足りないぬくもり
ホルメンが可愛らしく手を振って去った後、アーサーは渋々布を渡して行ってきなさいと湯船の方を指差した。
『…気の使えない男ですまない、湯はもう魔術で張ってある。シャワーは湯船の端にあるつまみを使えばいい。何かあればすぐ声をかけるんだぞ?近くにいるからな……ゆっくりしておいで』
その言葉にコクコクと首を動かせば安心したように微笑んだ。
衝立の裏に行くまで彼が自分の背中をじっと見つめていたのは気のせいだろう。
湯船には確かに半分ほどの湯が溜まっていた。先ほど見た時は空だったのに、魔術というのはなんとなく予想できてはいるが実際に摩訶不可思議な現象を見てしまうと頭が混乱しそうになる。
なるべく考えないようにしておこうと服に手をかけた。
ようやく自分の服装に気がついた…オークションの時から来ていたもののような記憶がある。
真っ白な襟のない長袖Tシャツに白い半ズボン。両方ともサイズは少し大きめで袖から手が見えるか見えないかほど。足元は裸足だったようで乾燥した黒い土が肌も床も彩っていた。
もしかしたら走り回った時、高級そうな床を酷く汚してしまったかもしれない。その証拠に奥から鼻歌を歌いながら掃除をしているようなアーサーの動く音がした。
お詫びに何ができようか、そう考えながら服を脱いで足先から浸かるように湯船へと潜り込む。
………湯気のある湯はこんなにぬるいものだったろうか?
冷たいわけでも熱いわけでもないのに、自分の体温よりも低いんじゃなかろうかという温度に首を傾げる。
試しにシャワーも出してみよう。ふちのちょっと離れた所にあるつまみを引っ張ると、何もない空中から優しい雨のようなシャワーが現れた。
…やはり、同じくらいぬるい。
異世界に来てから感覚でも鈍ったのだろうか?多少温度は感じるし、アーサーと手を握った時の感覚も弱かったが支障は出ていない。寒い訳じゃないからまぁいいか、きっとこれからこの世界に慣れてきたら元に戻るだろう…
シャワーを止めて、今一度高級そうな湯船を見る。
湯船はアーサーが入ってもゆとりがありそうな大きさで、半分のお湯でも自分の肩まで浸かることができた。
なんだか、1週間ぶりに休めたような、そんな疲れが急に身を重くする。
知らないメロディーのテンポの緩いのどかな鼻歌はそんな自分を癒してくれた。
目の前にある身体は傷ひとつなく、肋骨などは浮いているが目立った外傷はないように思える。
でも、左胸がおかしいと自分の中の何かが告げた。全く膨らみのない胸には何もないのに「急げ、治せ、早く」と警報が頭の中で鳴り続けるのだ。
大丈夫、平気だと言い聞かせるように撫でれば静かになるが、思い出さなければという危機感が自分を追い詰める。
少し小さく感じる身体も、何も思い出せない頭も、思うように動かせない口も。全て自分のもののはずなのにどうしてこんなにも恐ろしいのだ。
ぬるい水に包まれていたら余計に嫌な思考が渦を巻くので、逃げるように風呂から飛び出た。
跳ねた湯の音で鼻歌が止んだのが恐怖を刺激して、濡れたまま服を来て思わず駆けていく。
『…!ぁ、さ!あーさー…』
甘える子供のように掃除していた男の腰に掴み掛かると、驚いたのかビクついて、それでも自分を気遣ってか座り込んで抱きしめてくれた。自分のせいでびしょびしょになる彼は気にせず、よしよしと頭を撫でてくれる。
『どうした?やっぱり1人で入るのは厳しかったか…?』
撫でられながら頭を横に振る。
『…お湯が熱かった?』
もっと頭を横に振る、飛び散った水が絨毯を濡らした。
『しばらくは風呂やめようか、濡れた布で体を拭く程度にしよう。さあまずは風邪をひかないように髪を乾かそうな』
そう言って離れたアーサーの手にはいつの間にか大きい布が握られていた。
あぐらをかいた彼の中心に引き込まれるように座り、ちょうどいい強さで頭をわしゃわしゃと乾かしてくれる。
『あのなムトラ、明日から俺は休んでいた分の仕事をしなきゃならないんだ。もっと休んでムトラにつきっきりで世話をしてやりたいのにそうもいかない…一緒にいられるのは朝ご飯の時と休みの日だけになっちまう。』
チラリと彼の顔を盗み見ると酷く苦しそうな表情をしていた。でも仕方のないことだと思う、生きるには労働が必要だと理解している。うんうんと頷けば良い子だなムトラは、と頭を強く撫で回した。
『基本的に自由に動いてもらって構わない。書斎も2階の食堂も出入り自由だ、一応トイレは各階にあるから…。ただ完全に1人にさせることはしないから安心しろ。今日会ったホルメンとまた今度紹介するヘイリーのどっちかに絶対ついてもらう。明日はホルメンが来てくれるから…まぁ遊び相手だと思ってのんびりするんだよ』
明日はホルメンと一緒。
明後日も誰かがそばにいてくれる。
次の日もまた次の日も…この言葉のぬくもりは怖がる心を癒すには十分で。
「おや」
ずっと話しかけていたアーサーは、聞こえてきた寝息に思わず破顔した。
少し子供には熱かったかもしれない水温のおかげか、足の真ん中を縄張りにした子供は湯たんぽのように暖かい。
「お疲れ様ムトラ、よく頑張ったな」
起こさないように慎重に抱えてベッドへと連れていく、下ろしたあと身をよじられた時は流石に心臓が跳ねた。
眠り続ける子供は寝返りをうち、自分の方へ背中を向けて深い寝息を立てる。
ふと睡眠中に申し訳ない気持ちもあるが、一緒に入浴しようとしたあの時確認しようとした焼印を探し始めた。
……異世界人に焼印、ホロウ医師から聞いた時は酷すぎる冗談かと思ってしまった。
左肩、肩甲骨。乱雑に縦に並ぶ丸い紋様。
確かにこれは奴隷用の焼印だった、見た目だけは。
いち魔術師としての感想を述べるならばコレは「焼印に見せかけたなにか」のように思える。
解読してやろうかとは考えたが、それは一度厳重に封をした手紙を丁寧に開き、また元の厳重な封の手紙に戻すようなものである。今のこの子にとってそれは致命傷にもなりかねない。
服を戻して上から布団をかけてやると掠れた声で『…ぁーすぁ…』と呟いた。
『大丈夫、俺はここにいる』
まだやらなきゃいけないことはたくさんある、それでも名を呼ばれてしまったのならコレは仕方のないことだと一緒に布団へ入ってやる。
そして何度も何度も優しく頭を撫でてやった。
たまにうなされているのか突然叫ぶこともあった、その時はあやすように抱きしめて背中を撫でてやると静かになる。
どんなに酷い扱いを受けたのだろう、ムトラお前には何があったんだ?
腕の中の子供への憐れみと王都への怒りで今日もきっと眠れない。
されど、熱いほどの温もりを手放すことなどする気は毛頭なかった。