二十
「何も」
珠緒はそう言って、自分が今緊張していないことに心の中で首を傾げた。目の前の1人とだけ話しをすればいいのだと、頭が判断したのだろうか。
「あなたにーー、他の方々にも、なにかして欲しい訳では無いのです」
珠緒はそこで言葉を切って、深く息を吐いた。
「申し訳ありませんでした」
珠緒は深く深く頭を下げた。両手と額を畳に付ける。
「この度は、猫の一族の者が掟を破って、この土地で猫形となったこと、そしてその姿であなたたちの仲間に危害を加えようとしたこと。そして、謝罪が遅くなったこと、本当に申し訳ありませんでした」
きっと、寅次郎が猫形で鼠の陣地を通過しようとしたことにだって、訳があったのだろう。しかし、どんな理由があったって、決まりを破ったのは猫の一族である寅次郎だ。
被害を受けた相手に謝る。
それだけのことなのに、どうしてそれをしないのだろう。どうして、今猫と鼠は争おうとしているのだろう。
珠緒は謝罪の気持ちがどうか伝わりますようにと、それだけを祈った。
「他には?」
珠緒が謝罪した相手は、それだけ言葉にすると、珠緒を観察するように眺めている。
珠緒は頭をあげて、向きをくるりと変えると、珠緒の後ろで成り行きを見ていた鼠の一族の衆の方を向いた。
「皆様にも、お詫びいたします。猫の一族の者が、掟を破ってこの土地で猫形となったこと、誠に申し訳ありませんでした。怖い思いをされた方もいらしたと思います。猫の一族から誰も謝罪にも、捕らえている者を助けにも参らず、今、再び争いが起きるのではないかと不安な思いをさせてしまって、本当に、申し訳ありません」
珠緒はそう言って、再び頭を下げた。
鼠の大将だけではないのだ。鼠の一族の皆が、猫の行いによって精神をすり減らす日々を送っているのだろうと思うと、全員に謝りに行かねばならないように思えていた。
しかし実際全員に謝りに行くことなど出来はしない。珠緒はここで精一杯の気持ちだけは形にしようと、珠緒なりに必死だったのだ。
「……へぇ」
小さな声が背後から聞こえた。そして、誰かが立ち上がった音も。
「皆の者、どうかな。この猫の娘は、今私たち全員に頭を差し出しているよ。殺す?」
この言葉には、珠緒も体が震えるのを隠せなかった。お前が罪を償え。謝罪だけで足りるものかと、そう言われた気がした。
「猫の奴らは、自分たちの息子を平気で見捨てて、再び私たちと争い、傷つけあう為の道具にしようとする奴らだ。どうせ抗争が始まるなら、手始めにこの女の首でも、私たちから送ってやればいいと思わない?」
鼠の大将は、更に皆を煽る。
珠緒は自分の身の安全を考えるなら、こんなことはすべきではなかったと、安い綺麗事だけでこの場に来たことを、反省した。
(どうしても謝りたいのなら、殺される覚悟も、持って来なければならなかったんだ…。いや、違う、今、覚悟を持てばいいんだ)
珠緒は震える体を叱咤して、頭を下げ続けた。殺されるのか。
そう思った時、忠助の顔が浮かんだ。
(まだ、死にたくないなあ…)
「大将、もういいよ」
そう言ったのは、誰なのか。大衆の中から聞こえた声は、子供のような声だった。




