些細な亀裂ほど怖いものはないよね。
その目はずっと見詰めている。
その声はずっと呼び続けている。
その魂はずっと…積日に惹かれ合い、呼び合い、探し求めている。
己の使命を果たさんと駆けるその脚は鳥の様に飛ぶように軽やかに野山をかけていく。
聳える崖も急流な大河もものともせずにその進みが止まることは無い。
それどころか、速さは尚も増すばかりだ。
なぜならば、己の求めるものが、もうこの近くまでいることに気づいているから。
早く…、早く行かねばならぬ。
福音を纏った足元には、緑濃き苔と新たな芽の息吹が生まれていた。
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8月31日、要の部屋の壁際には真新しい制服が掛けられ、机の上には新品の教科書やノートなどが並んでいた。
要は明日、とうとう高校デビューである。
東京では瀕死状態だったので学生生活など微塵もしていない。
中学も義務教育だったからこそ、ギリギリの出席日数と成績でなんとか卒業できたようなものだった。
学生生活に憧れはずっとある。
いや、「あった」と言った方が正確か。
だってまさか高知の高校に通うなんて2、3週間前まで考えもしなかったのだから。
一人勝手にアウェイ感に浸ってしまう。
― いや、まあ東京にも友達なんていませんけど……くぅ、言ってて寂しすぎる…。
されど憂鬱だ。
だって新学期から転校生って……。
せめて誰か知り合いでもいれば良いのに…しかし唯一思いつくのは“あの”巽だけ。
― いや、無理中の無理だろ。
― むしろ近づいたら終わりな気がする。
― でも、巽君とずっとこのままって訳にも…いかないよね…?
要の口からはさっきから止めどない溜息が出まくりまくっている。
行きたくない…出来たら休みにならないかな?静さんに体調悪いって言うか?
いや、多分洒落にならないことになるな…救急車呼ばれるに決まっている。
マジで、絶対、うん、確実に。
泣き叫ぶ静に呼ばれた救急車の担架に縛り付けられ運ばれる自分が容易に想像できた。
「はぁ~…。」
もう、逃げれない状況に要はまた大きなため息を一つつくのだった。
せめて学力だけでも不安にならないよう部屋で勉強をしていたら、昼食の時間になっていたようだ。
静が盆に具が沢山盛られたそうめんを持ってきてくれた。
要は最近もっぱら昼食はこのお素麺ばかりをリクエストしている。
具材をかき分け白いツルツルとした素麺を力無くずるずると啜ると、一息ついたように声を出した。
「ぐうへえぇ…!明日から学校だぁ…。」
「お素麺ばかりだと栄養が偏ってしまいますよ。要様。」
「でも、暑くて…。」
高知の夏は暑い。
静が言うには8月はまだまだ序の口で9月、いや10月でもまだ暑いらしい。
…恐ろしや高知。
洗濯物が午前中で乾いてしまうところ、マジでビビりました。
しかしカラッと晴れているのは気持ちが良い。
「では後で、アイスクリンでも食べにいきますか?」
「行きます!」
静のこんな提案にだって、高知の夏には最高の誘いになるのだ。
要は急いで錦糸卵と一緒に素麺をずずずっ!と吸い込んだ。
高知にはアイスクリンというご当地の氷菓がある。
これがバニラアイスとシャーベットを足して二で割ったような食べ物で。
甘くて美味しいのに、口の中でほろほろと雪のように溶けてしまうのだ。
あっさりとした味にお年寄りから子供まで喜んで食べるアイスクリン。
昔は駄菓子屋の前にもアイスクリンを入れた専用の縦長で箱型の入れ物が置いてあって、値段も100円からあったので子供の頃は夏中食べたものだと静は笑って車を運転している。
要は助手席に座りながらそれを相槌を打ちながら聞いていた。
「今は桂浜の所や高知城とかで売ってますね…、昔は道沿いにアイスクリン売りのおばちゃんたちがパラソルを広げて売ってたんですよ。」
「へえ。」
「カラフルなコーンの色で子供達も喜んでましたね。」
「カラフル?」
「ピンクとか」
「ピンク!?」
攻めてるな高知よ。
しかし緑のコーンもあることを要はまだ知らなかった。
静が車を止めたのは市内の一角で、側から見たら氷菓屋とは気付きにくい店構えの店だった。
「いちたす…いち?」
「アイスクリンといえば、ここがおススメなんです。」
外から見ると中は薄暗そうに見えるのだが、中からお客さんだろう一組の親子が出てきた。
彼らの手にはコーンの上に2段に重ねられたアイスクリンが見える。
小学生ぐらいの子供がそれを嬉しそうに頬張って「ひやい!」と笑っている。
ひやいは、土佐弁で冷たいって意味ですよ。と子供を見つめている要に静が教えてくれた。
照り返しの凄い暑さの中で彼らは気持ちよさそうにアイスクリンで涼をとっていた。
しかもすごく美味しそうに。
喉を鳴らした要は親子の横を通って、急いで店内に足を入り込んだ。
入ってみると、すぐ横にアイスクリンと大きく書かれた箱が置いてある。
箱の上には専用の小さな台にコーンが何個か置いてあった。
多分、お昼間はお客さんが多いのでスタンバイしているのだろう。
要はお品書きを見て驚いた。
なんと9種類もあったのだ。
「ええ!?どれにしよう!多すぎるよ!」
「ふふ、まずはバニラは外せませんね。」
「バニラ?」
「ええ、でも本当はバナナ味なんですけどバニラです。」
「???」
「美味しいので、まずはこれを。」
静の言葉を信じて、要はバニラとソーダの2段重ねにした。
お店の人がニコニコと笑いながら「どっちが下がえい?」と聞いてくれたので「じゃあ、ソーダが下で!」と答えた。
多分店員さんから見た要は、先程いた小学生と同じように見えているのだろう。
手慣れた手つきでディッシャーを使いアイスクリンを掬うと、薄い綺麗な水色のアイスがコーンの上に乗せられた。
カチャカチャという軽い音を立てながら、その上にさらに白いアイスクリンが重ねられる。
はい、どうぞ。とアイスクリンを差し出してくれたお店の人にお礼を言って、要はすぐさまアイスクリンを口にした。
そしてカッと目を見開いた。
「美味しい!!」
口の中で優しい甘さが雪の様にほろほろと消えていく。
気づけば、あっという間に一段目が消えていた。
ソーダ味もこれまたあっさりしていて美味しい。
「これ、3段でも食べられますね。」
「巽なんて、子供の頃6段食べるんだって言ってお店の方に盛ってもらいましたよ。」
「6段!?」
声を出して驚く要に、お店の人がディッシャーをカチャカチャしながら「できるよ、食べるかえ?」と笑っている。
静も自分の分のアイスクリンを笑いながら受け取ると、お礼を言ってお店の扉の方へと向かった。
要も続けてお礼を言ってから店を出れば、外は炎天下の中だ。
こりゃ、6段いけるかもなと要は心の内で思った。
「味も変えれるので、いくらでもオリジナルのアイスクリンがつくれますね。」
「すごいな巽くん。」
「子供の頃は素直な子だったんですけど。今じゃ反抗期のせいからかとても扱いにくくて…。」
要は心の中で「存じ上げております。」と小さく呟いた。
「要様にもお気を使わせてすみません…。」
「いえいえ、ハハハ。」
なんと言って返せばいいか分からず、食べきって空になったコーンを眺める。
不安な気持ちを振り切るように、頭を数回振ると要は勢いよくコーンに齧り付く。
サクサクと口の中で噛みしめながら、少し物足りなさを感じた要は「やっぱり三段にすれば良かったな」と思った。
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「で、では行ってきます。」
アイロンのきいたセーラー服に身を包んだ要は、見るからに緊張していた。
なんか動きもぎこちない。
時間があれば忘れ物がないかとカバンの中を見たり、変な所が無いかと鏡を覗きこむのを何回も繰り返している。
だが、要よりも緊張しているのは静だった。
オロオロと要の傍に来ては「体調は大丈夫ですか?」「お弁当が苦手でしたら食堂もありますからね。」とか昨夜からずっと心配してくれていた。
今もローファーを履く要に声をかけている。
「要様、本当に送迎がなくて大丈夫ですか?私のことだったら気にしないでくださいね!いつだって車を出すことはできるんですから!」
「だ、大丈夫!です!あの、体は問題ないし、それに、その…通学って憧れてたんです。」
多分、静は要の体のことを思い提案しているのだろが、要は電車で通学すると言う普通の学生生活にずっと憧れていたのだ。
入院するベッドの中で、テレビに映る街角の流行り特集を見て、同い年の子達が楽しそうに学校帰りに買い食いしたりしてるのを見たことがあった。
― 私も、学校の友達とああやって帰りたいな。
― 朝も駅で待ち合わせしたりしたり、昨日見たテレビの内容とか話したいな。
人から見ればなんでもない日常がとても眩しく見えていたことを、要は制服を着てようやく思い出したのだ。
これは、自分の人生の大事な再出発だ。
送迎付きの学生なんてそうそういないだろう。
― 私は普通の女子高生!
― ここまできたら学校では思いっきり今までの分も学生生活を楽しまないと!
ふんっ!ふんっ!と息巻く要を見て、静は要の過去を察した。
ここは自分が口を挟むところでは無いかと思い、小さく頷く。
「そ、そうですね!では今日は学校まで一緒に汽車で行きましょう。私も、もう一度挨拶などありますし。」
「はい!」
― ん?汽車?今、汽車って言った?
要の頭の中に「?」を残したまま、静と一緒に駅まで歩いていく。
不思議だ…昨日まで見ていた景色がなんとなく光り輝いて見えた。
アイスクリンのソーダと同じ色をしたセーラー服の襟が軽やかにはためくのを感じながら要の足取りは早まっていった。
2人が乗ったのは2両編成のJR線の電車だった。
高知の人は電車のことを汽車って言うんだな…と要は走行する窓の景色を見ながらそんなことを思っていた。
電車は高校の最寄り駅に到着し、要達と一緒に多くの学生が電車から降りていく。
小さな改札を皆んながきちんと列になって並んでいるのを要は後方で見ていた。
学生達が改札の女性に定期を見せていく中、要は静と一緒に行きの駅で買った切符を差し出した。
改札の女性はそれを素早く回収するので急いで駅を出ることにした。
ホームからも見えたが駅を出るとすぐに、線路を跨ぐように緑の柵で囲われた跨線橋があり、要も他の学生達と一緒にコンクリートの階段を登っていく。
跨線橋を降りて通学路を歩いていけば、少し急なカーブのある坂を上がっていく。
要だけでなく静にとっても中々の運動量である。
慣れてない二人は少し息を整えてから、玄関をくぐることにした。
まずは二人で職員室へと向かう。
「すみません、失礼します。」と声をかければ、夏休みの間にも紹介された自分の担任の先生と、教頭先生がすぐに自分達を迎えてくれた。
要の担任の先生は30代の若手の男性教諭だった。
要と軽い挨拶を交わすと爽やかな笑顔で「じゃあ、教室に行こうか。」と教材を片手に職員室の出入り口へと歩みを向ける。
要が不意に静の方に目を向ければ、まだ教頭先生と話があるのだろうか職員室から出て行こうとする気配がない。
不思議に思っていると静が要の手を両手で包み込んでぎゅっと握りしめてくる。
何事かと驚く要に対し、静は真剣な眼差しで要にこう言った。
「では、要様。何かあればいつでも連絡くださいね!帰りの方も大丈夫ですか!?」
「え?だ、大丈夫ですよ!静さん。」
いやいや、子供じゃないんだから…と声に出そうになるのを我慢した。
確かに今日が学生生活初日ではあるが、一人で電車…いや汽車だって乗れるし、授業ぐらい大人しく受けれますよ。
要は自分の事を真剣に心配してくる静に困惑を隠せない。
― あ…扱いが小学生のようだ。
いや、でも…と思った。
― もしかして、こんなに心配するのは私が人神だから?
要は職員室を出る時、もう静の方へと振り返れなかった。
なんとなく暗い気持ちのまま担任の後をついて教室まで歩いていく。
要はぼんやりと自分の足元、履いている赤いゴム製のスリッパだけを見つめていた。
― スリッパが上履きって変な学校…。
要がぼんやりそんなことを考えていると、いつの間にか自分の教室に到着したみたいだ。
担任教師と一緒に教室に入れば騒がしかった教室の雑音が静かになり、教室にいた生徒達の視線が一気に要へと向けられたのが分かった。
― う゛、な、なんか怖い…。
大人しそうな子、派手そうな子、目つきの悪そうな人、こちらの事など関心の無さそうな人。
要は気付かぬうちに多くの視線から追い詰められている気分だった。
そんな彼女の心境など気づかずに担任は嬉しそうに声を上げた。
「今日は転校生を紹介します。じゃあ、自己紹介どうぞ!」
「う…上盛要です。よろしくお願いします。」
要が頭を軽く下げると、控えめな…とういうか疎な拍手が起こった。
要の心には不安なのか緊張なのかドギマギと変な焦りが生まれていた。
顔を上げても目の前の生徒すら見ることも出来ず、要は必死で教室の奥の方へと視線を泳がせるしかなかった。
「では、上盛さんは窓側の真ん中の席に行って下さい。」
「は、はい。」
担任の声を聞いて要は自分の席を確認すると、一目散に机の方へと小走りに走っていく。
― ぬわ〜!公開処刑終了〜!!退避退避せよ!!
これにて一大イベント終了、ミッションコンプリートお疲れ自分。と思っていた時だった。
「あ、あと皆〜、上盛さんは激しい運動ができないので気をつけるように!」
― え?
一瞬効きか間違いかと思って、要は足を止めて担任の方へと振り返る。
「あ、あの、私。」
「ん?お家の方からちゃんと聞いてるよ。体育の授業も相談していこうね。」
「そ、そんな」
お家の人と言われて真っ先に思い浮かんだのは、職員室に残った静の存在だった。
いつからそんな話をしていたのだろうか…要には寝耳に水だ。
しかし、どう考えても要が知らないうちに学校側にそんな話ができたのは静だけだ。
― 大事な事なのに…、私の事なのになんで知らされてないの?
「?どうしたの?具合悪い?」
「!いえ、なんでもありません。」
要の背中に、嫌な汗が落ちる。
心中はずっと「聞いてない、知らない」を繰り返している。
なんとか自分の席に座った要の耳に聞こえたのは、あの日高知の病室で久我正規から言われた言葉だった。
『 私共の願いは、要様が健やかにこの守り地でお過ごし頂きたいだけです。 』
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