十四
「待って」
猫形に変わろうとした珠緒の腕が、何かに引っ張られる。恐ろしい鼠の匂いと瞳が遠くなって、別の気配に包まれた。後ろから腕を回されて、珠緒は反射的に伸びた爪でそれを引っ掻く。赤い液体が、ぱっと散った。
「ここで猫形になったら、駄目だよ」
背中に感じる優しい温度と、穏やかな声音。
(なんだか、いい匂い……)
珠緒は、はっとして、我を取り戻した。
「っ、はーー、はーーっ」
どくん、どくん、と心臓が強く打つ。極度の緊張状態にあったため、知らず息が切れていた。
(わたし、いま、変化しようとした)
珠緒は物心ついてから、意図せず猫の姿になったことは一度もない。猫のおさめる土地の外で獣形になったらどうなるか、よく分かっていた筈なのに、抑えられなかった。
(わたしが火種をひとつ増やしてどうするの。これじゃあの人に顔向けできないーー)
そこで珠緒は、ようやく自分の置かれている状況に意識が向いた。
背中に感じる暖かい体温、鎖骨の上に置かれている腕、そしてその腕に僅かに滲む赤い、血の色。
珠緒はさっと顔を青くして、緩く回されていた腕から素早く抜け出し、後ろにいるであろう人物に勢いよく頭を下げた。
「ごめんなさい!」
先程とは違う理由で、心臓が早鐘を打つ。
(どうしよう。どうしよう。止めようとしてくれた人を、傷つけてしまった!)
頭を下げ続ける珠緒の前で、ふっと吐息が落ちる。
「大丈夫。気にしないで」
珠緒はぶんぶんと頭を下げたまま勢いよく横に振った。
「私、あなたに怪我を……謝って許させることじゃないですが、本当に、すみません」
「ううん。すぐ治るよ。僕こそ、急に触ってごめん」
その言葉に、珠緒は恐る恐る頭を上げて、珠緒を助けてくれた人を見上げた。
珠緒の前に立つ青年は、黒紫色の着物を纏う、灰色の髪をした青年だった。微笑みにすら見える穏やかな顔で珠緒を見ている。
「あなたが、どうしてこんな所にいるの?」
珠緒に目線を合わせるように少し屈んで話しかけてくれる。その姿に珠緒は朧気な既視感を覚えた。すっかり警戒心を忘れて、気負いなく正直に答える。
「私は猫の大将の家に仕える下働きの者です。寅次郎がこちらで迷惑を掛けて捕まったと聞いて、謝りに来ました。鼠の大将のいらっしゃる御屋敷へ行きたいのですが、道を教えていただけませんか」
珠緒の言葉に、青年は驚いたように目を少し大きく開けたあと、嬉しいことがあったかのように朗らかに笑った。
「来てくれてありがとう。大将の屋敷まで案内するよ」
「えっ」
これには今度は珠緒が驚く番だった。
そういえば、と珠緒は思い直した。このひとは先程から何故か珠緒に必要以上に優しく接してくる。甘い言葉には裏があるものだ。警戒心を取り戻したところで、珠緒の後ろにいる、影の鼠たちが人形に姿を変えて、青年に声を上げた。
「おい。そいつは猫だぞ。何親切にしてんだよ」
青年はその声に答える。
「聞いてただろ?謝りに来てくれたんだって。だから、屋敷まで案内しても問題ないよ」
「お前……!猫は俺らにありもしねぇ因縁でっち上げて抗争ふっかけようとしてんだぞ?!こいつだってどう考えても情報屋だろ?!じゃなきゃこんなときに1人でのこのこ敵の陣地まで歩いてくるかよ!」
珠緒は疑われている当事者だが、影の鼠の訴えの方が自然に思える。
(このひとは、なにを考えているんだろう)
珠緒は庇ってくれる青年を見ながら不思議な気持ちになった。
影の鼠が青年に畳み掛ける。
「それにこいつ、さっきは猫形になろうとしたんだぜ?!お前だって腕引っかかれてただろ?!なのに何猫の味方してんだよ!」
それまで穏やかに反論していた青年が、その言葉で表情を変える。ピリッとした空気に珠緒も、影の鼠達も息を飲んだ。
「……さっきのはお前らが悪いよ。この子は猫形になるのを必死で止めようとしてた。見てただろ」
ぐっと、影の鼠は押し黙った。
「脅威から身を守ることは本能だ。この子はそれすらも耐えていただろう。いくら自領だとしても、お前らがやったことは、脅しと何も変わらない」
青年はそう言うと、珠緒に向き直って「謝るのは、あなたじゃなくて、僕たちだった。ごめん」と言って頭を下げた。
「大将の屋敷は、あの山の麓だ。案内してあげたいけど……怖いよね」
青年は困ったような顔でそういうので、珠緒はそんな事ないという気持ちを込めて、首を振った。
「あなたのことは、怖くないです。優しい人だと分かりましたから。案内して貰えるなら、あなたがいい。よろしくお願いします」
珠緒は決意を込めてそう告げた。言葉にすると、改めて、自分がどうして鼠の土地へ来たのかが思い出せるようで、気が引き締まる。




