楓戻る
勇ましく戸を叩く音が響き、おねちゃんは慌てて着物の襟と裾を整え何度か咳払いをしてから家の戸を開けに向かった。
(喜兵衛?…あぁ、早速楓さんが手配をしてくれていたんだ♪…ありがとう、君は本当に最高の警護役だよ♪…アンケートで一番尊敬する人は?って聞かれたら、迷わず[楓さん!]て答えるからね!ほんと、未来の俺の命を救ってくれてありがとう~♪)
「あの、たっちゃんに何か御用でも?」
「は、実は橘楓様より火急に数日の間、巽淳一様の身辺警護を頼まれまして…」
家の前に立っている喜兵衛とやらは、背丈は160cmあるかないかの小柄な中年男で、髪は角刈り、その体型とはややアンバランスに感じる口髭を蓄えた武士だった。
そんな見た目の男だが、腰には立派な太刀が差し込まれている。
(確か、楓さんから忍びだと聞いていたけど…完全に見た目は武士だよな…)
「楓から!……ちっ、あいつめぇ~~…行動が早いっての…」
「楓様のご両親は拙者の命の恩人、その娘様の頼みとなれば、何をおいても優先するのが拙者の義!…なので、こうして急ぎ巽淳一様にお目通りしたく参上致しました!」
「……急がなくってよかったのに…たく、楓のやつ…」
遥々俺を訪ねてきてくれたのだ、ここは俺の救世主様を快く迎えるのが礼儀というものだ♪。
「あの~、私が巽淳一ですが、わざわざ御足労痛み入ります…」
「なんの、なんの、おぉ!食事中だったとは申し訳ない!…おほん、では改めて、拙者矢尻喜兵衛ともうし、一応は心陰流免許皆伝でござる、ま、見た目は武士の格好をしておりますが、実はその日暮しの密偵を生業としておりまする!」
「心陰流の使い手ですか!それは心強いです♪…私は織田家足軽頭、巽淳一です!お世話になります!」
かなり物腰の柔らかそうな人だが、腰に差している刀の柄は相当酷使しているのか、柄巻が少々朽ちているように見える。
という事は、それだけ刀を抜く機会が多いのだろう…あの楓さんが推薦した人だ、相当な剣客で間違いないはず…。
(その日暮しの密偵てのは、建て前か…)
「あ~あ、今度からは楓よりも、このおじ様がたっちゃんの警護役になってくれたらいいのに…」
「いやいや、拙者等、楓様の足元にも及びませぬ!…」
「そうなんですか?…矢尻様は心陰流の免許皆伝なのに?…」
「巽殿は大和飛燕流を目の当たりにした事がありますかな?」
「え、えぇ…もの凄い速さでした…本当にツバメが空を切り裂くような…」
今思い出してもあの動きは背筋が凍る、口を真一文字にし、鷹のような鋭い目付きで野党共を叩き伏せた楓さんの姿は、正に鬼神そのものに見えていた…そんな彼女が令和の時代では頬を赤らめ、オムレツに可愛いケチャップ猫ちゃんの絵を描いていたなんてまだ信じられない…。
(でも、本当の楓さんは、令和の時代に過ごしたあの姿が偽りの無い彼女なんだろうな…)
「そうでしょう、拙者も10回ほど手合わせを挑みましたが、全く歯が立ちませんでしたわ!わははは、おっと、まだ食事中でしたな!…では、拙者は外を見回りしてくるでござる!」
こうして俺とおねちゃんは昼食を再開したが、完全に興醒めになったおねちゃんは、かなりスネた表情で一言も会話をせず黙々と食事を続けていた。
これって俺はおなごに恥をかかせた事になるのだろうか?…。
(この場合、やはりおねちゃんに胡麻を擂る方がいいのかな?…でも、そうなると変に俺もその気になってたと誤解されないだろうか?…あぁ、浩一!こんな時、俺はどうすればいいんだよぉ~~!)
俺の人生の中でこんなに昼ごはんが美味しくなかったのは初めてだった…。
[四日後]
喜兵衛さんがやって来てからの日々は極平凡な毎日で、特にアクシデントも無く俺は時間のある時、少しだけ彼から心陰流の剣術と武士の心得を教えてもらっていた…ちなみに35回、俺は剣術稽古で喜兵衛さんに首を飛ばされた…真剣ではなく、本当に竹刀でよかったと俺は安堵に満ちた胸を撫で下ろしている…。
たった四日間だけの付き合いだったが、共に同じ釜の飯を食い、男と男の剣勝負を交えた俺は何となく喜兵衛さんを師匠と思うほど、この短期間で彼を信頼していたのも事実だ。
「では、楓様、私の役目は終りましたゆえ、これにて失礼つかまつる…」
「ありがとうございます、喜兵衛…また困った事があれば力を貸してください…」
「この矢尻喜兵衛、橘家のためならば、身命を賭して駆けつける所存!…いつでもお呼び下さいませ!」
「はい…」
「おねさん、仲様、藤吉郎殿に小一郎殿、お世話になりました!」
「あははは~♪またいつでも遊びに来ていいよぉ~♪」
「あの!喜兵衛さん、いえ、師匠!…また、私に強き武士とは何たるかを教えていただけますか?」
「いやはや、師匠とは…少々こそばゆいですな…よろしいですよ、それまでしかと織田家の為に精進いたされよ!…では、これにて御免!」
初めて喜兵衛さんを見た時は小柄な男だと思っていたが、今の俺の眼には木下家から去る彼の背中はまるで巨人のように大きく見えていた、死と隣り合わせで生きる男の背中…やばいほど格好いい!。
「さて、楓ちゃんが戻って来たという事は、柴田勝家について何か手応えがあったのじゃな?」
「はい、藤吉郎様……」
楓さんの事だ、色々策を幅広く使い情報を収集してくれたはずだが、彼女の表情は何やらキツネに摘まれたような雰囲気を出していた。
そんな雰囲気を感じながらも、俺達は彼女からの報告を聞くため家の中に入り、全員囲炉裏の前に囲み静かに彼女の口が開くのを待った。
「皆様、この数日…柴田様の身辺を調べましたが、立派なお屋敷に絢爛豪華な屏風に壷、数々の名刀も所有され、正に下級武士が夢見るような環境でございました、しかし…食事はいたって質素、お酒はお好きのようですが、一人で飲む場合は深酒もせず晩酌程度…甘い物も嗜まれますが、進物された菓子の殆どは使用人の家族に分け与えております…」
「え~~~!あの鬼柴田が~~?…毎晩樽ごと飲んでると思ってたぁ~~!」
「朝は陽が昇るとすぐに一刻ほど武芸の鍛錬をされ、あさげの後はお城に出立するまで書物を静かに読まれておりました…」
「兄上、まさに武士の鏡の様な生活をされておりますな、それに鬼と呼ばれていても使用人には気を配られておられる、家老にふさわしいお方ですね…」
「う、わ、わしだって…家老に出世すればそのような生活が出来るわい!」
「真に非の打ち所がありませんな……」
相手は織田家の家老…俺達が束になっても地位、財力、武力、カリスマ、どれを秤にかけても惨敗だ…やはり俺の考えは完全に的外れだったのか?…。
しかし、何か有利な情報を掴んできたから楓さんはここに戻って来ている…俺はもう少し彼女の報告に耳を澄ます。
「く、悔しいのぉ~…わしはあの柴田が居る限り、出世の道は無いのかの~……まだまだあやつの妨害を受けねばならぬのか…とほほ…」
「藤吉郎様、そんな弱気は止めて下さい…楓さん、ここに戻って来たという事は、何か私達に報告があるのでしょ?…こんな私達でも逆転できる情報が?」
「はい!…あの柴田勝家殿には、もう一つの顔がありました!」
「もう一つの顔?…」




