私が失ったもの〜瑠璃川詩織の懺悔録〜
転校先の高校の教室で、私は窓の外を眺めていた。
誰も私に話しかけてこない。当然だ。転校生というだけで警戒されるのに、私には前の学校で問題を起こしたという噂がついて回っている。
瑠璃川詩織。それが私の名前。
かつては、前の学校で人気者だった。容姿には自信があったし、友達も多かった。そして、優しい彼氏がいた。
柊蒼磨。
その名前を思い出すだけで、胸が締め付けられる。
今、私がこうして誰もいない教室の隅で孤独に過ごしているのは、全て私の愚かさの結果だ。
あの日々を思い出す。蒼磨と付き合い始めた頃のことを。
告白したのは私からだった。
蒼磨は地味だけど、成績優秀で真面目。何より、人として信頼できる雰囲気があった。一緒にいると安心できる、そんな存在だった。
最初の一年は本当に幸せだった。
蒼磨は優しかった。いつも私のことを考えてくれて、デートも楽しくて。プレゼントは派手じゃなかったけど、ちゃんと私の好みを理解してくれていた。
家族も蒼磨のことを気に入っていた。母なんて「この子と結婚したら幸せになれるわよ」なんて言っていたくらいだ。
でも、私は満足できなかった。
いつからだろう。蒼磨との時間が退屈に感じ始めたのは。
多分、SNSのせいだ。
友達がキラキラした投稿をするのを見るたびに、羨ましくなった。高級レストランでのディナー、ブランド品のプレゼント、派手なデート。
それに比べて、蒼磨とのデートは地味だった。カフェでお茶をして、映画を観て、公園を散歩する。
悪くない。でも、特別じゃない。
私はもっと特別な存在でありたかった。もっと注目されたかった。もっと、キラキラしたかった。
そんな時、玲恩に出会った。
鷹取玲恩。隣の学区の高校に通う三年生。
出会いは、友達の紹介だった。合コンみたいな飲み会で。未成年だったけど、そんなの気にしなかった。
玲恩は派手だった。茶髪で、ブランド品を身につけて、高級車に乗って。何より、口が上手かった。
「詩織ちゃん、超可愛いじゃん。彼氏いるの勿体ないよ」
「え、でも彼氏いるし...」
「彼氏いても関係ないでしょ。俺と遊ぼうよ。楽しいこといっぱいあるよ」
最初は遊びのつもりだった。
蒼磨には内緒で、たまに玲恩と会う。それだけ。本気じゃない。ただの気晴らし。
玲恩とのデートは刺激的だった。高級レストラン、カラオケ、ドライブ。お金を使ってくれるし、褒めてくれるし。
SNSに投稿すると、友達から羨ましがられた。その反応が、私を満足させた。
でも、それだけじゃ足りなくなった。
玲恩に誘われて、ホテルに行った。
罪悪感はあった。でも、背徳感が逆に興奮を煽った。
蒼磨を裏切っている。でも、バレなければいい。蒼磨は何も気づいていない。
そう思っていた。
そして、私は致命的なミスを犯した。
裏アカウントを作ったのだ。
本垢では言えない本音を吐き出す場所。鍵垢で、信頼できる友達だけをフォローして。
そこで、私は蒼磨のことを馬鹿にした。
「彼氏マジで退屈。優しいだけで刺激ゼロ」
「今日も彼氏とデートの予定だったけどドタキャンした。玲恩くんとホテル行く方が優先に決まってる」
「彼氏、全然気づいてなくて笑える。マジでちょろい」
書いている時は楽しかった。共感してくれるフォロワーもいたし、玲恩も私の投稿を見て笑っていた。
「詩織の彼氏、マジでダサいな。そんな奴のどこがいいの?」
「まあ、安定してるし。いざとなったら結婚相手としてキープしとけばいいかなって」
「キープww それな」
私たちは蒼磨を笑い者にした。
優しい彼を、真面目な彼を、私のことを大切にしてくれていた彼を。
今思えば、信じられないくらい残酷だった。
でも、あの時の私は気づかなかった。
自分がどれほど酷いことをしているか。
そして、どれほど大切なものを持っていたか。
崩壊は突然やってきた。
ある日、学校に行くと職員室に呼び出された。
担任の先生と、生徒指導の先生が深刻な顔で座っていた。
「瑠璃川さん、これは何ですか?」
机の上に置かれたのは、私の裏アカウントの投稿を印刷したものだった。
全部だ。蒼磨を馬鹿にした投稿、友達や先生の悪口、全て。
血の気が引いた。
「これは...どこで...」
「匿名で送られてきました。あなたのご両親にも同じものが郵送されています」
終わった。
そう思った。
その日、家に帰ると母が玄関で待っていた。
泣いていた。
「詩織、これは本当にあなたが書いたの?」
母の手には、印刷された投稿の束があった。
「お母さん...」
「答えなさい! これを書いたのはあなたなの!?」
私は何も言えなかった。言い訳なんてできない。全部、私が書いたものだから。
「どうしてこんなことを...柊君があんなに優しくしてくれてたのに...」
母は崩れ落ちた。
父も仕事から帰ってきて、無言で私を見た。その目には、失望しかなかった。
「お前を育て間違えたのか」
父のその一言が、胸に突き刺さった。
翌日から、学校での立場が一変した。
廊下を歩けば、ひそひそと噂話をされる。教室では誰も話しかけてこない。
裏アカで悪口を書かれていた生徒たちが、私を睨んでくる。
「よくあんなこと書けたね」
「最低」
「柊君が可哀想」
友達だと思っていた子たちも、私から離れていった。
「詩織とは関わりたくない」
「あんな裏アカ作るなんて引く」
生徒会選挙への立候補も辞退させられた。
理由は「生徒の模範となる人物とは言えない」から。
全て、私が撒いた種だった。
そして、蒼磨からの電話を着信拒否された時、私は全てを失ったことを理解した。
三日後、必死に学校で蒼磨を待った。
憔悴しきった顔で、目は泣き腫らして。
「蒼磨、お願い、話を聞いて」
蒼磨は無表情だった。
以前の優しい表情は、もうどこにもなかった。
「許す?」
その一言が、氷のように冷たかった。
「何を許すんだ?」
私は必死に謝った。でも、蒼磨の目は何も映していなかった。
「お前の裏アカ、全部見た。俺のこと、散々馬鹿にしてたよな」
そして、蒼磨は全てを知っていることを告げた。
ホテルから出てくるところを見られていたこと。
裏アカの投稿を全て読まれていたこと。
玲恩と一緒に私が蒼磨を笑い者にしていたこと。
「お前が後悔してるのは、俺を裏切ったことじゃない。バレたことだろ」
その言葉が、的確すぎて反論できなかった。
本当は、そうだったから。
私が恐れていたのは、蒼磨を傷つけたことへの罪悪感じゃない。
全てを失うことへの恐怖だった。
「さよなら、瑠璃川さん。もう俺に関わらないでくれ」
蒼磨は私を置いて去っていった。
その背中を見て、初めて理解した。
私は、本当に大切な人を失ったのだと。
その後、玲恩のことも知った。
彼が警察に捕まったこと。パパ活を斡旋していたこと。学校を退学になったこと。
玲恩から連絡が来た。
「詩織、助けてくれよ。お前のせいでこうなったんだぞ」
意味が分からなかった。
「私のせい? どういうこと?」
「お前の彼氏だろ、チクったの! 俺の全部の証拠を警察に送ったの、あいつだよ!」
電話は一方的に切られた。
蒼磨が。
蒼磨が、復讐したのだ。
私に対してだけじゃない。玲恩に対しても。
そして、それは完璧に成功した。
玲恩は人生を失い、私は全てを失った。
母が転校を勧めてきたのは、それから一週間後だった。
「ここにいても、詩織が辛いだけよ。新しい場所で、やり直しましょう」
やり直し。
本当にやり直せるのだろうか。
最後の登校日、蒼磨と廊下ですれ違った。
「蒼磨」
彼は立ち止まった。でも、表情は変わらなかった。
「私、本当に馬鹿だった。あなたがどれだけ大切な人だったか、失って初めて分かった」
それは本心だった。
蒼磨の優しさ、誠実さ、全てが今になって理解できた。
でも、遅かった。
「でも、もう遅いんだよね」
私は自嘲的に笑った。
「私、これから先ずっと後悔し続けると思う。あなたを裏切ったこと、嘲笑ったこと、全部」
蒼磨は何も言わなかった。
「ただ一つだけ。あなたには幸せになってほしい。私みたいな女のことなんて忘れて、本当に大切にしてくれる人を見つけて」
深く頭を下げた。
「さよなら、蒼磨」
それが、私たちの最後の会話だった。
そして今、私は転校先の高校で一人、窓の外を眺めている。
友達はいない。誰も私に話しかけてこない。
両親との関係も、完全には修復していない。スマホは監視され、門限は厳しくなった。
全て、私が招いた結果だ。
時々、蒼磨のことを考える。
彼は今、幸せだろうか。
神宮寺さんと一緒にいるのだろうか。彼女は昔から蒼磨のことが好きだったから、きっと今頃は。
そう考えると、胸が痛む。
でも、それでいいのだと思う。
蒼磨は幸せになるべきだ。私みたいな女に費やした一年半を取り戻して、本当に大切にしてくれる人と。
私はこれから先、ずっと後悔し続ける。
蒼磨を失ったことを。
自分の愚かさを。
そして、取り戻せない過去を。
放課後、一人で帰路につく。
誰も一緒に帰る友達はいない。
ふと、前の学校の近くの和菓子店のことを思い出した。
蒼磨の実家の店だ。
一度だけ、連れて行ってもらったことがある。店の人たちは温かくて、蒼磨の妹さんも可愛らしかった。
あの時、蒼磨の母親が言った。
「詩織ちゃん、いつでも来てね。蒼磨がこんな素敵な彼女を連れてきてくれて、母さん嬉しいわ」
その言葉を思い出して、涙が溢れた。
素敵な彼女。
私は、その期待を裏切った。
蒼磨の家族にも、蒼磨にも、そして自分自身にも。
夕暮れの空が赤く染まっていく。
この色を見るたびに、あの日のことを思い出す。
蒼磨と最後にすれ違った日の夕焼けを。
私は一人、誰もいない道を歩き続ける。
これが、私が選んだ道の結果だ。
いや、違う。
私が選んだのではない。私が招いた結果だ。
そして、これは始まりに過ぎない。
これから先、何年、何十年と、私はこの後悔を抱えて生きていく。
蒼磨が笑っている頃、私はまだ泣いている。
そして、これからもずっと。
それが、私への罰なのだろう。
自業自得だ。
でも、それでも。
もし時間を戻せるなら。
もし、あの日に戻れるなら。
私は絶対に、蒼磨を裏切らない。
玲恩なんかに目もくれず、ただ蒼磨だけを見ていただろう。
裏アカなんて作らず、蒼磨の優しさに感謝しただろう。
でも、時間は戻らない。
私はこの後悔を抱えて、前に進むしかない。
いつか、本当に変われる日が来るだろうか。
いつか、この罪を償える日が来るだろうか。
分からない。
でも、それでも生きていかなければならない。
これが、私の罰なのだから。
転校先の寮に戻ると、小さな部屋が待っている。
窓から見える景色は、前の学校とは全く違う。
でも、どこに行っても、後悔は私を追いかけてくる。
机の引き出しを開けると、一枚の写真が入っている。
蒼磨と一緒に撮った写真だ。
二人とも笑っている。あの頃は、まだ全てが壊れる前だった。
この写真を捨てることができない。
忘れてはいけないから。
自分が何を失ったのか。
自分がどれほど愚かだったのか。
そして、二度と同じ過ちを繰り返さないために。
窓の外では、星が瞬いている。
蒼磨も、同じ星を見ているだろうか。
それとも、もう私のことなんて忘れて、新しい誰かと幸せな時間を過ごしているだろうか。
きっと、後者だろう。
それでいい。
蒼磨は幸せになるべきだ。
そして、私は後悔し続けるべきだ。
それが、私たちの未来だ。
私が泣いている頃、蒼磨はもう笑っている。
その事実が、何よりも辛い。
でも、それが当然なのだ。
私は、それだけのことをしたのだから。




