不穏な気配を出すんじゃないよ!
もうなんで私の周りの男は不穏な空気しか出さないわけ!?
恨みでもあるならどーんと出て来なさいよ…って、あなたは、まさか、まさかの
トップ・オブ・ザ・ニッポン!?
― とある建物の一室での会話 ―
中年男性が二人、会議室のような部屋でひっそりと会話をしている。
刈り上げられた短髪の男性が携帯電話片手に神妙な面持ちで見つめているのは、とある資料だった。
そこには要の姿と、病院内に出入りしている要の家族の姿が資料写真として載っていた。
もう一人の男性は、奥で電話を取っていたようだ。
切り終えたのか資料片手に視線を向けた男に「護送班からの連絡がありました。」と近づいてくる。
「…で、人神様の様子はどうだ?」
「はい、機体が四国上空に入ってから呼吸、脈拍共に安定した模様です。」
「そうか、こちらも気象庁から連絡があった。四国の一部地域が一時は最大震度4を観測したものの、そこからは3度以下の余震を繰り返しながら、今は測量計にも反応がないそうだ。」
「それはやはり、人神様の影響と見て…」
「十中八九そうだろうな…。」
「凄いですね。人神の力は…」
「全くだ。これほどの影響力があるとは。なんだってこんな曰く付きの神が存在するのか…」
「…それ、禁句ですよ。」
眉間に皺を寄せながら放たれた言葉に対して、苦言を言うかのように返されたそれに、男はまた小さく舌打ちを返したのだった。
「チっ、どれだけの人間が振り回されてるか分かってんのかね、人神様ってのは。」
男の隠す気の無い不機嫌そうな顔が、壁際の大きな窓ガラスにくっきりと映っていた。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
要が李人と別れて初めて見た景色は、とても見慣れたものだった。
うっすらと目覚めた要の視界に写ったのは白い天井と、やや明るさを抑えたような蛍光灯。
そして独特な仕切りを作るような湾曲したステンレスのレーン…きっと端には薄手のカーテンが束になっているだろう。
そう、ここは病室だったのだ。
「…ここ、病院!?」
急いで起き上がる要の目に見えたのは、自分の腕に投与されている点滴の管と、自身にかけられた無地な病院用の布団。
部屋の感じから見ても病院の一室に違いなかった。
まさか、李人とのことは全部夢だったのだろうか…と一瞬考えが過った要だったが、しかし今まで入院していた所とは明らかに違う所が一点あった。
大きな窓から見えたのが、広大な緑が生い茂る山々が連なっている景色だったのだ。
「違う。…ここ、東京じゃないよね?…一体、どこなの、ここ…。」
なぜ、自分はこんなところにいるのか?
そもそもここは、本当に病院なのだろうか?
また自分の意識がないうちに、誰かによって知らない場所に連れて来られた現実に要は頭が痛くなりそうだった。
どうして、自分がこんな目に合わなければ、ならないのだろうか?
どうして、家族は誰も自分の傍にいてくれないのだろうか…。
不安から涙が込み上げそうになる要の耳に、この部屋のドアがノックされる音が聞こえた。
本当だったら警戒する所なのに、慣れた病室の雰囲気だったせいか、要は咄嗟にそれに返事をした。
「あ。は、はいっ!」
返事をしてしまってからでは後悔は遅いが…要には朗報で、部屋に入ってきたのは医師と看護師の様だった。
彼らは要の顔を見るや、嬉しそうに声をあげて近寄ってくる。
「おお、目が覚めましたかな」
「あ、はい。あの、私一体、どうしてここに…、た、確か狼島神社に…、いえ!あの、都内の病院で入院してた筈なんです!」
「落ち着いてください。要さん。今、人を呼びますので。説明はそれからで、その前に脈など見せてください。」
「…は、はい。」
医者らしい言葉を掛けられ、つい怯んでしまった要は、これまでの経験の流れで素直に腕を差し出すことになった。
この60代位の男性の医師は慣れた手つきで要の腕をそっと取ると、手首に手をやり脈を計っていた。
先程一緒に入ってきた看護婦も医師と共に血圧や呼吸を測量すると、そっと会釈をしてから要たちのいる部屋から出ていった。
医者は最後に、要の口の中(正確には喉)を見てから、顔を上げるとニコリとこちらを見てきた。
「…はい、異常はないようですね。もう楽にしてくださって大丈夫ですよ。」
「ありがとうございます。」
幼い頃からの診察の流れで慣れていたのか、要は変に緊張せずに素直に頭を下げれた。
本当だったら「わたし、東京の病院で死にかけてたんですけどね!でも起きたらなんとヤンキーと一緒に有名な神社にいたんですよ!で、今ココ!どうしてだと思います!?」と目の前の医者に問い詰めたかったのだが、きっと次目覚めた時には心療科にぶち込まれているかもしれない…。
この人になんと言って伝えたら、私は頭相当ヤバい子にならずに済むのか…と要が頭を捻っていると、先程部屋から出ていった看護師が軽いノックと共に戻ってきた。
「失礼します。先生、到着されました。」
「ああ、こちらは大丈夫だ。お通してください。」
「はい。」
― 到着?
― 誰のこと?
―もしかして、おとうさん…?
要にひとすじの希望の光が見えた。
バっと勢いよく扉の方へと視線を送ると、紺色のスーツ姿の男性が現れた。
「…え、…?」
「初めまして、人神…要様。私は久我正規と申します。」
要は、目を疑った。
部屋に入って来たのが、父親ではなく
「な、内閣総理大臣!?」
そう、国のトップが入って来たのだった。
要の目はもう、目の前の久我に釘付けだった。
― え?は?なんで、内閣総理大臣!?
―ほ、本物!?本当に本物ですか!?
―あ…なるほど、分かった!これ、あれですねドッキリですね!?ですね!?
―なんか私を知らない所に移動させて、詮索されない様にヤンキー使って脅したり、で、ソックリさんまで連れてきて反応を見てるんだ!どう!?これが正解でしょーが!!
「私の事をご存知のようなので…、この国の代表として人神様にお願いしたき儀がございます。」
「は?え、あの」
要の脳内討論会を開催中に気づくことなく、久我は要にしっとりと頭を垂れた。
勿論、急に頭を下げられた要は驚いた。
「え、今、お願いって言った?」っとまだ脳内で自問自答している。
「しかし、その前に。人神様におかれましては…この度、無事に守り地へと戻られましたこと、心よりお喜び申し上げます。」
「はぁ…、どうも。あ!いえ、あの、私は…」
―いや、私は元の病院に帰りたいんだってば!!
久我が頭を下げると、どうしても連動して自分の頭を下げてしまう要。
いや、頭下げてる場合じゃないからぁ!と自身に叱咤している要に久我は言葉を続けた。
それは要が理解できない言葉だった。
「…長らく、この四国の地に人神様がご不在だったこと。
また要様のご体調の事も含め、近年四国は災害が多い地域でありました。
特に、ここ数日の揺れの大きさを感じ、私共要様のお身体のことを大変心配しておりました。」
「・・・な、なんで、私の体調が、地震とか…災害となんの関係があるんですか?」
―それじゃあ、まるで私のせいで災害が起こっているみたいじゃない…。
要はいつも不思議に思っていたことがあった。
幼い頃より要が入院するために用意された部屋が個室だったことだ。
要の家は決して裕福な家庭ではなかったのに、父は頑なに個室を譲らなかったそうだ。
そのせいで、母もいくつものパートを掛け持って働かなければならなかった。
そうなればおのずと要が1人でいる時間が増えた。
大部屋だったなら、他の子供たちと話をすること位できただろうに…。
自分のために忙しく働く両親に玩具や本を買ってとも言いづらかった。
ただ、個室には大き目のテレビが置かれていたので、要はよくテレビを見るようになった。
だからか、自分が朝から体調が悪くなったり、発作が起きて呼吸が苦しくなると、テレビから緊急速報の音が聞こえる事にも気づいていた。
だが、そんなことは単なる偶然でしかない。
そう、ずっと思っていた。
私の…、私のこの身体が、いったいこの国となんの関係があるというのだ?
久我は要の問いに、静かに…こう答えた。
「要様は、人神様で有らせられますので。」
「それっ!その人神様って言うのはなんなんですか!?私、意味が、」
「言うなれば、この国の命綱みたいなものでしょうか。」
「命…づな」
― 何をいってるの?私が、この国の命綱って…?
要が信じられないような目で見つめていたが、久我は気にすることも無く淡々と言葉を続けていく。
「この国を七つに分けた土地に住まう神。そしてその神はなぜか我ら人間から生まれてくるのです。
彼らはその身を自分の守り地と繋げ、大きく影響をあたえるもの。」
「彼ら…」
「要様を含め、この国には7人の人神様がいらっしゃいます。」
「え、」
自分や李人の他に、まだこの国には人神という存在がいるのか!?
驚きを隠せない要の前で久我はまた、静かに頭を垂れた。
「…要様、どうか健やかにこの守り地でお過ごしくださいませ。」
「何を、」
―やめて、なぜ、私に頭を下げるの?
―ねえ、どうして、私ここにいいるの?
―ねえ、なんで…私、人神なんて、ものに…
「要様の存在が、この日の本の命運を…国民の命を握っているのです。」
久我の重い言葉が耳に入るたび、自分の呼吸が浅くなるのをどこか他人事のように要は感じていた。
でも、自分が上手く声を出せないのはそのせいなのだと嫌でも感じてしまう。
「はっ、あの、意味が、まだ、ちゃんと」
― 待って、私、まだ、ちゃんと、
― なにも、なにも、理解できてない!!
苦しい呼吸のせいか、はたまた焦燥感に迫られたせいなのか、要の目尻にうっすらと涙が滲んだ。
久我から見ても、要はただの…どこにでもいる16歳の女の子の様だった。
久我のまるで憐れむ様な瞳が、小さな要の姿を映した。
「本当に…何も、ご存知なかったのですね。」
「…っ、それは」
何も知らない。
自分のことなのに…
何も聞かされていない…己がなにであるのかを…
静かに自分の非を責められている感覚に、要は自分の指先が急激に冷え切っていくことに気づいた。
この空間から逃げることのできない要は、ぎゅっとシーツの端を握り締めることしか出来ない。
項垂れる要の記憶には、病室に閉じ込められている自分の姿が走馬灯のように流れていた。
久我は、俯いていく要に声をかける。
「私達も要様の存在を探してはいたのですが、まさか都内にいたとは…」
「あの、私、」
― 家族に、会わせてください。
― 家族から、ちゃんと話を聞きたいんです。
そう、要が口を開く前に…久我は言った。
「しかし、ご安心ください。
先程も申し上げましたが、ここは要様の守り地でございます。
もうご体調が崩れる心配はございません。」
「いえ、そうじゃなくて」
「健やかにお過ごしいただくために、まずは今後のお住まいの方に移動していただきます。」
「住まい?今後って…、」
―もしかして、わたし、帰れないの?皆の所に…
「はい、要様の父方の実家が高知県ということで…今現在、要様には高知県に移動していただきました。」
「!やっぱりここは、高知県なんだ…。」
窓から見えた景色と、李人の言葉でここが東京でない事は薄々分かってはいたのだが、それは要にとってとても大きな孤独感となってしまった。
「お母様のご実家も愛媛県ということですので、そちらの方にも移動できます。
が、幼い頃よりの縁が深いものの土地が良いだろうということで、今回は高知神社の宮司にもきていただいております。」
「え、」
よく見れば、扉の近くに袴姿の人物が見えた。
その人は李人の義父同様に白い差袴を着ていた。
自分の事を見つめる瞳は優しそうで、目が合うとそっと会釈をしてくれる。
要も思わず、無意識のうちに会釈を返していた。
久我は、要たちのやり取りを見ると、少しだけ頬を緩めたようだ。
「要様におかれましては、まずは高知神社にてお過ごしください。また落ち着きましたら守り地内を移動していただいても大丈夫です。」
「え、移動…」
移動と言う言葉に、とっさに反応した要に久我はすぐに杭を打ち込んだ。
「ただ、くれぐれも守り地の外へはお出になさらぬように。…お体に障りが出ますので。」
「障り…」
それは、要の体調を危惧する言葉。
久我の言う事が本当ならば、要は決まられた場所以外では生きていけず。
そして…それを無為に破れば、要のせいでまたこの地に災いが起こってしまうという事。
「要様、私共の願いは、要様が健やかにこの守り地でお過ごし頂きたいだけです。
どうぞ、我々日の本に住まう国民のことを忘れないでください。」
「…、そんな。」
― じゃあ、わたしは、ずっと、このまま、
― このまま、1人で、
― 1人ぼっちで…死んで…いく?
「要様の障りは、我々への災いとなって返ってまいります。」
「どうか、どうか、お頼み申し上げます。」
「では、要様。手続きが済んだようなのでまいりましょうか。どうぞ足元に気をつけてくださいませ。」
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要は、自分がどうやって高知神社までたどり着いたのか覚えていなかった。
断片的に車の窓からは、高知の街の風景や、どこを見ても映り込む高い山々、そしていつしか大きな楼門が見えていた。
それはこの高知神社の参道の入り口にあたるもので、要を乗せた車は楼門の横の道路を通り奥へと進んでいく。
宮司の人に言われるがまま、要は車を降りて拝殿の正面まで歩いた。
塞ぎ込んでいた要は、息を呑んだ。
なんと大きい神社だろう―と、気づけば顔を上にあげてその左右に大きな拝殿をとらえようと瞳を瞬かせていた。
「大きい…、」
要がそう、小さく零した時だった。
病院からずっと要の傍に寄り添ってくれていた宮司の男性が要の正面へと立ち直り、そっと頭を垂れてたのだ。
要はそれを静かに見つめていた。
彼の隣にはいつしか一人の女性が立っていた。
彼女は白いブラウスに長めスカート姿の上から白い割烹着を着ていた。
誰?と言う前に、頭を上げた宮司と目が合う。
彼は要に優しくこう言った。
「要様…、ようこそ我が高知神社においでくださいました。
先程も申し上げましたが私、この高知神社で宮司を務めております神森清舟と申します。こちらは妻の静です。」
要が静かの方へと目をやると、彼女はバッと勢いよく頭を下げた。
彼女の肩が震えているように見えた要は、静が頭を上げて驚いた。
静の目にうっすらと涙が浮かんでいたのだ。
「え…、」
驚いてなんと言葉を掛けて良いか分からず戸惑う要に、静は感極まった様に声を出した。
「要様、お会いできて嬉しいです。この日を…どんなに待ち望んでていたことか…」
「え、ぁ、はい…。」
―ありがとうございます…は変なのか…な?
静たちの態度と、自分の反応の食い違いに要は大いに戸惑う。
自分がこんな時に何と言って良いのか、どんな態度でいれば良いのか全く分からず、要は病院で着替えさせられた真新しいワンピースの端をぎゅっと握った。
その時だった―、
「ただいま」
3人の空間に、若い青年の声が入って来たのだ。
要が声の方向に顔を向けると、そこには自転車を押しながらこちらに向かってくる学生服の男の子が見えた。
自分と年が近い存在が現れて要はホッとしたのだが、青年は要を見るとその歩みを止めてしまった。
心なしか、こちらを見る視線が冷たいように見える。
「あの、あの人は?」
「ああ、ちょうどよかった。こちら息子の巽です。まだまだ若輩者ですが、どうぞよろしくお願いします。」
「はい…。」
清舟から紹介された巽は地元の高校に通う学生の様で、どうやら帰宅時間に重なったようだった。
巽はまだ要の方をじっと見つめるだけで、その場から動こうともしない。
巽の突き刺すような視線に要は思わず自分の顔を下に向けると、小さく舌打ちの様なものが聞こえた。
聞き間違いかと要が視線をあげようとした時だった、動かない息子にしびれを切らしたように清舟から少し大き目な声が上がる。
「巽。お前もこっちへ来て、ちゃんと要様に挨拶なさい。」
清舟からのその言葉を聞くや否や、巽はあからさまに眉間に皺を寄せると要に向かって声を上げた。
「要様…?あんたが、人神って奴なのか?」
「これ!巽、人神様になんて口の利き方を!」
巽の不躾な言葉に、要の隣にいた静は顔色を変えて巽を咎めるように叱ったのだが、彼にそれは逆効果だったようだ。
巽はおさえていた自転車を投げ捨てる様に手を離すと、こちらに向かってズンズンと怒りを露に歩み寄ってきた。
要は李人とはまた違う巽と言う怖い存在に、その場から動くことが出来なかった。
もう、巽の荒い息がそこまで聞こえた時だった。
「うっせ!こいつのせいでうちがどんだけ迷惑かけられたと思ってんだよ!お前のせいでな…」
「巽っ!!!」
パンっ―!!と頬を打つ乾いた音が、境内の中で反響した。
「っ!?」
咄嗟に要の前に立ちはだかった清舟が、己の息子に手を掛けたのだ。
頬を打たれた巽は勿論、目の前にいる要は喉が張り付く思いだった。
「あ、あ、」
叩かれていない筈の要の方が狼狽え変な声を出してしまうのは、あまりに場違いではあったが、要はこの不穏な親子の空気を何とかしたかったのだ。
だがなぜ巽が自分自身に怒っているのかも理解できず、何と声をかければ正解なのかも分からずに…唯おろおろと両方の顔色を伺うだけになってしまった。
そんな所在なさげな要を見て、巽はまた舌打ちをかますと吐き捨てる様にこう言った。
「ちっ!お前の顔なんて見たくもねえ!とっとと、ここから出ていけ!」
―いや、滞在時間3分でっせ。
要がそんな返しをする間もなく、巽は自宅の建物がある方向へと足早に去って行ってしまった。
清舟はまた巽に諫める様に声をかけたが、結局巽がこちらを振り返ることは無かった。
茫然と立ち尽くす要に、清舟と静は申し訳ない様に頭を下げた。
「すみません、要様!!」
「うちの愚息がとんだ失礼を…。その、反抗期のようなものでして…。難しい年頃の子を持つと親としては苦労します。」
頭を下げる2人よりも、あの巽の自分を見る目は異常だった。
どう見ても昨日今日での恨みではないような怒り具合。
要はどうしても訳が知りたかった。
「あの、私、何かご迷惑を?」
「そんなそんな!要様が気にするようなことではありません!」
「でも、」
「愚息のことはお気になさらず!ささっ、要様のお部屋をご案内させてください。」
まるで気を取り直す様に、清舟と要との間に静が手を叩いて入って来た。
ずっとその場で立っているのも確かに迷惑かと、要も小さく頷くことにしたが、その足取りは重いものとなった。
連れて来られたのは、拝殿よりも奥の方。
小さくではあるが鮮やかな朱色の柱と白い漆喰の壁で出来た美しい建物が立っていた。
それは、入り口の所に庇が大きく置かれた春日造りの建物だった。
「こちらが要様のお部屋にございます。」
「ここって…」
てっきり静達が暮らす家の一室を宛がわれるものだと思っていた要は驚いた顔を隠さないまま口を開けた。
そんな要を見て、静は嬉しそうに頷くと要に向かってとびきりの笑顔を見せた。
「はい、本堂の隣になります。」
「いや!いやいや、そんな神聖な場所!私なんかが入って良いところでは」
「何をおっしゃいます。要様は人神様ですよ。」
さも当然の様に静は要にそう言うと、重い木製の扉を開けた。
中に入ると4畳ほどの小さな空間があり、そしてすぐ奥に障子が4枚立てつけられていた。
静がそこを膝を着いて開けると、そこには机や、布団、桐の箪笥など生活感のある空間が広がっていた。
どれも派手ではないが装飾に拘った一級品だったのだが、まだ16歳の要には分かるはずもなく。
それよりも要は、ずっと自分の中で引っかかっていることを静かに零した。
「私、その、まだその人神っていうのを理解できなくて……。」
「左様でしたか。・・・しかし、それも致し方ないことかもしれません。」
「え?」
要が静の方に視線をやると、静はそっと障子を閉めて部屋の中央に置かれた二人掛けのテーブルに置かれた椅子に座る様にと促した。
テーブルとイスだと外観とあまりそぐわない様イメージであったが、正座は流石にキツイと思っていた要にはありがたい物だった。
要が座ったのを見て、静もテーブルを挟んで正面に座ると優しく要に尋ねてきた。
「要様。この国には7人の人神様がいらっしゃることはご存知ですか?」
「あ、はい、それは聴きました。」
「確か、東の守り地を担う李人様にはもうお会いしたと聴きましたが…」
「はい。李人…さんも人神なんですよね?」
あの一見ヤンキーにしか見えない男も、要と同じ人神だといっていた。
自分でもまだ理解はできていないが、確かに李人も神社で暮らしていたなと要は頭の片隅で思い返していた。
静は要の質問に頷くと、言葉を続けた。
「左様です。
李人様をはじめ、人神様は幼い頃から最も神気の強い土地、主に神社なのが多いのですが…人神様の縁のある土地でお住まい頂いて、そこでご自身のことを知って育っていきます。
本来であれば、要様のお住まいもこちらの方でお預かりさせていただき、人神様としてお過ごし頂く予定でした。
しかし、要様の存在は今日まで行方知らず。私達も方々探し、またその他の人神様、特に要様のお体が東にあると解ってからは李人様にもご尽力頂きました。」
< 俺はな、要。お前をずっと探してたんだ。 >
「ぁ、」
李人の声が、凄く近くで聞こえたような気がして…要はつい声が漏れた。
なぜだろう…要は無性に李人に会いたくなった。
それ程に、彼のあの時の瞳は美しかったのだ。
「要様・・・人神様の歴史は大変古く、しかし今となっては混乱を避けるために多くの民は人神さまの存在を知らないでしょう。
知っていてもお伽噺の様な存在にしか受け止めていないと思いますが。
しかし代々受け継がれてきた伝記など、奥深い地域では今も尚その土地々での人神信仰が根付いております。
その中には正しく伝わっているものもあれば、謂れのないもの、さらには尾鰭がついて回ってしまったものもございます。」
静の言葉に咄嗟に浮かんだのは、祖母の顔だった。
『・・・選ばれる事が、ほんまに幸せなことかは分からんきね。』
―おばあちゃんは、私が人神様になることを良い事だとは思っていなかった…。
―と、いうことは…お父さんも?
―だから、わたしを…東京へ?
「…ご家族が何を思い、要様を守り地から隠されてしまったのか分かりませんが…。
御身を思えば、それはあまりにも酷な選択だったと思います。
実際、要様のお身体は守り地を離れてしまったがために、危険にさらされてしまったわけですから。」
要の中には、家族で山に登った記憶があった。
それほど高知にいた幼い頃の要は健康だったのだ。
それなのに東京に引っ越して、すぐ風邪を引くようになった。
どんどん身体から力が抜けるような感覚に襲われて、10代に入ると入退院を繰り返し、最後は歩けなくなってしまった。
命の源から、ゆっくりとなにかが零れていくような…、そんな感覚に今更になって要は背筋が凍った。
「要様の…命の鼓動が揺らぐたびに、この四国の地は揺れ、嵐をよび、様々な災害をも味わいました。」
「・・・私のせい」
「いいえ、これは人神様の定めなのです。そして要様はそのことを知ることができないままお育ちしてしまった。ただ、それだけです。」
「それ、だけ…。」
“それだけ”で済む様な話なのだろうか?
私はとんでもないことをしていたのではないか?
話が、事の顛末が、大きすぎて、飲み込めない。
怖い…とても、こわい、大きなものに押さえつけられているかのような感覚。
気づけば、要の小さく浅い息が部屋の中に響いていた。
静はそんな要を見て「大丈夫です!」と声を上げた。
「これから要様は少しづつ、人神様の…ご自身のことを学んで頂ければと思っておりますので。」
「でも、でも、私は、」
―そんな覚悟が、・・・まだ無い!
そう、叫びたかった。
できることなら誰かに代わってもらいたい。
だれか…だれか、助けて…
分かんないことだらけで苦しいよ!
お母さん!
お母さん、助けて!!
お父さん!どうして迎えにきてくれないの!!?
わたし、わたし、生きているのに!!!
「要様の身が狼島神社へとお渡りされた時点で、ご家族の方には混乱を避けるためちゃんと国の方から連絡が届いていたようです。
そしてこちらでの生活の旨をお伝えしたところ…本日、要様のお荷物が届きました。」
「え」
要の目の前が一瞬、真っ暗になった。
眩暈でもしたのかと、要は自分の手で目元抑えた。
その手は怖い程震えている。
気持ち悪い感覚に、吐きそうになる。
だがそれに反するように、静の明るい声が部屋の中で反響した。
「お洋服は、これからも増えていくでしょう!
でも教材はこちらでの購入を伝えてありましたので、全てそちらの机の上に揃えております。
要様はいずれ、学校にも通われると思いまして。」
「がっこう…、」
ただ、静香の言葉に反芻すように声を出しただけだ。
意味など理解していなかった。
でも、静は要が反応してくれたことが嬉しかったようだ。
「はい!ただ…その、慣れない土地でのことですので、巽と同じ高校を選ばせていただきました。」
「はぁ、」
「先ほどのような粗相がないように、きつく言っておきますので!どうぞご容赦くださいませ。」
バッとその場で頭を下げるのを見て、やっと要は意識が戻った。
椅子から立ち上がると慌てて静の肩へと手をやる。
「あの、いえ、そんな…!あの、かお!顔を上げて下さい!」
自分の母親と同じくらいの人に頭を下げさせることの気まずさに、要はさらに心が沈んでいく。
よく考えれば、言われもない人物から出会い頭に罵倒されたことは怒ってもおかしくない事なのだが。
「すみません、多分、まだあの子の中で整理がつかないんだと思います。」
「…ぁ、…。」
どうして、こう言って頭を下げているのが…自分の母親ではないのだろうか…。
また、要の目の前がゆっくりと暗くなっていった。
静には移動で疲れたから、今日はもう眠りにつきたいと伝えた要は布団の中にいた。
本当に疲れていたから嘘じゃない。
でも、なんだろう…変な罪悪感だけが残っている。
それは自分がまだ人神として受け入れていないからなのだろう。
受け入れられる…訳が無い。
―どうして、どうして、こんなことになったの?
ずっと、頭の中でこの言葉だけが回り続けていた。
「・・・こっちも全然、整理できておりませーん。…なーんて、…ははは…、はは、」
真っ暗な部屋の中。
まるで閉じ込められたかのような感覚になる。
逃げ出したい。
戻りたい。
苦しくても…家族に会える、あの病室が要は堪らなく恋しかった。
そっと布団から起き上がると、机の横に置かれたダンボールが見えた。
段ボールの隅に本と書かれていた字は、間違いなく母の筆跡だった。
「なんで…?私、もう、家族じゃないの?・・・もう、帰れないの?」
要の冷たい泣き声だけが部屋に響いていた。