第3話
「久しぶり、春花ちゃん」
兄と同じ高校の制服を身にまとった恭平は、少し困ったような表情で笑った。春花は目を見開いたまま、一歩後ずさった。
「男装?」
「え? いや、僕、男だから」
「女装してない恭平先輩……怖い」
突然目の前に現れた恭平に、どう接したらいいか見当もつかず、春花は混乱したまま呟いた。その言葉を聞いた恭平が驚いたように目を瞠る。
春花自身も自分の言葉に驚いた。女装していないと怖いだなんて、とんでもなく失礼なことを言った。もう意味が分からない。
逃げるが勝ち、とばかりに春花は駆け出した。これ以上、恭平の前で失言をかます訳にはいかない。
急に走り出した春花を呆然と恭平は見ていたが、はっと気付いたように追いかけ始めた。逃げる春花と追う恭平。その追いかけっこは、結局春花の家に到着するまで続いた。
「ご苦労、春花。恭平、あがっていけ」
玄関の前で待っていた兄・幸太は、息の上がった二人に声をかけてきた。余裕のある表情をした兄を、春花は睨む。そんな春花から牛乳とはちみつの入った袋を取り上げて、幸太は玄関のドアを開けた。
「ほら、恭平。ご希望通りはちみつミルクを飲ませてやるよ」
「兄ちゃん? ……どういうこと?」
「恭平は今、落ち込んでるんだよな? それも、恋愛絡みで」
春花の疑問に幸太がニヤニヤしながら答える。恭平が悔しそうに目を逸らした姿を見て、春花の心がズキンと痛んだ。恭平が恋愛絡みで悩んでいる、というのは本当のことなのだろう。
春花は無言で家に入った。自室へ向かう途中、階段の段差に躓いて転びそうになる。強かに打ち付けたつま先がジンジンと痛む。
涙が出そうなのは、きっとこのつま先の痛みのせい。
つま先に手を触れて、痛みを紛らわせた。この程度の痛みなら、きっとすぐに引いてしまう。春花は立ち上がり自室に逃げ込んだ。
「春花」
部屋に入ってすぐ、兄の声がドア越しに聞こえてきた。
「恭平のことが好きなら、告白でもすれば? 今なら間に合うかも」
「……別に、好きじゃないし」
「お前な。最近、牛乳とはちみつの消費量やばいぞ。母さんに俺が飲み干してるって勘違いされて迷惑してるんだ。もう好きじゃなくてもいいから、さっさと告白しろ。そして、振られろ」
正直意味が分からない理論である。好きでもないのに告白して、そして振られるなんて、誰がやりたがるというのだろう。だが、兄は淡々と言葉を続ける。
「これは最後のチャンスだ。もう俺はこの家に恭平は呼ばない。もう二度と顔を合わせることもないんだから、言いたいことは言っておけ」
もう二度と、顔を合わせることもない。その言葉が春花の心に突き刺さる。このまま、何も言わないままで、本当に良いのだろうか。
初めて会った時、ピンクのワンピースが似合うのがうらやましいと思った。
からかう兄の言葉から守ってくれて、すごく嬉しかった。
髪を優しく撫でられて、ドキドキして熱かった。
眩しいくらいの微笑みと、甘すぎる言葉を向けられるたび、心の中に温かいものが少しずつ降り積もった。
そして。
自分以外の女の子が恭平の周りにいると聞いて、落ち着かなくなった。
恋愛絡みで悩んでいるなんて、知りたくなかった。
二度と会えなくなるかもしれないと思うと、心の奥が引き裂かれるように痛かった。
これは、きっと。
「……やれば、いいんでしょうが!」
勇気がなくて着ることもできず、ただ眺めるだけだった服を取り出す。薄紅色のブラウスにレースの裾が可愛らしい白いスカート。胸元にあるリボンを結んで、大きく深呼吸をする。
緊張で震える足をなんとか動かして、春花はゆっくりと階段を下りる。リビングをそっと覗くと、恭平の後ろ頭が目に入った。
「恭平先輩」
くるりと恭平が振り返る。すぐそばに立っている春花と目が合うと、少し気まずそうに身動ぎをした。春花は大きく跳ねる心臓を落ち着かせるように、小さく息を吐いた。
そして、しっかりと恭平の目を見つめて言い放つ。
「私、恭平先輩のことが好きです!」
恭平が目を丸くして、ぽかんと口を開けた。それから間もなく、頬が赤く染まる。目があちこち泳ぎ始めたかと思うと、手が意味もなく上へ下へと動く。
「別に、付き合いたいとか彼女になりたいとか、そういう高望みはしません。だから、好きでいてもいいですか?」
今の春花に出せる精一杯の勇気を振り絞って言葉を紡ぐ。油断するとすぐに下を向いてしまいそうだったので、スカートの裾をぎゅっと握って耐えた。ただ、真っ直ぐ、恭平を見つめ続けながら、その答えを待った。
一方の恭平はというと、右手で口を覆うようにして目を逸らした。その顔はたぶん、春花よりも赤い。よく見ると、耳まで真っ赤になっている。
時折、何かを言おうとする。しかし、言葉にならないのか、左手を握ったり開いたりと忙しない。おまけに足も落ち着きなく揺れている。
「何だ恭平、便所か?」
今まで何も言わず静観していた幸太が、呆れたように声をかけた。恭平が焦ったように何度も首を振る。
「ん? 何その反応。ああ、春花の気持ちは受け入れられないってことか?」
「違う! そうじゃなくて、これは、その、だから……」
だんだん小さくなる声。春花は挙動不審になってしまっている恭平の目の前に移動し、じっと目を合わせる。
「ちゃんと恭平先輩の気持ち、教えてください。そうじゃなきゃ、諦めることもできないです」
真正面から向き合う春花の視線に耐えられず、恭平は真っ赤な顔のまま俯いた。そして、絞り出すような声で言う。
「これ……夢かな」
「は?」
「春花ちゃんが、僕を好きとか……嬉しすぎる……」
まるで夢見心地のような吐息をしながら、恭平が笑った。
「え? 恭平先輩は恋愛絡みで落ち込んでるんじゃないんですか? 何ですか、その反応?」
恭平は誰か好きな人がいて、その人と上手くいかないことに悩んでいたのではないのだろうか。春花の告白程度で紛れるような悩みだったのだろうか。振られるつもりで告白した春花は、予想外の反応にたじろぐ。
そんな二人の様子を眺めながら、幸太が嘆息する。
「こいつ、春花のことが好きなくせに告白もできないとかうじうじしてたんだよ。だから、春花の方から告白させてみた」
「え、待って。兄ちゃん、振られろって言ったじゃん」
「ははは。良かったな、両想い!」
要するに、恭平の悩みは春花に告白する勇気がないということだったらしい。春花は兄の思い通りに動かされてしまったようだ。なんか悔しい。
幸太ははじめから、春花の告白が上手くいくと知っていて、その上で振られろと意地悪を言ったのだ。
でも、そんな意地悪な兄がいなければ、春花は自分の気持ちに気付かなかっただろう。そもそも恭平にも出逢えていなかった。
へらへら笑う幸太を何とも言えない気持ちで睨む春花の頭に、ぽんと温かな手が乗った。
「あまり幸太を怒らないであげて。きっと、僕たちのことが心配だっただけなんだ」
「……恭平先輩がそう言うなら」
頬を膨らませて、渋々答えた春花に、恭平は優しく微笑んだ。
それから数日後。
春花と恭平の想いが通じ合ってから初めて顔を合わせる日のこと。
「だから、何で女装してるの」
今回はまるでアイドルが着ているような華やかな衣装で、恭平は現れた。だんだん派手になってきている気がするが、気のせいだと思いたい。
「女装じゃないと家に入れないって幸太が言うから」
「ちょっと兄ちゃん、どういうつもり?」
テーブルにばんと手をついて、春花が幸太を問い詰めようとする。しかし、幸太は動じることなくニヤニヤ笑いながら、人差し指を軽く振る。
「そんな簡単にお付き合いなんてさせる訳ないだろ?」
「もう、兄ちゃん!」
今日も賑やかな兄妹のやり取りを眺めながら、恭平は幸せそうに笑う。そして、そんな恭平の笑顔を見て、春花もまた同じように笑うのだった。
その日の夜、皆が寝静まった頃。
キッチンに一人で幸太は立っていた。
その手には温かいはちみつミルク。
「まだまだ手がかかる妹だと思ってたんだけどな……」
ふっと自嘲気味に息を吐き、はちみつミルクを一口飲む。
「さて、次はどんな邪魔をしようかな?」
誤字報告、ありがとうございます!
助かりました♪
兄・幸太の恋物語も書いています。
『冷めない熱とはちみつミルク』という作品です。
下にあるバナーから読みにいけるので、よかったらどうぞ♪




