因果応報の地獄〜鷹取玲恩の転落記〜
親戚の家の狭い部屋で、俺は天井を見つめていた。
壁紙は黄ばんでいて、窓からは隣の家の壁しか見えない。六畳一間のこの部屋が、今の俺の全てだ。
鷹取玲恩。それが俺の名前だった。
過去形で語るのは、もう以前の俺は死んだからだ。
あの頃の俺は、全てを持っていた。
金、女、自由。そして、何より自信があった。
親父は地元で会社を経営していて、金には困らなかった。高級車を乗り回し、ブランド品を身につけ、女を取っ替え引っ替え。
高校三年生でこんな生活ができるのは、俺が特別だからだと思っていた。
学校の成績は悪くなかった。カンニングペーパーを売ってくれる後輩がいたし、テスト前には解答を手に入れるルートもあった。金さえ出せば、何でも手に入る。それが俺の世界だった。
女も簡単だった。
派手な外見と金、そして口の上手さ。この三つがあれば、大抵の女は落とせる。
彼氏持ちでも関係ない。むしろ、そっちの方が燃える。
瑠璃川詩織と出会ったのも、そんな軽い気持きだった。
友達の紹介で会った合コンで、詩織は一際目立っていた。可愛い顔して、どこか不満そうな表情をしている。
「彼氏いるんだけど、最近つまんなくて」
詩織がそう愚痴った時、チャンスだと思った。
「へえ、どんな奴? つまんないって、刺激がないってこと?」
「そう。優しいだけで、何も面白くない。デートも地味だし」
「それは勿体ないな。詩織ちゃんみたいな可愛い子、もっと楽しませてあげないと」
詩織は少し照れた顔をした。チョロい。
それから、詩織を口説くのは簡単だった。
高級レストランに連れて行き、ブランド品をプレゼントし、ドライブに誘う。金をかければ、女は簡単に落ちる。
「玲恩くん、彼氏とは全然違う。刺激的で楽しい」
詩織は目を輝かせて言った。
「だろ? 俺といれば退屈しないよ」
ホテルに誘うのも、抵抗はなかった。
詩織は罪悪感を感じているようだったが、すぐに慣れた。背徳感が逆に興奮を煽るらしい。
「彼氏には内緒だよ」
「当たり前じゃん。バレたら面倒だし」
俺たちは彼氏を裏切って楽しんでいた。
詩織が裏アカウントで彼氏のことを馬鹿にしているのを見て、俺も一緒に笑った。
「お前の彼氏、マジでダサいな。柊なんとかって奴だっけ?」
「柊蒼磨。真面目で優しいけど、本当に退屈なの」
「そんな地味な奴のどこがいいの?」
「安定してるから。いざとなったら結婚相手としてキープしとけばいいかなって」
「キープww それな」
俺たちは声を上げて笑った。
今思えば、あれが間違いの始まりだった。
柊蒼磨という男を、完全に舐めていた。
地味で真面目な奴。何も気づかずに彼女に裏切られている哀れな男。
そう思っていた。
でも、違った。
あいつは、全部知っていた。
そして、完璧に復讐を計画していた。
最初の異変は、学校からの呼び出しだった。
十一月の終わり、担任と教頭に職員室に呼ばれた。
「鷹取、これは何だ?」
机の上に置かれたのは、証拠写真の束だった。
俺がカンニングペーパーを売っている現場の写真。居酒屋で酒を飲んでいる写真。そして、女子高生とメッセージのやり取りをしているスクリーンショット。
パパ活の斡旋をしていた証拠だった。
「これは...どこから...」
「匿名で送られてきた。警察にも同じものが送られている」
血の気が引いた。
「お前、これが事実なら大問題だぞ。推薦入試どころの話じゃない」
推薦入試。三日後に控えていた、俺の未来への切符。
それが、消えようとしていた。
「誰だ。誰が送ったんだ」
「それは分からない。だが、証拠は揃っている。お前の行為が事実なら、停学処分は免れない」
その日の午後、警察から連絡が来た。
任意同行を求められた。
取調室で、刑事が淡々と証拠を並べていく。
「鷹取君、君はこのメッセージのやり取りで、女子高生とパパ活の相手を斡旋していたね?」
「それは...」
「一件につき一万円の報酬を受け取っていた。これは児童福祉法違反、そして売春防止法違反に該当する」
刑事の声は冷たかった。
「誰だ。誰がこんな証拠を集めたんだ」
「それは捜査の過程で判明した。だが、君が心配すべきはそれじゃない。君がやったことの責任だ」
俺は何も言えなかった。
全て、本当のことだったから。
金が欲しくて、女子高生をパパ活に斡旋していた。一件につき一万円。簡単な金稼ぎだと思っていた。
でも、それは犯罪だった。
親父から電話が来たのは、その夜だった。
怒鳴り声が耳を劈いた。
「玲恩! お前、何をやってくれたんだ!」
「親父...」
「警察から連絡が来た。パパ活の斡旋だと? お前、どれだけ会社の評判を傷つけたか分かってるのか!」
親父の会社は地元では有名だった。その社長の息子が犯罪を犯した。ニュースになるのは時間の問題だ。
「取引先から電話が殺到してる。お前のせいで、契約を打ち切られそうなんだぞ!」
「ごめん...」
「ごめんで済むか! お前はもう俺の息子じゃない。勘当だ」
電話は一方的に切られた。
翌日、学校から正式な処分が下った。
停学処分。そして、推薦入試の取り消し。
大学進学の道が、完全に閉ざされた。
廊下を歩くと、生徒たちの視線が突き刺さる。
「あれが鷹取だって」
「パパ活斡旋してたらしいよ」
「最低」
教室に入ると、誰も俺に話しかけてこなかった。
以前は群がってきた連中も、今は距離を置いている。
俺は、孤立した。
その週末、詩織から電話がかかってきた。
泣き声だった。
「玲恩くん、私も大変なことになってる。裏アカがバレて、学校でも家でも...」
「詩織、お前も?」
「うん。お母さんに裏アカの投稿全部見られて。蒼磨にも全部バレてて」
柊蒼磨。
その名前を聞いた瞬間、全てが繋がった。
「まさか...あいつか?」
「多分。私たちのこと、全部知ってたみたい。証拠も全部集めてたって」
地味で真面目な男。何も気づいていないと思っていた男。
あいつが、全ての黒幕だった。
「玲恩くん、助けてよ。お願い」
「俺だって大変なんだよ! 警察沙汰になってるんだぞ!」
「え...警察?」
「お前のせいだろ! お前の彼氏がチクったんだよ!」
俺は一方的に電話を切った。
詩織のことなんて、どうでもよくなっていた。
自分のことで精一杯だった。
それから、地獄が始まった。
まず、書類送検が決定した。
未成年だから実名報道はされないが、地元のニュースサイトには記事が載った。
「高校生がパパ活斡旋で書類送検へ」
高校名と年齢から、すぐに俺だと特定された。
ネットでは俺の名前が晒され、顔写真まで流出した。
「鷹取玲恩、最低だな」
「こんな奴が同じ高校にいたとか恥ずかしい」
匿名の誹謗中傷が殺到した。
さらに、被害者の保護者たちが動き始めた。
俺と親父を相手取って、民事訴訟を起こすという。
損害賠償の額は、数千万円。
親父の会社は、取引先からの契約打ち切りが相次ぎ、経営が悪化した。
「全部お前のせいだ」
親父は俺を家から追い出した。
荷物をまとめて、親戚の家に預けられた。
おじさんは渋々引き受けてくれたが、顔には迷惑だという表情が浮かんでいた。
「玲恩、ここでは大人しくしてろよ。これ以上問題起こすなよ」
「はい...」
与えられたのは、六畳一間の狭い部屋。
以前の豪華な生活とは、雲泥の差だった。
学校は自主退学という形で処理された。
卒業まであと数ヶ月だったが、学校側は俺を置いておきたくなかったらしい。
大学進学の道は完全に閉ざされた。推薦はもちろん、一般入試を受けることもできない。犯罪歴が残るからだ。
就職も難しい。誰が、犯罪者を雇いたいと思うだろうか。
俺の未来は、真っ暗だった。
ある日、以前の仲間から連絡が来た。
「玲恩、お前のせいで俺らも迷惑してるんだよ」
「どういうことだ?」
「お前と関わってたってだけで、警察から話聞かれたりしてさ。マジで勘弁してくれよ」
それだけ言って、電話は切られた。
友達だと思っていた連中も、みんな離れていった。
女も、誰も連絡してこなくなった。
金がなくなった俺には、何の価値もないらしい。
詩織からも、連絡は途絶えた。
彼女も転校したと聞いた。
俺たちは、それぞれの地獄で苦しんでいる。
そして、全ての元凶は、柊蒼磨だった。
あいつが、俺たちを地獄に突き落とした。
憎かった。
でも、同時に理解していた。
俺たちが悪かったのだと。
詩織の彼氏を馬鹿にして、裏切って、笑い者にして。
犯罪を犯して、金を稼いで、女を騙して。
因果応報。
俺は、自分が撒いた種を刈り取っているだけだ。
親戚の家での生活は、地獄だった。
おじさんは俺を冷たく扱った。食事は最低限しか与えられず、小遣いもない。
「お前を養う義理はないんだからな。感謝しろよ」
おばさんも、俺を見る目は冷たかった。
「あなたのせいで、この家の評判まで悪くなったのよ」
従兄弟たちも、俺を避けた。
学校で「犯罪者の親戚」と言われるのが嫌らしい。
俺は、完全に孤立した。
家庭裁判所での審判が行われた。
裁判官は淡々と判決を読み上げた。
「少年は、児童福祉法違反及び売春防止法違反の行為を行った。被害者は複数おり、その影響は深刻である」
「よって、少年に対し保護観察処分とする」
保護観察。
定期的に保護司のもとに通い、行動を監視される。
就職も、進学も、全て制限される。
犯罪歴は消えない。
これから何十年も、俺はこの過去を背負って生きていく。
ある夜、一人で部屋にいた時、ふと思った。
もし、あの時に戻れたら。
もし、詩織を誘わなかったら。
もし、犯罪に手を染めなかったら。
もし、柊蒼磨を馬鹿にしなかったら。
今頃、俺はどうなっていただろう。
大学に進学して、普通に就職して、普通の人生を送っていたかもしれない。
でも、時間は戻らない。
俺は自分の選択の結果を、受け入れるしかない。
スマホを開くと、かつてのSNSアカウントが残っていた。
フォロワーはほとんどがブロックしたか、フォローを外している。
投稿も、全て削除した。
あの頃の俺は、もういない。
高級車に乗って、ブランド品を身につけて、女を侍らせていた俺。
全て、幻だった。
親父の金で作り上げた、偽りの自分。
本当の俺は、何も持っていない。
何の能力もない。
ただ、口が上手いだけの、中身のない人間。
それが、俺の正体だった。
窓の外を見ると、隣の家の壁が見える。
以前は、窓から見える景色は広大だった。高層マンションの上階に住んでいたから。
今は、壁しか見えない。
これが、俺の世界だ。
狭くて、暗くて、希望のない世界。
ふと、柊蒼磨のことを考えた。
あいつは今、どうしているだろう。
多分、幸せに暮らしているだろう。
詩織とは別れて、新しい彼女ができたかもしれない。
俺たちに復讐を果たして、スッキリした顔で日常を送っているだろう。
一方で、俺と詩織は地獄で苦しんでいる。
これが、因果応報というやつか。
人を馬鹿にして、裏切って、犯罪を犯した報い。
当然の結果だ。
でも、それを認めるのは辛い。
俺は、プライドが高かった。
自分は特別だと思っていた。
金があれば何でもできると思っていた。
でも、違った。
金がなくなれば、俺には何も残らない。
友達も、女も、地位も、全て消えた。
残ったのは、犯罪歴と孤独だけ。
スマホに、保護司からメッセージが届いた。
「来週、面談があります。遅刻しないように」
これから何年も、この監視は続く。
自由もない。
未来もない。
全て、俺が選んだ道の結果だ。
ベッドに横になり、天井を見つめる。
黄ばんだ壁紙が、俺の人生を象徴しているようだった。
汚れていて、古くて、価値のない。
そんな人生。
もう、やり直すこともできない。
詩織も、同じように後悔しているのだろうか。
それとも、俺のことを恨んでいるのだろうか。
「玲恩くんのせいで」と。
どちらでもいい。
俺には、もう彼女のことを気にする余裕もない。
自分のことで精一杯だ。
これから、どうやって生きていくか。
仕事を見つけられるのか。
犯罪歴がある人間を、誰が雇ってくれるのか。
親戚の家にいつまで居候できるのか。
不安ばかりが押し寄せてくる。
でも、誰も助けてくれない。
親父は勘当した。
母親は、俺に失望して連絡してこない。
友達は、みんな離れていった。
俺は、完全に一人だ。
孤独と、後悔と、絶望だけが、俺の友だ。
窓の外では、誰かが笑い声を上げている。
普通の高校生たちだろう。
友達と遊んで、恋愛して、未来を夢見て。
俺も、かつてはそうだった。
いや、違う。
俺の場合は、偽りの幸せだった。
親父の金で作られた、砂上の楼閣。
それが崩れた今、何も残っていない。
時計を見ると、夜の十時を回っていた。
明日も、何もすることがない一日が待っている。
学校もない。
仕事もない。
友達もいない。
ただ、狭い部屋で過ごすだけの日々。
これが、俺の人生だ。
これから何十年も続く、地獄のような人生。
そして、全ての原因は、俺自身にある。
柊蒼磨を恨むことはできない。
あいつは、正当な復讐をしただけだ。
俺たちが先に、あいつを傷つけた。
詩織と一緒に、あいつを笑い者にした。
因果応報。
俺は、自分が蒔いた種を刈り取っているだけだ。
でも、それを認めるのは辛い。
プライドが邪魔をする。
でも、認めるしかない。
俺は、間違っていた。
詩織を誘ったのも、犯罪に手を染めたのも、柊蒼磨を馬鹿にしたのも。
全て、俺の選択だった。
そして、その代償を払っているのが、今だ。
目を閉じると、過去の記憶が蘇る。
派手に遊んでいた頃の記憶。
女と笑い合っていた記憶。
友達と騒いでいた記憶。
全て、もう戻らない。
そして、戻るべきでもない。
あの頃の俺は、間違っていたのだから。
涙が溢れてきた。
悔しさか、悲しさか、後悔か。
分からない。
ただ、涙が止まらなかった。
声を殺して、一人で泣いた。
誰にも聞かれないように。
誰にも知られないように。
これが、俺の現実だ。
柊蒼磨が笑っている頃、俺はまだ泣いている。
そして、これからもずっと。
これが、俺への罰なのだろう。
自業自得だ。
でも、それでも。
辛い。
狭い部屋の暗闇の中で、俺は一人、慟哭した。
誰も助けてくれない。
誰も慰めてくれない。
これが、俺が選んだ道の終着点だ。
地獄の底で、俺は這いずり回る。
希望もなく、未来もなく、ただ後悔だけを抱えて。
これが、鷹取玲恩という男の末路だった。




