二四
「では、私はこれで失礼します。寅次郎さんも、また後で」
珠緒はそう言って、元来た道から帰ろうとするが、忠助に止められた。
「あ、待って、珠緒さん。僕らが通って来た道は、実は有事の際の非難通路なんだ。本来の道は、こっちだよ」
そう言って珠緒は忠助に案内されながら、珠緒は下駄を拾って広間から出る。
「珠緒さん、大丈夫?」
広間から出た珠緒は、知らず知らずのうちに、詰めていた息を吐き出した。
終わったのだ。まだ何も解決した訳では無いが、珠緒のやるべき事は果たした。
「緊張が解けたら、お腹が減りました…」
朝から何も食べていないのだ。珠緒は鳴りそうな腹を抑えて、苦笑いで微笑む。
「今度、忠助さんのオススメのチーズの店、一緒に行きたいです」
そんな言葉が口から出る。
「えっ、でも珠緒さんの口に合うかは分からないよ」
「いいんです。忠助さんの好きなものが、たくさん知りたいから」
珠緒は忠助の顔を見あげて笑った。
すると忠助は思い詰めた顔をして、珠緒の瞳を見返す。
「……『紗綾』じゃないけど、いいの?」
忠助は低い声で、そう呟いた。それに珠緒は驚く。
「私、休みの日は、紗綾さんじゃなくて、忠助さんに会いに行っていました」
珠緒は続ける。
「紗綾さんのことも、今でも大好きです。でも、私は、あなたのことはそれよりももっとーー」
そこまで言って、珠緒ははっと口を噤んだ。
急激に恥ずかしさが襲ってきて、珠緒は顔を赤くした。
(忠助さんが男の人だって思ったら、急に恥ずかしくなっちゃった……。でも、どうしよう。続き、言わないと変だよね)
珠緒は忠助の顔を見あげては目を逸らし、意を決して口を開いては何も言わずに閉じることを繰り返した。
そんな珠緒を見て、忠助は目を細める。
「それよりも、なぁに?」
珠緒はもう何も言えなくなってしまった。忠助は珠緒が言わんとしていることを、分かっていて楽しんでいる顔だ。
(た、忠助さんが、意地悪だ…)
寅次郎にされていた時とは全然違う気持ちになることに、珠緒は内心で首を傾げた。もちろん頭の中はそれどころではないのだが。
「ふっ、ごめんね」
珠緒の様子がおかしかったのだろう。忠助は少しだけ笑ってから、珠緒に助け舟を出してくれた。
「僕は、珠緒さんのことが大好きだよ。もっと一緒にいたいと思ってる」
恥ずかしげもなく、微笑みながらそう言った忠相の言葉は、珠緒にとって確かに助け舟ではあったが、特大の爆弾のようでもあった。
「わ、わ、私も……忠助さんが、」
好きです、と言った言葉は小さすぎて自分でも聞こえるか聞こえないかという声音になってしまった。
忠助はしかし、珠緒の口の動きでそれを読み取ると、嬉しそうな顔をした。
「ありがとう。僕でいいなら、喜んで案内するよ」
「好き」と言った自分の言葉も、忠助の言葉も、正確な意味はまだ珠緒には分からなかった。
しかし珠緒はハッと思い出して、懐に入れていた包みを取り出した。
「忠助さん、あの、これ良かったら、貰ってくださいませんか」
忠助に差し出したのは、珠緒が紗綾の店で買った、紺色の紐だ。髪飾りのお礼をしたいと、ずっと考えていた。本当はもっといいものがあったのかも知れないが、珠緒にはこの紐が美しく見えたのだ。
「これ、僕に?」
珠緒が頷くと、忠助は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう。珠緒さんからは、貰ってばかりだ。大事にするね」
忠助が喜んでいるのが伝わって、珠緒も嬉しくなったが、ふとこれで会えなくなるのでは、という思いが胸を占めてくる。
珠緒が突然不安そうな顔をし始めたのが伝わったのかそうでないのか、忠助は珠緒の髪を一房掬って、梳いた。
「珠緒さん、またね」
髪の流れに目を遣っていた珠緒は、その言葉で勢いよく忠助の顔を見つめた。
(また、会えるんだ)
珠緒はその言葉が嬉しくて、寂しさなど忘れて頷いた。
「はい!また、会いましょう」
忠助に見送られながら、珠緒は鼠の大将の屋敷を後にした。




