第一話 崩壊の序曲〜信じていたものが全て嘘だった日
十一月の冷たい風が頬を撫でる放課後、俺は学校の裏門近くのベンチに座って文庫本を読んでいた。今日も詩織とのデートの約束をドタキャンされた。理由は「急に体調が悪くなった」とのことだ。
柊蒼磨。それが俺の名前だ。地元の進学校に通う高校二年生で、成績はまあまあ上位。将来は家業の和菓子店を継ぐか、それとも別の道を探すか、まだ決めかねている。
詩織とは一年半前に付き合い始めた。瑠璃川詩織。クラスでも目立つ美人で、社交的で明るい。正直なところ、彼女から告白されたときは驚いた。俺みたいな地味な人間に、なぜ彼女が興味を持ったのか。でも、そんな疑問も彼女の笑顔の前では霧散した。
最初の一年は本当に楽しかった。週末には一緒に映画を観たり、カフェで他愛ない話をしたり。詩織の家にも何度か招かれたし、俺の実家の和菓子店にも来てくれた。妹の梢は詩織のことをあまり好いていないようだったが、それは妹特有の兄への独占欲だろうと思っていた。
でも、二ヶ月ほど前から様子が変わった。
詩織のスマホを触る時間が明らかに増えた。デート中でも頻繁に画面をチェックし、メッセージの通知が来るたびに慌てて確認する。画面を俺から隠すようにして。
そして、ドタキャンが増えた。最初は月に一度程度だったのが、今では週に一度のペースだ。理由は毎回違う。体調不良、家の用事、友達の相談に乗らなきゃいけない。
今日で三週連続のドタキャンだ。
携帯を取り出して詩織のSNSをチェックする。ストーリーには何も上がっていない。でも、妙だ。体調が悪いと言っていたのに、三十分前に別のアプリにログインした形跡がある。
違和感は確信に変わりつつあった。
「お兄ちゃん、また振られたの?」
声をかけてきたのは妹の梢だった。中学三年生で、俺と同じ黒髪に切れ長の目をしている。セーラー服姿のまま、俺の隣に座る。
「振られたわけじゃない。体調が悪いらしい」
「へえ。で、SNSは?」
「見てない様子だな」
梢は小さく溜息をついた。
「お兄ちゃん、いい加減気づいたら? あの女、絶対に浮気してるよ」
「梢」
「だって明らかじゃん。スマホばっか触って、デートはドタキャン。しかも体調悪いって言ってるくせにオンラインになってる。これで浮気じゃなかったら何なのよ」
梢の言葉は俺の中の疑念を言語化したものだった。でも、証拠がない。いや、証拠を探すのが怖かったのかもしれない。
「まあ、様子を見るよ」
「お兄ちゃんは優しすぎるんだよ。その優しさにつけ込まれてるって気づいて」
梢はそう言い残して立ち上がった。
「先に帰ってるからね。晩御飯、お母さんが揚げ出し豆腐作るって」
手を振って去っていく梢の背中を見送りながら、俺は携帯を握りしめた。
もう少しだけ、信じてみよう。そう思った。
でも、その「もう少し」は、その日の夜に終わりを迎えることになる。
家に帰る途中、駅前の大通りを歩いていた時だった。信号待ちをしていると、斜め向かいのビルからカップルが出てくるのが見えた。
ビジネスホテルだ。
そして、その二人は。
瑠璃川詩織と、見慣れない男だった。
時が止まったような感覚に陥った。詩織は男の腕にしがみつき、笑っている。体調が悪いと言っていた彼女が、見たこともないほど幸せそうな表情で。
男の方を見る。高校の制服を着ている。詩織より背が高く、茶髪で派手な見た目だ。俺の学校の制服ではない。隣の学区の、柄の悪いことで有名な高校の制服だ。
二人は通りを歩いていく。俺の方を見ることもなく。
携帯を取り出し、シャッターを切る。連写で十枚以上撮影した。二人の顔がはっきりと写っている。ホテルの看板も一緒に。
不思議なことに、怒りは湧いてこなかった。代わりに、氷のような冷静さが全身を支配した。
家に帰ると、母が心配そうに顔を覗き込んできた。
「蒼磨、顔色悪いけど大丈夫?」
「ああ、ちょっと疲れてる。先に部屋で休むよ」
夕食も断って自室に籠もった。パソコンを立ち上げ、撮影した写真をバックアップする。クラウドにも、外付けハードディスクにも。
そして、詩織のSNSアカウントを徹底的に調べ始めた。
彼女のフォロワーリストを辿る。見覚えのない男のアカウントがいくつかある。その中に、茶髪の男を見つけた。
鷹取玲恩。隣の学区の高校に通う三年生。投稿を見ると、派手な生活をしているのが分かる。高級車の写真、ブランド品、夜の繁華街。明らかに高校生の生活範囲を超えている。
詩織のストーリーを遡っていくと、一ヶ月前あたりから位置情報が微妙にズレている時がある。彼女が言っていた場所とは別の場所。そして、その位置情報と玲恩の投稿の位置情報が一致することがある。
証拠は揃い始めている。
でも、まだ足りない。
翌日、学校で幼馴染の神宮寺帆波に声をかけた。帆波は情報通で、学校内外の噂に詳しい。ショートカットの黒髪に、キリッとした目元が特徴的な女子だ。
「帆波、ちょっといいか」
「どうしたの蒼磨? 珍しいね、そっちから話しかけてくるなんて」
「鷹取玲恩って知ってるか? 隣の高校の三年生」
帆波の表情が一瞬曇った。
「ああ、知ってる。というか、有名だよ。悪い意味で」
「どういう意味だ?」
「女遊びが激しいって評判。あと、裏で色々やってるって噂もある」
「裏で?」
帆波は周囲を確認してから小声で続けた。
「パパ活の斡旋とか。あと、未成年なのに飲酒してるとか、カンニングペーパー売ってるとか。まあ、噂の域を出ないけどね。でも火のないところに煙は立たないって言うし」
パパ活の斡旋。それは犯罪だ。
「なんでそんなこと聞くの?」
「ちょっと気になることがあって」
帆波は俺の目を見つめた。
「もしかして、詩織さん関係?」
俺は何も答えなかった。でも、それが答えだった。
「蒼磨、あのね」
帆波は言葉を選ぶように、ゆっくりと話し始めた。
「詩織さんのこと、あんまり好きじゃないんだよね、私。だから偏見かもしれないけど。でも、最近の彼女、変だよ。SNSの投稿も、なんていうか、承認欲求の塊みたいになってる」
「そうか」
「蒼磨が傷つくの、見たくないんだ」
帆波の言葉に、胸が少しだけ温かくなった。でも、今はそれどころじゃない。
その日の放課後、俺は詩織を呼び出した。久しぶりのデートということで、彼女は喜んで応じた。
駅前のカフェで向かい合って座る。詩織はいつもの笑顔で、最近のドラマの話を楽しそうにしている。
「ねえ蒼磨、このドラマ知ってる? 超面白いの」
「ああ、知ってる」
「最新話でね、主人公がついに告白するんだけど...」
会話の合間に、詩織のスマホが何度も振動する。彼女は慌てて画面をチェックし、笑顔が少しだけ引きつる。
「誰から?」
「え? ああ、友達」
嘘だ。その表情で分かる。
「最近、忙しそうだな」
「うん、まあね。友達の相談に乗ったりとか」
「そっか」
俺は一口コーヒーを飲んだ。
「昨日、駅前で詩織を見かけたんだ」
詩織の手が一瞬止まった。
「え、昨日? 私、家にいたけど」
「そうか。じゃあ人違いだったかな。ビジネスホテルから出てきた女の子が、詩織にそっくりだったんだ」
詩織の顔が青ざめた。
「それ、多分違う人だよ。私、昨日本当に体調悪くて寝てたもん」
嘘を重ねる。その様子を、俺は冷静に観察した。
「そうだよな。詩織がそんなところにいるわけないよな」
「うん、そうだよ」
詩織はホッとした表情を浮かべた。でも、その安堵は長く続かない。
その日から、俺は本格的に証拠集めを開始した。
詩織と玲恩のSNSを徹底的に監視する。投稿時間、位置情報、写っている背景。全てをスクリーンショットで保存していく。
共通の知人にも、それとなく聞き込みをする。詩織の最近の様子、玲恩との関係。断片的な情報が集まってくる。
そして、決定的な証拠を掴んだのは一週間後だった。
詩織の裏アカウントを発見したのだ。
鍵付きのアカウントで、フォロワーは数十人。プロフィールには「本垢じゃ言えないこと吐き出す場所」と書かれている。
このアカウントの存在を知ったのは、クラスメイトの何気ない会話からだった。女子たちが昼休みに話しているのを偶然耳にした。
「瑠璃川さん、裏垢で色々呟いてるらしいよ」
「え、マジ? 何て呟いてるの?」
「彼氏の愚痴とか。あと、新しい彼氏の惚気とか」
その会話を聞いた瞬間、全身の血が凍りついた。
アカウント名は複雑な英数字の組み合わせだったが、プロフィール画像は詩織の後ろ姿だった。特徴的な髪型で、すぐに本人だと分かる。
問題は、どうやってそのアカウントの投稿を見るかだ。
俺は、詩織と共通の知人である女子に協力を頼んだ。彼女は詩織のことを良く思っていないらしく、快く引き受けてくれた。
「瑠璃川さん、最近調子乗ってるからね。ちょっとお灸を据えた方がいいかも」
その女子が詩織の裏アカをフォローし、承認された後、投稿のスクリーンショットを全て送ってくれた。
そこには、信じられない内容が並んでいた。
「彼氏マジで退屈。優しいだけで刺激ゼロ。玲恩くんといる時の方が何倍も楽しい」
「今日も彼氏とデートの予定だったけどドタキャンした。玲恩くんとホテル行く方が優先に決まってる」
「彼氏、全然気づいてなくて笑える。マジでちょろい。これだから真面目系男子は」
「玲恩くんから高いバッグ買ってもらった! 彼氏からは誕生日に本とかもらったけど、比較にならん」
投稿は何十件もあった。全て、俺を嘲笑する内容だった。
そして、最も許せなかったのは、これだ。
「彼氏のこと、玲恩くんにも話したら爆笑してた。『そんな地味な奴のどこがいいの?』って。ほんとそれな。でも安定してるし、いざとなったら結婚相手としてキープしとけばいいかなって」
キープ。
俺は彼女にとって、保険だったのか。
携帯を握る手が震えた。でも、不思議なことに怒りではなかった。これは、失望だ。
人間に対する、根本的な失望。
その夜、俺は全ての証拠を整理した。
写真、スクリーンショット、証言。全てをフォルダにまとめ、時系列順に並べる。
そして、玲恩についても調査を進めた。帆波から聞いた噂を裏付けるために。
SNSを深く掘ると、興味深いものが見つかった。玲恩と思われるアカウントが、匿名掲示板でパパ活女子の斡旋をしている形跡があった。報酬は一件につき一万円。完全に違法だ。
さらに、テスト前になると「解答付き問題集」を売っているという投稿も見つかった。これはカンニングの幇助にあたる。
未成年飲酒の証拠写真も複数見つかった。居酒屋での集合写真に、明らかに酒類が写っている。
証拠は十分だ。
でも、まだ動かない。
タイミングが重要だ。二人が最も痛手を受ける瞬間。それを待つ。
玲恩は三年生で、今月末に大学の推薦入試の面接がある。それがSNSに投稿されていた。
詩織は来月、学校の生徒会選挙に立候補する予定だ。副会長のポジションを狙っている。これも彼女のSNSに書かれていた。
つまり、二人とも今が一番大事な時期なのだ。
完璧だ。
俺は冷静に、計画を練り始めた。どの証拠を、誰に、どのタイミングで提出するか。
妹の梢が部屋に入ってきた。
「お兄ちゃん、最近様子変だよ。何かあった?」
「大丈夫だ」
「嘘。絶対何かある」
梢は俺の隣に座った。
「あの女のこと?」
俺は頷いた。
「やっぱり。で、どうするの?」
「証拠を集めてる」
「証拠?」
「浮気の証拠。そして、浮気相手の男の違法行為の証拠も」
梢の目が驚きで見開かれた。
「お兄ちゃん、本気なんだ」
「当たり前だ。俺を馬鹿にした代償は、きっちり払ってもらう」
梢は少し怖がったような表情をしたが、すぐに決意を固めたような顔になった。
「手伝えることがあったら言って。私も、あの女許せないから」
「ありがとう」
それから二週間、俺は完璧に普通を装った。
詩織とのデートにも応じたし、メッセージのやり取りも普段通り。彼女の浮気についても一切触れなかった。
詩織は俺が何も気づいていないと安心しているようだった。裏アカでの投稿も続いている。
「彼氏、マジで何も気づいてない。やっぱ男って単純」
「今日も彼氏の前では良い彼女演じた。演技力に自信ついてきた」
その投稿を見るたびに、胸の奥で何かが冷たく固まっていくのを感じた。
そして、運命の日がやってきた。
玲恩の推薦入試の三日前、詩織の生徒会選挙の一週間前。
俺は全ての証拠を、それぞれの場所に送付した。
玲恩の高校には、彼の不正行為の証拠一式を。カンニング、パパ活斡旋、未成年飲酒。全て証拠写真付きで。
警察には、パパ活斡旋の証拠を通報。児童福祉法違反の疑いとして。
詩織の両親には、彼女の裏アカウントのスクリーンショット全てを印刷して郵送。娘がどんな人間か、しっかりと知ってもらう。
そして俺たちの学校には、詩織の浮気の証拠と、彼女が裏アカで学校や友人たちを誹謗中傷していた投稿を提出。生徒会選挙への立候補資格を問う内容で。
全ての爆弾を、同時に投下した。
翌日の朝。
学校に着くと、すでに噂が広がっていた。詩織が職員室に呼ばれ、長時間説教を受けているらしい。
昼休みには、隣の学区の高校で玲恩が大問題になっているという情報が入ってきた。推薦入試は取り消され、停学処分が検討されているという。
そして放課後、詩織から電話がかかってきた。
泣き声だった。
「蒼磨、助けて。お願い、話を聞いて」
「何の話?」
「私、学校で大変なことになってるの。親にも怒られて。お願い、会って」
「悪いけど、今忙しいんだ」
「蒼磨!」
詩織の叫び声が聞こえたが、俺は通話を切った。
着信拒否に設定する。
これで第一段階は完了だ。
そして、本当の地獄はこれからだ。




