婚約破棄された人形姫が辺境の色情卿に恋をしたって? 本当に?
夏休みに投稿するはずが、だいぶ遅れました……。
「ビオフェルミーナ・フェカリイス、王族の婚約者の立場を笠に着た、宮廷での傍若無人な振る舞い、並びに婦女子を甚振り恐怖に陥れたその所業、誠に許しがたし。よって第一王子殿下は、貴様に王都から追放と辺境伯家の嫡子アシッド・フィールズへ嫁し悔い改めるように命じられた。以上」
巷で流行りの恋愛小説の中では、夜会や卒業パーティなどで婚約破棄を迫る場面が話題となっているようですね。一方的な要求を通すために、力押しで冤罪を押し付け公衆の面前で晒し者にされるのは、さぞ屈辱的なことでしょう。時と場所を弁えない非道な行いですが、人目の多い場所というのは、ある意味では守られているとも言えるのですね。
わたくしの場合は人目のない通路での通告での、婚約破棄をされました。
帰省前の文官たちが投げ込んできた仕事から急ぎのものを処理して、一人食堂に向かっていた所で。夏休みが始まったばかりの王城内の人気もまばらでした。時間に追われていたわたくしは、今思えば警戒心を疎かにしていたのでしょう。侍女たちには荷造りを任せ、文官だけでなく従者にまで仕事を割り振っては区切りの良い所で交代で食事に向かうよう指示していたのです。
公爵家内では問題がない判断でも、ここは王城。
付き添うものがいなかったことに気が付いた時には遅すぎたのです。
中庭に差し掛かる直前で遭遇した殿下の側近の方々彼らを取り巻く兵の数がやけに多いことに、何やら穏やかでないものを感じましたが、どうせいつものように仕事を押し付けられるか、嫌味を言われるだけと。
あぁ、せめてあの時、声をあげていれば……。
黙して会釈しすれ違おうとした所で取り囲まれ、決定事項だと文書を読み上げられたのです。
第一王子殿下との婚約破棄と王都からの追放、並びに辺境伯子息との婚姻を。
そうはいっても殿下ご本人は不在、影も形も無いのです。
いくら何でもあんまりではありませんか。
いい加減になさい。
この忙しい時にお遊戯会になど付き合っていられません。
そう反論する間もなく、捕らえられてしまったのです。
本当に意味が分かりません。
立ち会わなかったことで俺は知らないだとか、冗談のつもりだったなんて言い訳をするつもりなのでしょうか。悪ふざけで済むわけがないのに。
例え心は通い合わなくとも、ずっとそばでお支えしてきたのです。……これからもそうするつもりでしたのに。
どうしてわたくしは、今拘束され目隠しをされたまま、幌馬車に揺られているのでしょう。
我がことながら、意味が分かりません。
音や匂いから現在地を把握すべしという緊急時の手順は頭にあっても、御車席の者たちの態度が鼻につき過ぎて気が回りません。
こうも身体が強張るのは、彼らの卑猥な揶揄いのせいか、難儀な悪路のせいか、粗悪な馬車のせいなのか、理由は一つではないと分かっていても、激しい振動の中では思考も乱れるというもの。
人形姫とは殿下周辺でつけられた蔑称でしたが、人並みの扱いさえ受けられないのならば、いっそ本物のお人形だったら良かったのに。
わたくしを苛む五感の全て、音や匂い打ち付けるような痛み、この先への恐怖、全てを感じないでいられたらいいのになんて。ついつい益体も無いことばかり考えてしまいます。
空腹感のせいか頭がくらくら致しますが、馬車内で昼食だったものと相席するよりはマシでしょう。
◇◇
これまでわたくしが受けてきた教育の中では、心情を露わにすることを控えるのは基本的な作法とされていました。所作や衣装のように、場に合わせた表情と感情を纏うのです。
公の場で冷静で理知的な高潔さを纏うからこそ、わたくしたちは高貴と尊ばれるのです。
このような考え方は、婚約者であった第一王子殿下にはむしろご不興を買いました。
生まれながらにして超越した尊さを持たない卑しい者の浅知恵だと。
未来の王妃として尊ばれ、淑女の中の淑女と親しまれたわたくしは、所詮貴族社会の『お人形』なんですって。己の考えを持たぬ公爵家の操り人形で空っぽの。
豪然たる王族らしい発想と言えなくもないでしょうが、殿下はそのような貴族らしい理から外れた、男爵家の庶子、フローラ嬢にこそ得難い価値を見出されたのです。えぇ、花のように愛らしい彼女の在り方は、社交界を彩る花々とは全く異なりますものね。
出会えた喜びに思わず身体に触れてしまったのと恥じらい、あなたのお話は面白くって前のめりになってしまうわと肘で寄せた胸を揺らしては、瞳を潤ませて殿方の胸元に飛び込むように縋りつき嘆いてみせるのですから。
随分と生臭い造花だこと。
あざといというよりも、躾のなっていない愛玩犬みたい。
真っ昼間から婚約者持ちの殿方にまでマーキングして回るなんて。
かわいいと思うのならば、きちんとした躾をして欲しい。
じゃれつかれて嬉しいから愛らしいからと、何でも見過ごしていては困るでしょうに。
その様に感じたわたくしとは違い、殿下とその側近の方々にとっては、抑制されていない彼女こそが真に尊い無垢なるものと感じられたそうで。
無垢って……、明らかに理解した上で、身体を使っているでしょうに!
いくら何でも無理のある解釈でも、彼らにとってはそれこそが真実。
どんなに理解不能で一方的な主張であろうとも、彼女の訴えは何であれ正であるとされるようになったのです。
・上下関係や基本的なルールを躾けること。
・周囲の迷惑にならない場所で遊んであげること。
・(身分と容姿の良い殿方ならば)誰にでも餌を強請ってしっぽを振らせるのではなく、きちんと飼い主が責任を持ち面倒を見ること。
婚約者へ季節事の贈り物に『犬の飼い方』に関する本と共にそんなメッセージを同封しようか、なんて考えていた所。
『ビオフェルミーナさんったら、さっきあたしのこと馬鹿にして笑ってたんですよぅ。酷くないですかぁ?』
そう彼女が告げたので、殿下は人をあざ笑うような醜い笑顔を浮かべるなとわたくしに命じました。ぺらっぺらの笑顔の仮面すら被らなくなりました。
『いゃああぁん、やだぁ。殿下ぁ。まぁた、こっち見て睨んでるんですよぅ。怖いぃっ!』
そう彼女が告げたので、殿下は嫉妬の籠った嫌らしい視線を向けるなとわたくしに命じました。視界には入れてますよという程度の目線すら送らなくなりました。
第一王子殿下は耳に痛い忠言はお好みではないのです。
真っ当な側近候補の方々も、既にお傍を離れてしまいました。
真に次代の王国を担う彼らと共に研鑽を積んできたわたくしに出来ることは、お心を煩わせることが無いよう裏で立ち回り執務を代行するなど、寄り添ってきたつもりでした。
彼女に関してもただ見守ろうと……、その判断は大間違いだった様で。
『そうやってあたしのこと無視するなんてあんまりですぅ。なんて冷たいのぉ。殿下ぁ寂しいから慰めて下さぁい』
もはや一体どうしろと言うのか。
困惑しているうちに、決定打を打たれてしまったのです。
『いやぁぁん。ビオフェルミーナさんが近くにいるなんて、もう無理ぃ。耐えきれないっ! 絶対になんかされそうだもん。怖くて震えちゃう。殿下ぁ、もうあたしのこと離さないで、ずっとそばにいてっ。ねぇ、お願い!』
抱きつかれた殿下は宮廷でフローラ嬢を保護した上で、公爵家の息女ビオフェルミーナ・フェカリイスとの婚約を破棄し王都からの追放を決断したそうで。
『いくら意地悪な人だからって、このままじゃビオフェルミーナさんが可哀想そう。あたしたちだけ幸せになるなんて出来ませんっ……。すっごく情熱的だって有名なフィールズ辺境伯の御子息を紹介してあげましょうよ。きっとお似合いだわ。うふふっ。これでもう寂しい思いしないし、お人形でも壊れちゃうぐらいに愛してもらえますよぅ』
御車席の者たちの発言を纏めるとそんな彼女の思い付きから、わたくしはフィールズ辺境伯家に嫁がされることとなったそうです。
わたくし、彼らに何もしていませんのに。
嫌がらせどころか、警告一つ送っていないという怠慢っぷりなのに。
ただ存在が不快だという一点での追放。ここまで僅か3か月。迅速過ぎる対応です。
ここまでの絵図は一体どなたが描いたものだったのでしょうか。
愛玩物、珍獣と侮っていた彼女は……、バケモノでした。
思えば最初から立ち位置が違ったのでしょう。
政治ごっこをしていたわたくしと、恋愛遊戯をしていた彼女では。
同じ盤上には無いと背後を探ることにばかり重点を置いて、殿下とフローラ嬢の関係を見過ごしているうちに、敗れたのはわたくしの方で。
急激な天候の変化で暴風雨に遭遇したような。何の準備もなくずぶ濡れになった時に似たものを感じます。
絶対的な正義の顔をする愛というお題目は、まさに無敵。
真実の愛を貫くという名目でこんな理不尽がまかり通ったのは、隙をつかれたという点も大きいのでしょう。
年中華を愛でるのに忙しく飛び回る陛下はさておき、父を中心とした宮廷中枢と議会も休暇中。
皆様領地への帰還の途上や視察に飛び回っておられるので、連絡がつき難い状況で。
もうどうしたら良いのかしら……。
ここまでされては宮廷内の醜聞では収まりそうもありません。
わたくしの裁量を越えてしまいました。
完全に出し抜かれたまま、今はただ馬車の行き先に身を任せるしかないのです。
◇◇
何の対応できぬまま、今度は見知らぬ港で護送船へ乗せられました。
用足し以外目張りのされた馬車内に拘束されたまま、一日でたどり着ける距離、景色は見慣れませんが有力候補としては、フローラ嬢の寄り親の伯爵家の港でしょうか……。
脱走は無理でもせめて領地に一報をという考えは見透かされていた様。
事態を把握した王城内の者が対応しようにも、既にわたくしの身柄は不明。
公爵家が辺境とどうにか渡りをつけた頃には既に……という策でしょう。
人形姫と侮られていたわたくしが言えたことではありませんが、フィールズ辺境伯家の子息に関しても、あまり良い噂を聞きません。
直接面識もない方に無責任なことは言いたくありませんが、色情狂(色情卿)だの変態辺境子息というような揶揄するような悪名ばかりなのです。陰口の語感の良さと、辺境への偏見という面もあるのでしょうが……。
家に仕える女性使用人は皆味見がてら手籠めにし、領内の娘たちにも日替わりで襲い掛かかる、そんな乱れきった日々を武勇伝のように綴った猥雑本まであるそうなのです。
船内の者の多少の誇張はあるにしろ、さすがにここまでの悍ましい話を事実無根と受け流せません。
関係の無い所での無責任な噂は聞き流せても、我が身に関わることとなればそうはいかないもの。
惑わされず本人を見極めるべきという建前に縋って、移動の間ぐらいは前向きになりたいものですが……、もはやわたくしの貞操は風前の灯火としか思えません。
恋の駆け引きや房中術だのフローラ嬢のお得意の手管には疎く……、人の理や貴族の常識が通用しなそうな方と通じ合える自信なんて全くありません。
まったく殿下の御慧眼には恐れ入りますわ……。
フローラ嬢という逸材は、確かにその辺の貴族令嬢とは違いますわね。
殿方を篭絡する手管だけでなく、敵対者にいかに屈辱を与えるかもよくご存知なのですね。
運命の相手という場合、運命的に思えるような一目惚れをした相手や、あり得ないほど相性の良い相手という意味合いでも使いますけれど、栄光への道であれ破滅への道であれ運命的な分岐となる出会いをもたらす相手を指すこともあるのです。
どの意味でも、殿下にとっては掛け替えのない特別な相手としか言いようがありませんわ。
婚約を見直すのでも、後ろ盾の公爵家を引き剝がすのでも、もっと穏便な方法がいくらでもあったでしょうに……。返り咲く余地が無いよう徹底的にわたくしを貶める手際のあざやかなこと。
見事としか言いようがありません。
わたくしの地位を奪ったとしても、名目を付けて働かせるために貴族牢にでも置いてくれていれば。あるいは王城内で急病といったありがちな手口であれば、もっと簡単でしたのに。
少ない力でいかに国を荒らすかという意味では、本当に最善を尽くされています。
まさに恋は命がけね。脱帽するしかないわ。
護送用馬車よりは船上はいくぶんか快適ですが、波間に余計な事ばかり考えてしまいますね。
船室に押し込められず外気に触れることもできるようになったので開放的ではありますが、逃げ場も無い海上はさながら明るい牢獄。牢番ならぬ船員に時折からかわれますが、逃げ場だってありますもの。
眩しい日差しや塩辛い海風、繰り返される波音。
馴染みのない大自然とつかの間の自由に、心慰められようともバカンス気分とは参りませんわ。
雄大な大海原を前にしては己が身の小ささを弁えざるを得ません。
混乱が洗い流され、冷静な心境になるにつれ、ようやく怒りも湧いてきました。
辺境伯家の子息が例えケダモノのような方だとしても、貴族の端くれ。
常ならば、ビオフェルミーナという手札の価値を、理解されていることでしょう。
使用人や領民の娘のように、ただ手籠めにするには惜しい程度には。
けれど下げ渡すように『訳あり』を押し付けられるという侮蔑を受けては。
流刑地のような扱いをされたことで王家に抱くはずの怒りの矛先がわたくしへと向けられて、激情の赴くまま獣のように激しく貪られ苛まれることとなるやもしれません……。
……そうはならぬことを願いたくも、矜持を傷つけられたならば、然るべく対応するのもまた貴族というもの。
特に辺境は名高い武門の家ですし、現辺境伯夫人は王姉、元王女殿下であらせられるのです。
無礼を働いたのはご実家の王家の方で、ビオフェルミーナなぞただの毒饅頭と分かっていても、果たして食いつかずにいられるものでしょうか。
そしてその結果が公爵家に伝われば?
温厚な我が一族とて本家の娘を傷つけられたとあらば、やはり然るべく対応するでしょう。
それこそ家名にかけて。
貴族家にとって娘とは、いわば資産です。お家の威信をかけた大事な資産。
政略結婚の駒? 上等よ。女性の地位下げる古臭い考えとする向きもあれど、わたくしは駒の中でも別格。我が公爵家が総力をあげ育て上げた特級品。
家によって駒によってその価値は違いますが、御家のため使い捨てにされるような駒ならまだしも、女王の駒が己の身の儚さを嘆いてみせても、嫌味にしかならないでしょう。
一族の血統を継ぐ娘自体数に限りがあれど、当主一族の直系の娘という手札は、ここぞという時にのみ用いる希少品。中でもわたくしは次代の王妃に相応しい存在として育まれ、その価値をより高めるよう自らずっと努めてきたのよ。
だというのに、投げ売りどころか、使い捨てにされるなんて……、認められる理由が無いわっ!
あら。もしかしてそれこそが狙い?
「もしかしてわたくし、このままでは王家と公爵家と辺境伯家との三つ巴の泥沼の争いの火種になってしまうのではなくって?」
あらまぁ、思わず甲板に座り込んでしまいました。
継承権を掛けた王族間の争いを招くのに、なんて打ってつけの餌なのかしら。
辺境伯家の方々を全力で説得して実家の助力を得て共に王家に思い知らせるのが理想的ではあるのですが、上手くいく気が欠片もいたしません。
船員たち無責任な噂によれば、令息の著作では、毒牙に掛かった娘たちは快楽あまりに、それまでの在り方や己の勤めも皆投げ出し、欲望の奴隷の様になってしまうのだそうです。性依存というのでしょうか
……、品格や貴族としての務めを投げ出して色欲に溺れるなんて絶対に受け入れられません。あげく飽きられたら、辺境の騎士団に下げ渡されるか、娼館に売られるかもしれないだなんて揶揄ってくるのです……。
わたくし、どうなってしまうのでしょう……。
きっとボロ雑巾のように扱われて、ゴミのように捨てられるんだわ。そうに決まってる……。
こんな境遇に追いやられては、今後の政局を心配する余裕なんて無いわ。
そんなことを考えても仕方がないのです。
どうとでもなれば良いのです。
……あぁ、お先真っ暗だわ。
手荒い洗礼を受ける前にいっそこのまま海に身を投げてしまおうか……、なんてことも考えましたが、それもまた彼らの思うつぼでしょう。
悔しい。悔しくて仕方がありません。
このままでは終われません。
なんとか一矢報いてやらねば。
思い知らせてやらなくては。
国のために身を粉にして働いて来た結果がこれとは。
これまでの努力の成果が実を結ぶ日を夢見て励んできたというのに。
裏切られ貶められ地獄への流れに身を任せるしかないなんて、屈辱だわ。
「殿下と男爵令嬢に呪いあれ。王家滅びろ!」
降りしきる雨に身を濡らし、船酔いで込みあがって来た汚物をまき散らしながら、覚悟を決めました。
こうなれば特攻です。
わたくしに出来るのは八つ当たりぐらいですが。せめてもの抵抗を。
紙屑のように捨てられて終わるものですか。
内乱への火種で終われるものですか。
少しでも国が燃えるように、荒れるように、油となって見せましょう。
辺境伯家の嫡男を、ヤラれる前に殺ってやるのです。
所詮女の細腕、力づくで迫られたら敵わないでしょうが、わたくしとて公爵家の娘。
淑女の嗜みぐらい、所持しております。
困った時のソーイングセット、指輪と髪飾りのお薬に、ヒールの踵の仕込み、腰ひものリボンと胸当てには特別な鋼入りです。
隙を見て刺すか盛る程度の細やかな矜持は示さなくてはなりません。
王家から下賜されたビオフェルミーナは訳あり婚約者ではなく、送り込まれた暗殺者となるのです。成功しないことは確定的でも、小さな爪痕だけでも遺せれば、満足して逝けるでしょう。
◇◇
そう固く決意したものの、波間を超えて辿りついた先の港では、粗雑な麻布のワンピースに着替えさせられ、身包みをはがされてしまいました。裕福でない町娘が着るようなものですらない、囚人用のものに。王家の使者ではなく盗人の所業ね。なんて陰湿なの。
こんなにも薄汚れた者を次代の貴家の嫁だと押し付けられては、令息の肉人形にされる以前に、切り捨てられてしまうことでしょう。
再び乗せられた強固な護送用馬車は、狭苦しくただ鬱々とします。
馬車の木目を数えるだけの無為な時を過ごすしかありません。
3週間かけて護送されてきた間、実家への連絡は結局出来ませんでした。
お父様、お母様、ごめんなさい。
何もできずただ振り回され続けて、なんだかもう、疲れてしまいました。
潮風に焼かれた髪も肌も薄汚れ、汗ばみ垢塗れ。
最期に身を清めたいという欲はありますが、辱めを受けることなく逝けるのですから、これ以上の望みは持つだけ無駄というものかしら。
思えば宮廷で彼女の暗躍が始まってから、目を伏せ俯き周囲の顔色を窺ってばかりいたせいか、嘘くさい表情が固く張り付いた人形のようだと罵られるようになりました。
古い考えに凝り固まった、血の通っていない女。
冷静に感情を統制しているのではなく、無感動な冷血漢で心が無いのだと。
あはは、全くもってその通りですね。もはやこれ以上、抗う気力が無いのですから。
何もできず自分で動くこともできないわたくしは哀れなお人形。
舌を噛み切る気概もなくしたまま、終わらせて貰うために黙って運ばれることしか出来ないのですから。
長期間ずっと同じ姿勢でいたせいか、身も心も重く固まってきたかのようで。
これからお会いする辺境伯家の方々に、這いつくばってでも慈悲を請い協力を取り付けねばならないというのに。少しでも足掻こうと思っていたのに。
もう目の前が真っ暗で、まるで力が湧いてこないのです。
◇◇
「マージで⁉ ビオフェルミーナ嬢が、話題沸騰中の公爵家の美少女が、俺の嫁になりたくて押しかけて来ちゃったの? これから一つ屋根の下で暮らしちゃうの!? それなんてエ……じゃなくて、なるほどね。これがいわゆるラブコメの波動ってやつか」
「若様。話聞いていました?いろいろと勘違いしています。あとキモいです。コレただの厄介案件ですからね。王都の政治闘争絡みのなんやかんやの。ああ、まったく当主様と奥方様が留守だって言うのになんてこった。とりあえず今はまだ判断できる状況じゃないので、姫君に変なこと言わないでくださいね」
「待って、親がいない間に女の子がうちに泊まりに来るとかヤバくない? どうしよ、うち今ケーキとかあったかな。とりあえず俺ちょっと風呂入ってくる。さっき訓練で汗かいたから」
「お・し・ず・か・に! あなたたち、廊下で騒ぐのではありません! 若様入浴は後で!まずは王家の使者との面会を!」
「ばあやが一番喧しいっての」
「なぁなぁ鏡持ってない? 汗で湿っぽいし髪に変な癖とか……」
「とっとと公爵家の姫君と書状を受け取って、印を押してきて下さいっ!」
……応接室の前の廊下が、何やら騒がしいこと。
女が来たと大喜びされたのが、御子息のアシッド様でしょうか。
女性使用人に手を出してまわるような方に、家人があのような砕けた対応はあり得ないでしょう……。
フィールズ辺境伯邸は、真っ当な環境のようです。
……もしかしたら、想像していたのと違うのでは。
「やぁいらっしゃい、公爵家の姫君。辺境へようこそ。はるばる良く来てくれたね。楽にしてくれ。」
前髪をかき上げながら応接室に参られたのは、先ほどの声の主でした。
御年齢は二十歳前後ぐらいでしょうか。小麦色の肌に金色の髪、やや下がりめの目尻、全体的に朗らかで柔らかい印象です。鍛え抜かれた身体を見れば、放蕩三昧で怠惰に過ごしているだけの方でもなさそうです。
王家の使者に対してはやや慇懃無礼に、女性であるわたくしには優し気な声色でと使い分ける彼の対応は、良い意味で想像通りではありますが。
使者はわたくしに「よかったですね。せいぜい飽きられないように色情卿に媚びるといい」と言い残し去っていきました。ようやく解放されました。
「はぁ……」
「……ごめん、今の聞こえちゃった。何アレ? なんかむちゃくちゃ感じ悪いな、あのおっさん。ビオフェルミーナ様ごめん、俺勘違いしてた。押しかけ我儘お嬢様系じゃなくて、冤罪追放悪役令嬢系だったんだね。涼し気なクーデレっていうよりレイ……目のハイライト消えてるし、えっ? ちょっとそれ奴隷の服? ノーブ……でっ……」
いろいろごめん。本当にごめん。これさっき廊下で羽織ったばかりで臭わないからとアシッド様は上着をかけて下さいました。
こちらこそ、薄汚れていて申し訳ありませんと謝罪すると、あなたは被害者で何も悪くないから謝らないで、気になるならすぐにお湯を用意するから気にしないで大丈夫だから泣かないでいやむしろ好きなだけ泣いてくれと背中を擦っても下さいました。
まくし立てるようなお言葉には理解できない所もありましたが、言葉も通じないケダモノで無く、冤罪だと労わられ力が抜けてしまったのです。
当主夫妻が不在のためこの場では名代を務めたものの、成人に達していないアシッド様には裁量権がないので勝手に婚姻を結ぶことは出来ないが、絶対に悪いようにしないとおっしゃいました。
「えっ、未成年? あのような……噂があるのに!?」
「でたよー。逆年齢詐欺と外見詐欺。こう見えて俺15ですから!薄い本のヤリサー系チャラ男みたいに思われ勝ちだけど、まだ15歳。清らかな青少年だから。懇切丁寧に身の潔白を証したいから王都の噂とやらを後で詳しく教えて! とりあえず俺はヤ……性犯罪者ではないって点だけは、強く明確に主張しておく。領地の公衆衛生のためにいろいろやってみた結果、喜んでくれた領民の方々が俺をモデルにした創作物を多数書かれましてね……。お陰様で大好評いただいておりますが、実際の人物とは大いに異なりますから!!」
いわゆる年頃の男子らしい話で、下町の友人と盛り上がっていた所、架空のスキルの話や異国のダンジョンの罠などに関するいわゆる猥雑な内容だったそうですが……、それがいつのまにやらご自身の体験談として纏められていたそうです。
後は歌姫や飲食店の看板娘や領館のメイドなど、領地の平民の方にとっては憧れの君や花形の職業の方々を虜にするような話なども数多綴られて、そちらも大人気らしいのです。
魅力的な女性陣や特殊な状況にこそニーズがあり、相手役が領主の子息ならば嫉妬の対象になり難いから便利に使われているだけとのこと。切っ掛けは公衆衛生の知識の普及が目的だったようですが、その関連で認可した猥雑本が話題となり、その過熱っぷりに止められないのだと、困ったように頭を掻く姿は年相応の少年らしいもので。
「そうだったのですね……。申し訳ありません。わたくし自身、口さがない噂に振り回されてきたというのに、大変失礼なことを」
「いいって、とにかく親御さんと連絡つくまでうちに滞在しても大丈夫だから。……その、いわゆる身の危険的なことは絶対にないから安心して」
「ありがとうございます。王都を追い出されてからずっと厳しい道程で辛いことも多かったのですが……、ここにこられて本当によかったです。あなたに会えて、本当に嬉しく思います」
押しかけて申し訳ない、公爵家と連絡がつくまでお世話になりますと頭を下げると、疲労が溜まっているだろうからゆっくりと休むよう言われ、年配の侍女に客室に案内されたわたくしは身を清めると泥のように眠りについてしまいました。
◇◇◇◇
騎士団の若手と一緒に訓練をしていたアシッドは、急に母屋に呼び戻された。
世間様ではいわゆる夏休み期間に入った所だが、いつも通りに過ごしているため実感は薄い。
反抗期の領主の息子が家族旅行に断る言い訳とはいえ、名代として領地を守るなんて口にした以上遊んでばかりいられない。夏休みらしいイベントが湧いてきたらいいのに、なんて考えるぐらいの浮ついた気分はあってもやることは多いのだ。
そんな折に飛び込んできた急報。
同い年の公爵家の姫君がうちにくることになったらしい。というか今来ている。
国内で名高い美姫が? ちょっと待って、意味が分からない。
意味は分からないが、美少女が空から降ってきたり押しかけて来たりする状況なんて最高でしかない。
アシッドは歓喜した。
これぞ、ロマンだ。ラブコメだ。転生チートなしの俺にも、ついに春が来たのか?と。
ウッキウキで応接室に行ったら、追放された悪役令嬢がいた。
光の無いレイプ目で真っ白な顔色で奴隷みたいな服を着せられ震えていた。
どういう状況か分からないけれど、はしゃいでいる場合ではない……。
付き添いのおっさんがニタニタと笑って、王子のお古でも初物ですからご安心をなんてクソみたいなこと抜かす。殴りたいと思ったけど、ばあやの目が待機と語るので耐えた。
事情も分からないうちに、一面だけを見た中途半端な介入は良くないと分かってはいる。
権力争い絡みで公爵家側が何らかの落ち度あったにしても、この扱いは充分にギルティだろう。
それでも憂さ晴らしの様に彼女の目の前で暴力を振るっても怯えさせるだけだろうし、アシッドに手を出させることこそが、この使者の狙いかもしれないのだ。本当に胸糞が悪い。
実家嫌いの母の零した愚痴に、今更ながら共感してしまう。
辺境を野蛮だの気品ないだのと抜かして置いて、本当に品性が欠けているのはどっちだ。下種野郎。
おっさんが帰ったら限界突破したのか、令嬢は泣き出してしまった。
うちで凌辱系エロ同人みたいな酷い目に遭うと思っていたけれど、真っ当そうで安心したと。
酷い風評被害だが、誘拐からの強制連行の間に散々脅されてきたようだ。
ボロボロの彼女がひとまず身の危険はなさそうな場所に辿り着き、緊張の糸が切れて笑っただけなのに、完全に見惚れてしまった。
泣いていた女の子が顔をクシャクシャにして、自分に微笑みかけてきたのだ。
あなただけが頼りなのと(言ってない)助けを求めて。
いやいや違う、そうじゃない。
今の自分はすっかりこの状況に酔っている。勘違いするなと思いつつも、完全にヤバイ。
脳内麻薬がドバドバだ。
銀灰色の髪に緑色の瞳の彼女は人形姫とも呼ばれているらしい。
精巧なビスクドールのように整った顔立ちは、クーデレ系が大好きなアシッドとしてはドチャクソ好みだ。
クール系は二次元なら成立しても三次元では分かりにくい。
リアクションが薄い系なのか、距離感大事にというNGサインなのか。
だが今日の彼女の場合は明白で、いわゆる『普段表情が控えめな子が自分だけに見せた最高の笑顔』という最高のシチュエーションだった。あざっす。ごちそうさまです。
あんな笑顔向けられたら、惚れるしかない。というかどう考えても惚れてしまう。
いかん、いかん、これから始まっちゃいそうな大冒険は、ワクワクなダンジョン攻略ではなくハラハラな王宮伏魔殿系なのに。盗賊狩は経験済でも、国賊狩りか狩られる方に回るかも、分からないのに。
普段なら、全力で関わりたくない分野なのに。
あぁ、完全にもってかれてしまった。
どうしよう……。どうにかしてあげたい。
いやいや。相手はこれ以上酷い目に遭いたくないから、友好的に振る舞おうとしただけだ。
溺れる者は藁をもつかむじゃないが支えになってあげたくとも、彼女を救い上げる力なぞ無いのに。
このタイミングで迫っても、弱みに付け込むようで、なんというか非常にけしからん。
全力でお断りしたいのに状況的にハッキリと断れないだけで、内心では蛇蝎の如く嫌われるだろう。
彼女にとって、ここはまだ『敵地ではない』と自称しているだけの土地だ。
領主が戻り方針を示すまで、明確に旗色を示すことも出来ない。婚姻も本人や家の意図したものではなく、政敵に強制的に押し付けられた、むしろ意に反するものだろう。
非モテのわりに肖像権フリーの竿役みたいな扱いを受ける自分が、このタイミングで女の子に声をかけては、警戒心を強めるだけだ。
識字率の低いこの国で平民たちが文字を覚えるのに、件の書が大いに役立ったのは分かっているが、知名度の向上はアシッドの益には全く繋がらなかった。年の近い娘たちからは逃げられるし、好奇心の強そうなお姉さんからの熱い期待の籠った視線には応えられる筈が無く……。
直接的で速球性のある作品が気軽に入手出来た時代を知っているアシッドとしては、実用性を欠片も見出せない作品の影響で、不名誉な扱いを受けることは納得がいかない。割に合わな過ぎる。
あぁ。王都では一体どんな悪名がどこまで広がっているのだろう、本当に恐ろしい。
王家側も何か取り返しがつかない感じのことをやらかしてくれるに違いないと期待し、ビオフェルミーナの身柄を送りつけてきたのだろう。こんな所でハッキリと分かる。自分の風評の酷さ。あんまりではないか。
応える気のない野暮な期待を寄せられている件はさておき、父方の伯母の出産を祝いに自分以外の辺境伯家一同が留守にしていることすら把握した上での策と思えば、相手側の情報収集能力もなかなかのものだ。公爵家には既に連絡を入れるべく手配済だが、両親の滞在先の侯爵家からの返信は早くても明日となる。戻りは早くても更に一週間はかかるだろう。せめてその間これ以上状況を悪化させない様、家の者たちと協力して持ちこたえねばと思っていたのが……。
王都でのアシッドの悪名を考えれば、一週間も保護者の目が無い屋敷に滞在していたという事実だけで、姫君の名誉を損なうには充分過ぎる期間となってしまうのではないか。
年頃の男女が二人っきりで同じ部屋にいたというだけで、その時実際には何もなかったとしても、関係があったとも見なされるなんて話はよく聞くものだ。事実の有無に関わらず、名誉を疑われる行いをしたと言うだけで軽率だと咎められるのが貴族社会だ。
彼女との面会の際も、当然使用人は同席していた。通常ならばそれで十分な潔白の証人となりうるがうちの場合は従犯(幇助犯)と見なされ、すでに既成事実化しているに違いない。王都に帰還した使者が素晴らしい物語を語ってくれることだろうし。事実の有無に関わらずとなれば、結局のところ周囲の印象次第なのだから。
彼女の滞在を疎ましく思う気持ちは一切ないが、安易に留守番を受けてしまったばっかりに、厄介なことになってしまった。これからのでの動きは今後の家門、並びに領地へ大きく影響するだろう。家令とも相談して方針が決まったら、他の使用人たちともある程度共有しておこう。こういう時に悪意ある暴走する馬鹿が湧いてくると大惨事を招くのだから。
安易に『領主夫妻が戻るまでは手出し無用だ』なんて通達をだしたばっかりに、更なる令嬢冷遇の二次被害なんて招いては恐ろしい。手出し無用=飲食も着替えも風呂も無しで物置部屋に監禁的な、丁重な持て成しの意味が、苛めや虐待に歪められちゃうみたいな。
我が家の使用人のことは信用しているが、うちなら大丈夫みたいな過信は止めておこう。
不幸なすれ違いは追放系悪役令嬢モノでは有りがちなのだ。
とはいえ風評被害と安易な決めつけの恐ろしさは、アシッドも身をもって知っている。
というか今まさに深く実感している。
ビオフェルミーナ嬢側からもきちんと事情を伺っておかねば。
傷ついた彼女をそっとしておこうとしたばっかりに、これ以上の不幸を招いてはならない。これ以上煩わせるのは忍びないし……、家と連絡が取れるまでの間ぐらい何も考えず身も心も休めて欲しいものなのだが、そういうわけにもいかない。
ばあやを中心に同性を窓口にしてもらいたいが、この場で一番権限を持つ人間としてアシッドも対応をしなくてはならない。
……ならないのだが、アシッドには正直もって自信が無かった。
『どしたん?話聞くよ』的な、乙女がついついすべてをさらけ出してしまいたくなる会話術なぞ持ち合わせていないのに、これから非常にデリケートな会話をしなければならないのだ。
そう、出会ったばかりの二人の関係が、既に既成事実化されていそうだという残酷な事実について。
己の悪名に関しては軽く否定したが、信用して貰えるほどの関係なんてまだ築けていない。
敵の敵でも味方ではない。むしろお前が一番信用できないと警戒心が募るかもしれない。
つい先ほど『未成年だし結婚とかマジ無理』と言い放った輩が、舌の根も乾かないうちに『(既成事実が)デキちゃったとかマジだるいんですけど?』なんて抜かしよる。
未成年同士の繊細な事象に似ていて、なんだか非常に人聞き悪い。
殺意こそ増せ、信頼が増す要素なんて万に一つもないだろう。
まぁさすがにそこまでの露悪的な物言いをするつもりはないし、向こうだって理解はしているだろうが、どんなふうに話を持っていけば良いものやら。
お互いに巻き込まれただけだとしても、こんな内容で好印象を持ってもらうのは、今の自分には難易度が高すぎる。
そもそもアシッドは何の下心もなく、善意だけで人を救える好青年でもない。
あんな美少女と婚約できるかもという状況には(罠と分かっていても)喜びを抑えきれないし、二人手を取り合って悪を打つ的な状況にもめっぽう弱いという、非常に十五歳らしい精神構造をしているのだ。
不謹慎だから表面には出さないようにしたいと願いつつも、内心ではもう最高では、なんて思っている。
少しばかり前世の知識があるからって、彼の場合は読書好きなその辺の十五歳とあまり変わらないのだ。身についた経験・知識と精神力の高さなどは全く備わっていないにも関わらず、益体もない雑学知識をひけらかしては、独りよがりなスラングを多用してしまうような悪癖だけは、しっかりと開花してしまった。
前提として彼女への好印象は伝えた方が良いだろう。王家も分断を目的としている上、友好的な思いは明確にしつつ伝え方には気を付けないと。
『愛している=やらせろ』的なぺっらぺっらの身体目的か、口先だけで令嬢を騙しては何らかの利益を目的としている不埒な輩とは思われてはならない。
かといって正しい距離感と節度を守ったつもりが仮面婚約者宣言と思われるのも最悪で。
全力で拗らせている割に、外見のチャラさと悪名の放つ印象だけは雄弁ゆえ、ヘタレな彼はますます頭を抱えてしまうのだ。
先ほども、なるほどハンカチを差し出せばよかったのかなんて、ばあやが出してから気づいたぐらいで。思わずやってしまったことだが、背に触れるのもばあやにお任せした方が良かったかも知れない。単にお前がお触りしたかっただけだろ?ってキモがられてたらどうしよう。
ナデポとか幻想で髪型崩れるからむしろ止めてそもそも勝手に触るなとかよく聞くし。
あぁ紳士っぽいエスコートは習ったが、実践能力が欲しい。OKのTPOが知りたい。喉から手が出るほどに。モテたい。いや彼女に好かれたい。切実に。
煩悩で頭をいっぱいにしている場合ではないのに、意識してしまう。
何か見落としが無いか、整理するためにも頭を冷やさなくては。
ばあやが薄荷油をぶち込んでくれた水風呂に入るよう、従僕が急かしてきたのでちょうど良い。
一度身も心もリセットしよう。
◇◇
晩餐の前に身なりを整えることも考えて、夕方には起きるつもりが、目が覚めたのは夕食をだいぶ過ぎた時間で。しばらくの間きちんとした食事を取れていなかったせいか、スープもまともに入りませんでした。暖かいちゃんとした食事の有難さや、命を繋ぐために栄養を摂取する意義を今回の旅路で実感したばかりだと言うのに、疲れが出たのでしょうか。せっかく提供して頂けているのに申し訳ありませんね。
翌朝も朝食に手が伸びずにいた所、アシッド様にお茶に招かれました。
屋敷の中庭の木陰に配備された緑青色の鋼のガーデンテーブルはがっしりとしている分、卓上のテーブルウェアの白いレースの繊細さが目を引き立ちます。座席のクッションカバーも白のレースで、本来室内用のばあやのとっておきだそうです。応接室での接客や茶会用ではなく、家中でのちょっとしたお祝い用の品なのだとか。
当主に認められた正式な客人ではないわたくしの立場を配慮しつつも、彼なりの心づくしで歓迎されているようで嬉しく思えます。女主人が不在でも適切な采配のできる者はいるでしょうが、少し砕けた持て成しに思わず心が温まります。
「紅茶にシナモンとショウガを入れるのはうちの定番でね。あとは好みで蜂蜜を足してみて。少し癖があるから無理はしなくていいけれど、体に良いらしいから是非試してみて」
「……おいしいです」
「よかった。お口にあったなら何より」
お茶請けの桃のコンポートのジュレも、こちらでは夏の体調が悪い時の定番だそうです。
普段のデザートでは、もっと固めで果実も大きめの食べ応えと触感楽しめるゼリーをよく食されているそうですが、噛まずに飲むように接種できるジュレをわざわざ用意して頂いたようです。
「ほう……、冷たくておいしいです」
良く冷えた水色のガラスの器に彩られた白桃の白とミントの爽やかな配色は、目にも涼し気で。
小さく刻まれた白桃が蕩けるように柔らかく煮込まれたジュレは、するりと入っていきました。
ひんやりすべらかなのど越しの良さに、思わずうっとりして息が漏れてしまいます。
「食欲が無くても、少しでも栄養を取って倒れないようにして欲しいから。さて、本来ならまだ休養して頂くべきところ申し訳ないが、早急にそちらの事情をお伺いしたいのです。あなたのような麗しい御令嬢が、引っ立てられるように連れてこられては、戸惑いも警戒もあるでしょう。疲労も蓄積していることでしょう。そんな中で我ら辺境伯家を信用せよと候うのは、図々しいこととは思うのですが、両家の当主と連絡が付くまでの間は自分がこの地の代表として、勤めを果たしたいのです。ご協力をお願いします。どうかあなたの言葉で、ここにいたるまでをお聞かせ願いたい」
アシッド様の労わりに満ちた言葉もするりと入っては染みていくようです。
標高の高い辺境は王都よりも涼しいのもあって、本当にグッスリとよく眠れた気がします。
澄み切った空気を胸いっぱいに吸い込んでは吐き出してと、深呼吸をすれば力が満ちてきます。
清涼なこの空間でならば燃え滾るような思いや恐怖に吞まれることはありません。無力感に苛まれることもありません。爽やかな甘味のあとくちが呼び水となったのか、これまでについてするすると言葉が紡がれます。
無力な弱者が強者へ縋るための言葉には決してしません。
既に始まっている争いで、どう共に立ち回るかと持ち掛けねばならないのですから。
それでもすべてを包み込むように受け止めて下さる彼にかかっては、わたくしの心も解かれてしまうようです。
アシッド様は共に訓練をしてきた騎士団員の下の病気の罹患者の多さを哀れみ、団員の不調は治安の悪化に繋がるのではと危機感を抱かれたそうです。以来、辺境騎士団、娼館、そして領民へ向けた公衆衛生の知識の普及と衛生器具の開発普及に勤められてきたそうで。領民たちの艶本も、上からの啓蒙よりこういったものの方が受け入れると歓迎しているそうです。周り回って領地が潤い治安が保たれるならばと。
「貴族家の嫡男として相応しくない振る舞いと言えばそうかもしれないが、大事の前の小時さ。悪名? 名を汚すことを恐れ、ただ領地が腐らせるより実をとるべきだろう。なすべきことをなすために俺は俺の道を生きてきた。道徳からは外れても人の道から外れる行いはしていないつもりであったが、あなたの名誉を汚すような事態を招いてしまい、申し訳ない。噂だけでも恋人役を務められるのは俺にとっては光栄ですが、もっと違った形であればとも思います。こんな不本意な形で縁を持つのではなく、せめて正々堂々とあなたに申し込みたかった」
「いいえ、悪名はお互い様ですもの。同じ痛みを知る者同士の、奇縁とも言えますが、他の誰でもなくわたくしはあなたに出会えて助けられて本当によかったと、わたくしは思っているのです」
お互いの抱えてきた事情を語り合い、痛みを分かち合い、様々なことを打ち明けあった時間は特別で、何ものにも代えがたく。
あぁ、なんだか、胸が熱くなります。
こんな時間がずっと続けばいいのになんて……。
見つめ合ううちに自分でも瞳が潤んできたのが分かります。
復讐の炎に身を焦がすより、未来への夢を、もう一度。
わたくしだけでは難しくても、アシッド様と一緒なら……なんて。
「あの……、お互いに家の者がいない所で正式なお話も何もないでしょうし、返答出来ないことと分かってはおりますが、今のわたくしの気持ちを聞いて頂けますか?」
家同士のお話ではなく、ビオフェルミーナという一人の娘としてどうしても伝えたい。
真剣な顔で見つめれば、アシッド様の額には玉のような汗が光り、褐色のお肌は赤みを帯びていました。きっとわたくしも同じような顔をしているのだわ。
「は、はい」
「アシッド様のお言葉はわたくしの心に深く染み入るようで……。一緒にいると穏やかな気持ちと活力が湧いてきますの。領地と民を暖かく見守り、悪名すらも利用し目的のためならば信念を貫くあなたの生き方も本当に素敵で。どうか、わたくしをあなたの婚約者にして下さいませ。共に王家を打ち砕き、わたくしと玉座で寄り添いましょう」
「はい。喜んで。ははは……参ったな。告白は俺の方から…………、待って待って、今の、玉座って何?」
「ええ、結婚式は戴冠式ですから。素敵なお式にしましょうね♡」
婚姻までまだ時間はありましたが、婚約前の(第一王子殿下に傀儡になって頂くための)下準備はほぼ整っておりましたの。政は宰相の父を中心にした議会と影の閣僚とわたくしとで行うものですから。
戴冠式の後は最低限のお務めさえこなせば、殿下には後宮で太鼓持ちたち共に、華を愛でペットと戯れてと、賑やかで笑いの堪えない日々を過ごして頂ければと思っておりましたのよ。
ですが、お飾りを美しく飾って置くためにはお手入れ欠かせないのです。
埃が付かないように、日に焼けないように、型崩れがしないように。
大事に使おうと思っていた帽子掛けは欠陥品だったようで。
いくら由緒正しい伝統的な家具でも、綺麗に掛けられないのならば替え時ですわ。
ちょうどアシッド様の母君は王姉殿下。
ならば王冠を乗せるためだけのちょうど良い家具はもはや不要でしょう。
わたくしはアシッド様が欲しいのです。あなたとずっと一緒に寄り添い、分かり合い分かち合いたい。
「運命の相手だなんて信じていませんでしたが、わたくしはアシッド様にそうなって欲しいのです」
誰かに強制されたわけではない、ただ溢れるようなこの思いを、お伝えしたかったのです。
「玉座……」
アシッド様は噛み締めるように空をむき、同じ言葉を繰り返されます。
「あの、やはり女の方からの告白なんてはしたなかったかしら。わたくしこういったことには疎くては……、もっとお気持ちに添えるよう励むので……、教えてくださいますか?」
思わず俯いてしまったら、アシッド様はそっと宥めるようにわたくしの手を取ると、軽口を叩く様に言ってくれたのです。
「いや。……ありがとう。俺の方からも改めて、あなたとの将来を誓います。大丈夫、簒奪ぐらいなんてことないさ。よゆーよゆー。最新最強の結婚式は戴冠式スタイルで。うん、読んだことないけどゼ〇シィにもありそうな気がしてきた。ビオフェルミーナ様。一緒に悪を倒した余韻を噛み締めつつ、朝焼けの中寄り添いましょう」
もう朝焼けの時間ではないので、手の甲に誓いのキスをおねだりしてしまいました。
跪いてそっと触れただけの唇の感触は、あまりに一瞬で。
せめてわたくしの手を支える暖かい指先だけは逃がしたくなくて、思わず掴んでしまいました。
「ごめんなさい、わたくしつい……、離したくなくって」
「……俺もです。あなたと触れあえるのは幸せです。むしろありがとうございます」
そう言って蕩けるそうな顔をされているアシッド様はなんだかとても可愛らしいくて。
使用人の方々は少し離れた位置で視線を外して下さっていますし、見逃がしてくれているのでしょう。
「あの……あとで一緒にダンスの練習を致しませんか? もっと堂々と触れあえますし」
「エッ……、大胆なビオフェルミーナ様も大好きです」
悪戯っぽく囁けば、恥じらいながらも受け入れてくださいました。
せっかくのわたくしたちだけの夏休みですもの、たくさんの思い出を作りましょうね。
両家で手を取り合って国中の気になる所をお掃除するのも楽しみですが、今はただアシッド様とのバカンスを楽しみたいのです。