第2話
「また女装してる」
学校から帰ってきたばかりの春花は、兄・幸太と話している客を目にして呟いた。
「お帰りなさい、春花ちゃん」
白いブラウスに、ピンクのフリルスカート。ふわりと編み込まれた濃い茶色の髪は、レースのリボンで飾られている。一見、可憐な少女にしか見えないその客は、春花の兄の友人でれっきとした男性である。春花ににっこりと笑いかけてきた。
しかし、似合う。着こなしている。
「兄ちゃん、何でまた恭平先輩がこんな格好してるの?」
「クラスの有志が金を出し合って、この服買ってきたんだよ。それで」
「兄ちゃんのクラス、おかしくない?」
春花の呆れた顔を見て、兄・幸太は明るく笑う。
リビングのテーブルには、紅茶の入ったカップが二つ並んでいた。幸太とその友人・恭平は、紅茶を飲みながら談笑でもしていたらしい。
「まあ、ごゆっくり」
先日、過剰な女の子扱いをされたため、なんとなく恭平の顔を見るのが恥ずかしくなった春花は、さっさと自室へ引き上げることにした。
「待って、春花ちゃん」
可憐な少女姿の恭平が、去ろうとする春花の手を取る。
「この服、僕より春花ちゃんの方が似合うと思うんだよね。着てみない?」
「嫌です」
即答した。
「私、同じ失敗は繰り返さないタイプなので。もうその手には乗りませんよ」
わざと冷たい口調で言い放つ。女の子扱いされたことが嬉しかったのは間違いない。意地悪な兄から守ってくれたことにも感謝はしている。
しかし、その後真っ赤になった顔がなかなか戻らなくて、結局兄にからかわれたのだ。春花にとってそれは繰り返したくない苦い失敗のひとつとなった。
恭平の反応を見もせずに、さっさと階段を上る。自室のドアを閉めて漸く一人になると、春花は小さく息を吐いた。しばらくそのままぼんやり天井を見上げる。
「別に減るものでもないんだし、着てやればいいのに」
ドア越しに兄の声がした。
「私の精神力が減る」
「今度のお前の誕生日、ケーキのイチゴ……全部食い尽くしてやるぞ」
春花はぐっと拳を握り締める。そういえばいつか、たこ焼きの中のタコだけ、全て食べられたことがある。兄・幸太という男は、やると決めたら必ずやる奴である。タコなしのたこ焼きを涙目で食べた幼い日の記憶が春花を苦しめる。
「……着ればいいんでしょうが!」
恭平が先程まで身にまとっていた服が、春花の手元にやってくる。やはり、温もりがかすかに残っている気がする。制服を脱いでその服に袖を通すと、どこからか石鹸の香りが漂ってきた。
これは服の匂いなのか、それとも。
春花は勢いよく首を振って、余計な考えを吹き飛ばした。フリルのスカートは思ったより短い。こんな服を着た自分は自分ではない気がしてくる。
「着たよ。もういいよね!」
さっとリビングに顔を出し、春花は即座に踵を返す。兄はもちろんのこと、恭平にもあまり自分の姿を見せたくなかった。またかわいいなんて言われた日には、顔色が戻らない危険にさらされる。
そんな春花の肩を幸太が掴む。
「痛い痛い! 兄ちゃん、無駄に強い握力をここで使わない!」
「まあ座れ。そして、恭平に見てもらえ」
「嫌! ……本気で痛いってば!」
肩の痛みに耐えられず、渋々ソファに座ったが、やはり落ち着かない。目の前で優しく微笑む恭平と目を合わせることすらできず、春花の目線は泳いでばかりだ。
今回は自分の着替えもちゃんと準備してきたらしく、恭平は普通の男子高校生の服装になっていた。
「春花ちゃん、ちょっと髪に触れるけど、いいかな?」
「え?」
返事をする前に、後ろから髪に触れられる。肩にかかるか、かからないかくらいの長さの春花の髪を、恭平は優しい手つきで撫でる。それから、手ぐしで軽く梳かした後、器用に編み込み始める。
時々、春花の耳に恭平の指が当たって、そのたび声をあげそうになった。
編み込みが終わると、ウィッグにつけていたレースのリボンを結ぶ。
「できたよ」
後ろからのぞき込まれるようにされて、恭平と目が合う。
熱い。
春花は耳まで真っ赤にして俯いた。
「さて、そろそろ帰らないと。またね、春花ちゃん」
恭平が鞄を手に取って、帰る準備を始める。真っ赤なまま動けない春花を見て軽く笑うと、幸太と共に玄関へ向かう。
「あんなに……真っ赤になって。固まってっ……くくっ! かわ、いいね、春花、ちゃん」
「笑いすぎてまともに喋れてないぞ、恭平」
「く、ふふっ」
妙に機嫌のよい恭平の背中を軽く叩いて、幸太は眉を顰めたのだった。
そんな風に恭平に振り回されること数回。
女の子らしいものを身に着けても、兄がもうからかってこないことに気付く。
もともとかわいい服や小物が嫌いな訳ではない。できることなら春花だって、普通の女の子らしく着飾ってみたいと思っていた。
少しずつ、髪の毛を気にしてみたり、店で女の子らしい服を買ってみたりした。仲の良い友達と一緒に服を選ぶのは初めての体験で、緊張もしたが、すごく楽しかった。
恭平が春花にくれた甘い言葉は、春花にとって大事なお守りのようになっていた。それでもまだ勇気がなくて、買った服を身に着けることまではできなかった。その服を見ているだけでも不思議と心が温まるので、それだけで満足だった。
しかし、そんな温かな日々は兄の一言によって崩壊する。
「あいつ、モテるぞ」
「え?」
花の飾りのついたヘアゴムを伸ばしたり縮めたりしながら眺めていた春花は、兄の方へ目線を向ける。幸太はソファにだらしなく座りながら、リモコンでテレビのチャンネルを意味もなく変えていた。
「今さら女らしくしても無駄だろうな。恭平を待ち伏せしてる女子とか珍しくないぞ」
「……何が言いたいの?」
「さてね。でも、あいつの周りにいる女子のレベルは高いからな。すぐに彼女とかできそうな感じ」
「別に私、恭平先輩のこと何とも思ってないし!」
ぱちんと音がして、手に持っていたヘアゴムが飛んだ。それに目もくれず、春花は自室へ逃げ込んだ。勢いよく閉めたドアは思ったより大きな音を立て、黄緑色のカーテンが小さく揺れた。
恭平はただの兄の友人。春花の方から会おうとしたことなんて一度もない。恭平だって、幸太の誘いがなければ家に来ることもないのだろう。来るたび女の格好をしているのだって、春花のことを何とも思っていないからに決まっている。
それくらい、分かっている。
きっと恭平は好きな女の子の前では女装なんてしない。女装は恭平の趣味という訳ではないのだから。
「別に、好きじゃないし」
ぽつんと呟いて、床にぺたんと座り込む。胸の奥がズキンと痛んだ。ベッドの上に置いてある目覚まし時計の秒針が一定のリズムを刻むのを耳にしながら、春花はただ涙が出ないように唇を噛んだ。
そんなことがあった二日後のこと。
学校から帰ってきた春花を出迎えたのは、今まで通り何の変わりもない様子の恭平と幸太だった。
「春花ちゃん、おかえり」
「……」
相変わらずの女装姿である。春花は冷たくその姿を一瞥して、視線を逸らす。そして、無言のまま階段を上り、自室へ籠もる。
どんなに温かな笑顔を向けられても。
どんなに優しい言葉を投げかけられても。
今はただ、苦しいだけ。
その日から春花は兄が何をしてきても、恭平と関わるのは止めた。そして、恭平が去った後、一人ではちみつミルクを飲むようになった。
はちみつミルクは、飲むと元気が出る。今までずっとそうだった。それなのに、何杯飲んでも春花の心は沈んだままだ。どうして元気が出ないのか、春花には分からなかった。
ポケットの中の携帯から、メールが届いた音がした。
『牛乳とはちみつ、買ってこい』
兄からの簡素な命令文にため息をつき、春花は携帯をしまう。
あの時もこんな感じだった。学校からの帰り道にメールが来て、スーパーに寄った。同じように牛乳とはちみつを買った。まさかあんな出逢いがあるとも知らずに。
買った牛乳とはちみつが入った袋を鞄と一緒に持って、スーパーから出る。すると、目の前に立ちふさがるように、誰かが現れた。
「久しぶり、春花ちゃん」
それは春花が避け続けていた人だった。