十二
珠緒はしばらく動けなかった。色々な思いが押し寄せて、足も手も固まって動けない。おじいさんは、近くにいる者達になら優に聞こえる声音で、最後は珠緒に訴えていた。きっと、顔を上げたら、周りにいる鼠の者から、針の筵のような視線を受けることだろう。
すると俯いたままの珠緒の視界に、ふと、美しい紐が目に入った。
夜空のような濃紺の糸に、光を反射して煌めくような白の糸が所々混ざった紐だ。
珠緒はおもむろにそれを手に取ると、紗綾に差し出した。
「これ、買いたいです」
「…分かったわ。珠緒ちゃん、大丈夫?」
紗綾は複雑な顔で珠緒を見ている。珠緒は曖昧な顔で笑って、お金を手渡した。
「ありがとうございました。さようなら」
その言葉に、紗綾は眉を下げていたたまれないような表情をしたが、珠緒が立ち上がると、「またお店にも来てね、珠緒ちゃん」と声を掛けてくれた。
珠緒は逡巡したが、やがて紗綾の言葉に頷いて、手の中の紙袋に入った紐を懐にしまい、顔を上げて歩き出した。
思ったとおり、周りにいたものたちは、買い物を売る手も買う手も止めて、珠緒を見ている。
その瞳には、疑いや恐怖、憎しみが浮かんでいる。たまに純粋に驚きの目で見てくる者や、知らぬふりを決め込んでいるものもいたが、多くの視線が足に絡みついて珠緒の進みを止めようとしているかのようだった。
珠緒は、鼠の大将の屋敷を目指している。
寅次郎が捕まっているのはそこだろうし、大将には会えなくても、力のある人に会って、話したいことがあるのだ。
鼠の大将の屋敷は、鼠の土地に足を踏み入れた所から凡そ半刻の場所にあると、猫の大将の屋敷で務めている家中から、噂程度で聞いて知っていた。猫の大将の屋敷も、他の家とは比べられないくらい立派なので、鼠の大将の屋敷も似たようなものではないかと思って歩き続けているのだが、それらしい家は見えてこない。
(もう、歩けないかも…)
珠緒の心が折れそうになった、その時。
通りを歩いていた珠緒の目の前に、ぬらりと、不意に5つの人影が現れた。
珠緒は驚いて足を止める。
その者たちは揃いの黒みがかった灰色の衣を身に纏って、まさしく影のようだ。
珠緒はいちど止めた足を再び進めようとするが、数歩歩いたところで、その影のひとりが口を開いた。
「ここから先には、行けないよ。猫のお嬢ちゃん?」




