第二話 因果応報の連鎖〜君たちが望んだ未来はこれだろう?〜
詩織からの電話を拒否してから三日が経った。
学校では詩織の話題で持ちきりだった。裏アカウントの内容が一部の生徒の間で広まり、彼女は完全に孤立している。廊下を歩けば視線が刺さり、教室では誰も話しかけない。
生徒会選挙への立候補は辞退させられた。学校側は表向き「健康上の理由」としているが、実際には裏アカでの誹謗中傷が問題視されたのだ。特に、他の生徒や教師への悪口が複数含まれていたことが致命的だった。
一方、隣の学区にある玲恩の高校では、さらに大きな騒動になっているらしい。
帆波が昼休みに情報を持ってきた。
「蒼磨、聞いた? 鷹取玲恩、完全にアウトらしいよ」
「どういうこと?」
「まず推薦入試は取り消し。停学処分も確定。でもそれだけじゃなくて、警察が動いてるんだって」
「警察?」
「パパ活斡旋の件。被害者の女子高生が複数いて、その保護者たちが被害届出したらしい。児童福祉法違反と売春防止法違反の疑いで、玲恩は取り調べを受けてるって」
予想以上の展開だった。俺が通報したことで、警察が本格的に動いたのだ。
「しかも、玲恩の親も相当怒ってるらしい。父親が地元の実業家で、息子の不祥事が会社のイメージに傷をつけたって。勘当も検討してるとか」
完璧だ。
玲恩は全てを失いつつある。大学進学、学校での立場、親からの信頼。そして、これから刑事責任も問われる。
「ねえ蒼磨」
帆波が真剣な顔で俺を見た。
「これ、あなたがやったの?」
俺は何も答えなかった。でも、帆波は理解したようだった。
「そっか。詩織さんのことで、色々あったんだね」
「帆波は何も知らない方がいい」
「分かった。でも、一つだけ言わせて」
帆波は俺の目を真っ直ぐ見つめた。
「蒼磨が傷ついてないわけないよね。辛かったら、いつでも話聞くから」
その言葉に、少しだけ胸が温かくなった。でも、今はまだ感情を出すわけにはいかない。
「ありがとう」
その日の放課後、詩織が俺の教室の前に待っていた。
憔悴しきった顔で、目は泣き腫らしている。以前の華やかさは見る影もなかった。
「蒼磨、お願い、話を聞いて」
周囲の生徒たちの視線が集まる。俺は無表情のまま、詩織の前を通り過ぎようとした。
「待って!」
詩織が俺の腕を掴む。
「私、全部話すから。だからお願い、許して」
「許す?」
俺は初めて彼女の方を向いた。
「何を許すんだ?」
「その...私、浮気してた。玲恩くんと。本当にごめんなさい」
周囲がざわつく。詩織は周りを気にせず、必死に続けた。
「でも、あれは魔が差したっていうか。本当に蒼磨のことは大事に思ってて...」
「嘘をつくな」
俺の声は氷のように冷たかった。
「お前の裏アカ、全部見た。俺のこと、散々馬鹿にしてたよな。『ちょろい』『退屈』『キープ』。お前にとって俺は、保険だったんだろ?」
詩織の顔が蒼白になった。
「それは...違うの。あれは、その時の感情で...」
「お前は玲恩と一緒に、俺を笑い者にしてた。ホテルから出てくるところも見たぞ。体調悪いって嘘ついて、あいつと会ってたんだよな」
詩織は言葉を失った。周囲の生徒たちは固唾を呑んで見守っている。
「もう一度聞く。俺が何を許すんだ?」
「蒼磨...お願い...」
「お前が後悔してるのは、俺を裏切ったことじゃない。バレたことだろ。全てを失いそうになってるから、必死に俺にすがろうとしてるだけだ」
詩織は泣き崩れた。でも、俺の心は微動だにしなかった。
「さよなら、瑠璃川さん。もう俺に関わらないでくれ」
俺は彼女を置いて、教室を出た。
その夜、玲恩に関する新しい情報が入ってきた。
梢が興奮気味に俺の部屋に入ってきた。
「お兄ちゃん、大変! ネットニュースになってる!」
梢が見せてくれたスマホの画面には、地元のニュースサイトの記事が表示されていた。
「高校生がパパ活斡旋で書類送検へ 被害女性は10名以上」
記事には玲恩の名前は出ていないが、高校名と年齢から本人だと特定できる内容だった。
さらに、被害者の保護者たちが玲恩とその両親を相手取って民事訴訟を起こす準備をしているという。損害賠償の額は数千万円規模になる見込みだ。
玲恩の父親が経営する会社も、この件で取引先から契約を打ち切られるなど、深刻な影響を受けているらしい。
「完全に人生終わったね、この人」
梢の言葉に、俺は静かに頷いた。
「自業自得だ」
「でもお兄ちゃん、本当にこれで良かったの?」
「どういう意味だ?」
「だって、復讐は成功したけど、お兄ちゃん自身は幸せになったの?」
梢の問いに、俺は答えられなかった。
確かに、詩織と玲恩は因果応報で不幸のどん底に落ちた。俺の計画は完璧に成功した。
でも、俺の心は。
「分からない」
「そっか」
梢は俺の隣に座った。
「お兄ちゃんが辛いのは分かる。でも、いつかは前を向かなきゃね」
梢の言葉が胸に沁みた。
翌週、詩織の状況はさらに悪化していた。
両親との関係が完全に破綻したらしい。裏アカウントの内容を見た母親が激怒し、詩織は家で監視状態に置かれているという。スマホも取り上げられ、学校と家の往復だけの生活を強いられている。
友人関係も壊滅的だ。裏アカで悪口を書かれていた生徒たちが詩織を避け、以前仲が良かったグループからも完全に孤立した。
昼休み、廊下で詩織とすれ違った。彼女は俯いて歩いており、以前の輝きは完全に失われていた。すれ違う瞬間、彼女が小さく呟いたのが聞こえた。
「蒼磨...」
でも、俺は振り返らなかった。
教室に戻ると、帆波が心配そうな顔で待っていた。
「大丈夫?」
「ああ」
「詩織さん、本当に辛そうだね」
「自分がやったことの結果だ」
帆波は少し躊躇してから、口を開いた。
「ねえ蒼磨。復讐って、本当に終わりがあるのかな」
「どういう意味だ?」
「だって、相手を不幸にしても、蒼磨の傷が癒えるわけじゃないでしょ? むしろ、もっと深くなってるんじゃないかって心配なの」
帆波の言葉は核心を突いていた。
確かに、復讐は成功した。詩織も玲恩も、想像以上の代償を払っている。でも、俺の心に開いた穴は埋まっていない。
「分からない。でも、やるしかなかった」
「それは分かる。でも、これから先のことも考えてほしいの」
帆波は俺の手を握った。
「蒼磨は、もっと幸せになっていいんだよ」
その言葉に、胸が熱くなった。
その日の夕方、予想外の訪問者があった。
詩織の母親だった。
俺が家に帰ると、母と話し込んでいる見知らぬ女性がいた。詩織の母親だとすぐに分かった。娘に似た顔立ちだが、疲労と心労で老け込んでいる。
「柊さん、こちら瑠璃川さん。詩織さんのお母様よ」
母が紹介した。詩織の母親は深々と頭を下げた。
「この度は、娘が本当に申し訳ございませんでした」
「頭を上げてください」
俺は冷静に言った。
「お母様が謝る必要はありません。悪いのは詩織さん本人ですから」
「蒼磨君、お願いがあって来ました。娘を、許してあげてもらえないでしょうか」
「許す?」
「娘は今、本当に反省しています。毎日泣いて、自分のしたことを後悔して。このままでは、娘が壊れてしまいそうなんです」
詩織の母親の目には涙が浮かんでいた。
でも、俺の心は動かなかった。
「瑠璃川さん、質問があります」
「はい」
「詩織さんは、何を後悔しているんですか? 俺を裏切ったこと? それとも、バレて全てを失ったこと?」
詩織の母親は言葉に詰まった。
「それは...」
「俺が詩織さんの裏アカを見た時、そこには俺を嘲笑する言葉が並んでいました。『ちょろい』『退屈』『キープ』。彼女は浮気相手と一緒に、俺を笑い者にしていたんです」
「それは...娘が愚かでした」
「ええ、愚かでした。でも、それだけじゃない。詩織さんは確信犯だったんです。俺を利用価値のある『保険』として見ていた。それが彼女の本性です」
詩織の母親は顔を覆って泣き出した。
「お願いです...娘にもう一度チャンスを...」
「瑠璃川さん」
俺は静かに、しかしはっきりと言った。
「詩織さんが本当に反省しているなら、俺に許しを求めるべきじゃない。自分の行為と向き合い、これから先の人生でそれを償っていくべきです。俺に許してもらったところで、彼女が変わるわけじゃない」
母親は何も言えずに、ただ泣いていた。
それから数日後、玲恩に関する最終的な情報が入ってきた。
書類送検が正式に決定し、家庭裁判所での審判が予定されている。未成年なので実名報道はされないが、地元では完全に特定されており、社会的制裁は十分に受けている。
父親の会社は倒産の危機に瀕しており、玲恩は家族からも見放された。現在は親戚の家に預けられているが、そこでも冷遇されているらしい。
高校は自主退学という形で処理された。大学進学の道は完全に閉ざされ、就職も困難だろう。犯罪歴が残るため、将来にわたって影響が出る。
民事訴訟も始まっており、被害者の保護者たちは容赦ない。玲恩個人だけでなく、親にも賠償責任を求めている。
完全に、人生が終わった。
それを知った時、俺は何も感じなかった。
達成感も、満足感も、何もない。
ただ、空虚さだけがあった。
十二月に入り、学校ではクリスマスの話題で盛り上がっていた。
でも、俺の周りには微妙な空気が漂っている。詩織との騒動は学校中に知れ渡っており、同情の視線と好奇の視線が混在していた。
ある日の放課後、帆波が俺を屋上に呼び出した。
「蒼磨、話がある」
屋上に出ると、冷たい風が吹いていた。帆波はフェンスに寄りかかり、夕焼けを見つめていた。
「詩織さん、転校するらしいよ」
「そうか」
「これで、本当に全部終わりだね」
帆波は俺の方を向いた。
「で、蒼磨はこれからどうするの?」
「どうするって?」
「ずっと過去に囚われたまま? それとも、前を向く?」
俺は答えられなかった。
帆波は一歩近づいてきた。
「私ね、ずっと蒼磨のこと見てた。中学の頃から。でも、詩織さんが告白して、蒼磨が幸せそうだったから、何も言えなかった」
「帆波...」
「今は、蒼磨が傷ついて、復讐して、空っぽになってるのが分かる。でもね、いつかはその穴を埋めなきゃいけない時が来るんだよ」
帆波の目には涙が浮かんでいた。
「私は待ってる。蒼磨が前を向けるまで。そして、もし蒼磨が私のこと必要としてくれるなら、いつでもそばにいるから」
その言葉に、俺の凍りついていた心が少しだけ溶けた気がした。
「ありがとう、帆波」
「今すぐ返事はいらない。ただ、一つだけ約束して。自分を責めないで。悪いのは詩織さんと玲恩であって、蒼磨じゃないから」
俺は頷いた。
それから一週間後、詩織が最後の登校日を迎えた。
転校先は県外の高校らしい。彼女は誰とも話さず、荷物をまとめて教室を出ていった。
廊下で、最後にすれ違った。
詩織は立ち止まり、俺を見た。目は真っ赤に腫れていた。
「蒼磨」
「何?」
「私、本当に馬鹿だった。あなたがどれだけ大切な人だったか、失って初めて分かった」
「そう」
俺の返事は冷たかった。
「でも、もう遅いんだよね」
詩織は自嘲的に笑った。
「私、これから先ずっと後悔し続けると思う。あなたを裏切ったこと、嘲笑ったこと、全部。でも、許してなんて言わない。許されるわけないから」
「分かってるなら、いい」
「ただ一つだけ。あなたには幸せになってほしい。私みたいな女のことなんて忘れて、本当に大切にしてくれる人を見つけて」
詩織は深く頭を下げた。
「さよなら、蒼磨」
それが、俺たちの最後の会話だった。
詩織は去っていき、俺は動かなかった。
不思議なことに、心は穏やかだった。憎しみも、悲しみも、もうなかった。
ただ、終わったのだという実感だけがあった。
翌日、俺は帆波に声をかけた。
「帆波、今度の週末、暇か?」
帆波は驚いたような顔をした。
「え? うん、暇だけど」
「映画でも行かないか? 前に話してた、あの新作」
帆波の顔がパッと明るくなった。
「本気?」
「ああ。それと、色々話したいこともある」
「うん! 行く!」
帆波の笑顔を見て、俺も自然と笑顔になっていた。
妹の梢は、その様子を遠くから見て微笑んでいた。
「やっとお兄ちゃん、前を向き始めたね」
週末、俺は帆波と映画を観に行った。
映画が終わった後、カフェで向かい合って座る。帆波はホットココアを飲みながら、嬉しそうに映画の感想を話していた。
「ラストシーン、良かったよね。主人公が過去を乗り越えて、新しい一歩を踏み出すところ」
「ああ」
「蒼磨も、そうなれるといいね」
俺は帆波の目を見た。
「帆波、俺、まだ完全には立ち直ってない。詩織のことも、玲恩のことも、多分これから先もずっと心のどこかに残ると思う」
「うん」
「でも、このまま過去に囚われ続けるのは違うって、最近分かってきた。復讐は完了した。二人はそれぞれの因果応報を受けた。俺がやるべきことは、もうない」
帆波は静かに頷いた。
「これからは、前を向いて生きたい。時間はかかるかもしれないけど」
「私は待つよ。何年でも」
「ありがとう。でも、そんなに待たせないようにする」
俺たちは笑い合った。
その笑顔は、詩織といた頃とは違う、本物の笑顔だった。
それから数ヶ月後。
春が来て、俺たちは高校三年生になった。
詩織のことは、もう誰も話題にしない。玲恩の事件も、ニュースでは完全に風化した。
でも、俺は忘れていない。
あの経験が俺に教えたこと。人は簡単に裏切るということ。信頼は一瞬で崩れるということ。そして、因果応報は必ず訪れるということ。
同時に、もう一つ学んだ。
復讐は完遂しても、心は満たされないということ。本当に必要なのは、復讐ではなく、前を向く勇気だということ。
帆波は今も俺のそばにいる。彼女は急かすことなく、ただ静かに寄り添ってくれている。
俺たちはまだ恋人というわけじゃない。でも、確実に前に進んでいる。
ある日の放課後、帆波と一緒に桜並木を歩いていた。
「ねえ蒼磨、今幸せ?」
「ああ」
そう答えながら、俺は心からそう思った。
詩織は今、どこかで後悔し続けているだろう。玲恩は人生の底辺で苦しんでいるだろう。
それは彼らが自分で選んだ道の結果だ。
俺は、俺の道を選ぶ。
過去に囚われず、未来を見据えて。
桜の花びらが舞い落ちる中、帆波が笑った。
「じゃあ、これからもずっと一緒にいようね」
「ああ、約束する」
俺たちは並んで歩き続けた。
春の風が、優しく背中を押してくれているような気がした。
詩織と玲恩が泣いている頃、俺はもう笑っている。
それが、俺が選んだ未来だった。
そして、それは間違いじゃなかったと、俺は確信していた。




