の様子は少しずつ変わっていった。
最初は無表情だったのが、たまに笑うようになった。
神宮寺さんと一緒にいることが増えた。
神宮寺帆波さん。兄の幼馴染で、クラスメイト。
彼女は昔から兄のことが好きだった。私にはバレバレだった。
そして、彼女なら兄を幸せにできると思った。
詩織とは違う。本物の優しさと、本当の愛情を持っている人だ。
ある日の夕方、兄と帆波さんが一緒に帰ってくるのを見た。
二人とも笑っていた。
本当の笑顔だった。
私は窓から二人を見て、微笑んだ。
「やっとお兄ちゃん、前を向き始めたね」
それから数ヶ月、春が来た。
兄は高校三年生になり、私も高校生になった。
同じ高校に入学したので、また兄と一緒に通学できる。
桜の季節、兄と帆波さんが一緒に登校しているのを見かけた。
二人はまだ恋人というわけじゃないらしいが、確実に距離が縮まっている。
「梢、おはよう」
帆波さんが笑顔で挨拶してきた。
「おはようございます」
「今日から高校生だね。何かあったら蒼磨に相談してね」
「はい」
私は二人を見て、嬉しくなった。
兄は、幸せになれる。
詩織みたいな女じゃなく、帆波さんみたいな本物の人と。
放課後、兄と二人で帰る機会があった。
「お兄ちゃん、帆波さんといい感じだね」
「そうか?」
「バレバレだよ。帆波さん、すごく嬉しそうだもん」
兄は少し照れた顔をした。
「まあ、まだこれからだけど」
「大事にしてあげてね。帆波さんは、あの女とは違うから」
「分かってる」
私たちは並んで歩いた。
桜の花びらが舞い落ちる中、兄は穏やかな表情をしていた。
あの冷たい目は、もうない。
優しい兄が、戻ってきた。
傷は完全には癒えていないかもしれない。
でも、前を向いて歩いている。
それが、何より嬉しかった。
家に着くと、母が玄関で待っていた。
「梢、入学おめでとう! お赤飯炊いたわよ」
「ありがとう、お母さん」
夕食の席で、家族四人で笑い合った。
父も、母も、兄も、私も。
これが、私たちの日常だ。
詩織が壊そうとした日常。
でも、私たちは守り抜いた。
夜、自分の部屋で日記を書いた。
「今日から高校生。お兄ちゃんは帆波さんといい感じ。詩織の件は完全に過去のこと。これからは、もっと幸せな日々が待っていると思う」
ペンを置いて、窓の外を見た。
星が瞬いている。
どこかで、詩織も同じ星を見ているのだろうか。
後悔しながら、涙を流しながら。
それは彼女が選んだ道の結果だ。
私は、兄を守った。
そして、これからも守り続ける。
兄が幸せになるまで。
いや、幸せになった後も。
妹として、それが私の役目だから。
ベッドに入り、目を閉じる。
明日からは高校生活が始まる。
新しい友達ができるかな。
部活は何に入ろうかな。
色々考えながら、眠りについた。
兄が幸せそうに笑っている顔を思い浮かべながら。
それが、私の一番の幸せだった。
数週間後、兄と帆波さんが正式に付き合い始めたと聞いた。
「梢、報告がある」
兄が照れくさそうに言った。
「帆波と、付き合うことになった」
「やった! おめでとう、お兄ちゃん!」
私は飛び跳ねて喜んだ。
「帆波さん、大事にしてあげてね」
「当たり前だ」
兄の顔は、本当に幸せそうだった。
詩織といた頃とは、全く違う表情。
これが本物の幸せなんだと、私は理解した。
その週末、帆波さんが家に遊びに来た。
「梢ちゃん、これからよろしくね」
「こちらこそ。お兄ちゃんをよろしくお願いします」
私たちは笑い合った。
母も喜んでいた。
「帆波ちゃん、前からこの家に来てたものね。家族みたいなものよ」
「ありがとうございます」
夕食は、みんなで鍋を囲んだ。
賑やかで、温かい時間。
これが、私たちの日常だ。
詩織が奪おうとした日常。
でも、私たちは取り戻した。
そして、もっと良いものを手に入れた。
夜、自分の部屋に戻ると、日記を開いた。
最後のページに、こう書いた。
「お兄ちゃん、やっと本当に幸せになれた。帆波さんは素敵な人。私も、お兄ちゃんたちみたいに、いつか素敵な恋をしたい。でも、今は家族の幸せを見守るのが一番楽しい」
ペンを置いて、窓の外を見た。
月が綺麗だった。
詩織は今、この月を見ているだろうか。
後悔しているだろうか。
多分、そうだろう。
でも、それは彼女の問題だ。
私たちは、私たちの幸せを生きる。
それだけだ。
ベッドに入り、目を閉じた。
明日も、きっといい日になる。
兄が笑っている限り、私も幸せだから。
これからも、ずっと。




