天は味方した!
台風情報はともかく、これまで天気を気にしたのは、子供の頃では遠足の前日、成長してからは友人達との旅行前、そして社会人というか電気屋になった時はアンテナ工事の前日くらいだった…。
まさか、その天気で命の心配をしなければならないとは、どこまで俺の守護星様は悪意に満ちているのだろうか…。
[ザ…ザザ…殿、森可成でございます!…いつでも隊を動かせまする!]
[こちら成政、早く御下知を!]
次々と信長様のトランシーバーに士気の上がった重臣達の声が響き始める!。
その声が俺の耳に流れる度に額から冷たい汗が流れ、心臓の鼓動が激しくなっていく、そんな俺はただ恨めしそうに空を見詰めるしかなかった…。
「巽!何をしておる、まだ合図を出さぬのか!…ここに来て臆したと申すか!」
とりあえず何かを答えなければ、信長様のお怒りは頂点になるはずだ…それでも、今の俺には何も言葉を出せずにいた…。
このままだと、まず先に俺の命が消える…その恐怖に冷静な判断が出来なくなっていたからだ…。
「殿、淳一は天の時を待っているのです!」
「天の時じゃと?…どういう意味じゃ、藤本!」
「はっ!…信長様、あの先にある山の空をご覧あれ!」
(えっ?…)
「ん?……ただの黒雲しか見えぬが………!!……そういう事か、藤本!!」
「はい、そうでございます!…おい、何をしている!淳一、早く気圧計を確認してみろ!」
「え?…わ、分かった!」
命を覚悟したまな板の鯉のように、俺の視界は何も見えていなかった…浩一からの声が聞こえるまで、俺はただ、心の中でみんなに謝ってばかりしていた…。
そんな情けない俺を見ていた浩一は、決して諦める事をせず、俺の代わりにこの界隈の様子に全神経を集中させていたのだ!。
「さ、下がり始めている!…気圧が…だ、だんだん……ぐすっ……下がって……うっ……うぅっ…」
デジタルの数字が先程よりも下がり始めている!…次第にその数字がゆらゆらと目から溢れる涙で揺れていく…やはり歴史の神はずっと俺達の味方でいてくれた事を知った俺は、人目をはばかる事無く涙を流すしかなかった…。
「何を泣いておるのだ!巽!…涙は義元を討ち取り、わしから褒美を受け取ってから流せ!…これより、貴様の合図で我が軍は動く!…皆に策を伝えよ!」
「ぐすっ…は、はい!…」
これまでラジオのようにスピーカーから流れる音を流していただけのトランシーバーに、ようやく通話ボタンを押す機会が訪れた…この缶ビール500mlサイズほどのトランシーバーの向こうには、織田家の猛者達が今か今かと下知を待ち構えている!。
俺は2回深呼吸をし、静かに通話ボタンを押し込んだ!。
「こちら、織田軍本陣、巽淳一です……皆様、よく聞いて下さい…間もなくこの一体に豪雨が起こります、雨が降り始めると同時に、各隊は小一郎様の指示通りに進軍してください、雨の中で聞き取れない場合は、即座に小一郎様に再度確認する事を忘れないで下さい!」
「巽、そのトランシーバーをわしに貸せ!」
俺は手にしていたトランシーバーを信長様に渡すと、浩一の顔を見詰めた…彼は何もいわず、ただ俺に向けて軽く頭を頷かせるだけだったが、それだけでも俺は感謝の気持ちでいっぱいだった。
「皆の者!織田信長である!…よいか、今の巽の言葉はわしからの言葉だと思え!…従わぬ者が居れば謀反とみなし、義元を討った後にわし自ら成敗いたす!じゃが、従った者には全員褒美を与える!」
[おぉーーーーーー!!]
俺のトランシーバーから燃え上がる男たちの声が鳴り響いた!。
こうしている内に、さっきまでの青空が嘘のように黒雲に覆われ始めていく!。
(いいぞ!…いいぞ!…もっと、もっと数値よ下がれ!)
♪ポツ………ポツ………
「…お、雨が来おったな……どうするのじゃ?…巽!」
「はい、小一郎様、パソコンの準備は大丈夫ですか?」
「いつでもどうぞ!」
「淳一、俺の出番は雨が止んでからだ、それまで小一郎様をサポートしてくる!」
「頼む、あ、それと…ありがとうな、浩一!」
「おう!」
俺達の頭上に曇天の空が広がっていく…まだ降りは弱いが恵みの雨は甲冑を濡らし始める…もう俺達がやるべき事は無い…後は、この雨が強くなるのを待つだけだ…。
気圧計の数字は更に下がり始めていく、これはかなりの低気圧が来ているに違いない!。
[ザ…ザザ…こちら物見の五平、桶狭間山の義元本陣から雅楽の奏でる音がこちらまで聞こえてきております!…どうやら宴が始まったもようです!]
歴史の神はしっかりとこのイベントも用意してくれていたようだ、これまで険しい表情だった信長様の顔に不敵な笑みが浮かんでいる!。
「ふっ、勝利を確信しての宴か!…それが義元最後の宴となる事も知らずに…せいぜい美味い酒を味わっておくとよい!…明日には飲みたくとも貴様は飲めぬのじゃからの♪」
雨に濡れながら、信長様は腕組をし桶狭間山を見上げている!この死と隣り合わせの時代なのに、一転の迷いも無く己の道を歩む彼の姿は途轍もなく大きく見えた。
一体、どんな鍛錬をすればそのような肝の据わった男になれるのか、この情けない俺に伝授してもらいたい。
(ほんと、雨が降り始めてくれて良かった……本当に……これで誤魔化せられる…)
その理由は…俺の大切な所を隠してくれているトランクスが、命を失う恐怖で膀胱から噴き出した少量の雨で濡れていたからだった…。
(この歳で…マジ情けない……これだけは、浩一にも黙っておこう…)
「お、おぉっ!…こ、これはかなり降り始めたの!」
曇天から漆黒に変化した空からいきなり大量の雨が降り注ぎ始めた!。
俺はもう歴史の神を疑うよりも、これからの未来を神と共に歩む覚悟を決めた瞬間だった!。
(この厚い雲で桶狭間山の山頂が消えた…)
「小一郎様!…始めてください!」
「分かりました!…」
小一郎様はパソコンの画面と睨めっこをしながら、トランシーバーを握った!。
浩一はドローンの最終点検に入る!。
「こちら、木下小一郎、森隊はそのまま静かに前進!…佐々隊は、巳の方角から山の斜面を迂回しつつ森の中を進んでください!」
(…桶狭間の戦いが…今、始まった…)




