第1話
ポケットの中の携帯から、メールが届いた音がした。
『牛乳とはちみつ、急いで買ってこい』
そこには簡素な命令文。高校生の兄から送られてきたものだ。春花はため息をひとつついた後、近所のスーパーへと足を運んだ。
学校帰りに寄り道をするのはあまり好きではないが、兄の言うことを聞かなければ、それはそれで面倒臭いことになる。今までの経験上、そう思った。
牛乳とはちみつを買い、急いで家に帰る。牛乳を冷蔵庫に入れようとキッチンに足を踏み入れた春花は、隣のリビングに見知らぬ人がいることに気が付いた。
サラサラ流れる長い黒髪。潤んだつぶらな瞳。
白のカーディガンにピンクのワンピースがとてもよく似合っているその人は、兄・幸太と向かい合うようにしてソファに座っていた。
今まで女の影なんてなかった兄に、やっとそういう人が現れたのか。ぽかんと口を開けて停止した春花に、幸太が声をかけてくる。
「おかえり春花。遅かったな」
「兄ちゃん、誰その人? 常に上から目線の性格ひねくれてる兄ちゃんに彼女とかできるわけないよね? 脅して連れてきたとか?」
「失礼な妹だな! 俺は女性には優しくする主義だ」
軽く始まってしまった兄妹げんかを前に、ソファに座った客はきょとんとしている。
「ああ、紹介するよ。これは俺の妹、一之瀬春花、中学3年生。見てのとおり、女らしさのかけらもない猛獣」
「ちょっと兄ちゃん」
「で、こっちは俺のクラスメイトの天宮」
「……は?」
思わず変な声が出た。
「いやいや、兄ちゃん! 兄ちゃん行ってるの男子高でしょうが。クラスメイトに女の子なんているはずないでしょ」
「男だし。天宮恭平」
「は?」
ピンクのワンピースの裾をきゅっと握りしめて俯く姿は、どう見ても可憐な少女のものとしか思えない。兄はとうとう頭がおかしくなったのか。
「えっと、あの」
今まで一言も話さなかった客は、遠慮がちに声を出した。
「クラスで女装しろってからかわれて……断れなくて。幸太が、その、助けてくれて」
その声は確かに男の声だった。でも、男にしては少し高めの声なので、たいして違和感がないところが恐い。
幸太が突っ立ったままの春花の手から、牛乳とはちみつを奪う。そのまま手際よく温めて、マグカップにはちみつミルクを注いだ。ふんわりと優しい香りが部屋に広がる。
「うちは元気がないときは、いつもこれ飲むんだ」
恭平の前にマグカップを置く。恭平はマグカップを見つめたまま、小さく鼻をすすった。
「そうそう。私もこれ飲むと元気出ます! 飲んで飲んで!」
どうふるまったらいいのかよくわからないまま、春花はわざと明るく言った。
しかし、ピンクのワンピースが似合うのがうらやましい。春花は女の子らしい格好は何となく苦手で、私服はボーイッシュなものが多い。スカートをはくのも制服くらいなものである。女なのに、スカートをはいたら女装だとからかわれた苦い記憶が甦る。
「でも、恭平先輩はそういう服も似合っちゃうんですね。私は似合わないからちょっとうらやましいです!」
「へ? いや、僕よりも春花ちゃんの方が似合うと思うよ? 女の子だし」
女の子、と言われて、思わず頬が赤くなる。
「いや、本当に似合わないんですって!」
「似合うよ、きっと」
「女らしくないのは自覚してるんで! 女なのに女装とか言われるんで!」
「誰が言うの、そんなこと」
ふと真剣な空気がはりつめる。恭平は真っ直ぐ春花の目を見つめている。
熱い。
体温が上がって、心臓がばくばく鳴っているのが分かる。
「お前ら何言い合いしてんだ? とりあえず恭平、俺の服貸すから着替えろ」
幸太が空気を読まず、着替えの服を放り投げた。春花は慌てて自分の部屋へと逃げ帰った。さすがに目の前で着替えられるのは恥ずかしい。兄の着替えなら鼻歌を歌いながらでも眺められるけど。
しばらくすると、部屋のドアがノックされた。この遠慮のない叩き方は幸太だ。
「春花、これ」
幸太が持っているのは白のカーディガンにピンクのワンピース。つい先程まで、恭平が身にまとっていたもの。
「着てみろ」
「やだ」
「漫画貸してやらないぞ」
「……着ればいいんでしょうが!」
ニヤニヤ意地悪く笑う兄の背中を押し出して、ドアを閉める。人の弱みを握っては自分の思い通りにしようとする兄。本当に腹が立つ存在だ。
制服を脱いで、さっさとワンピースに袖を通す。カーディガンもさっさと羽織る。
これで満足か、兄よ。
ふんっと鼻息荒く腕を組み、ふと気付く。
「これ、さっきまで恭平先輩が着てた……」
温もりがかすかに残っている気がする。体の奥の方がムズムズしてくる。
熱い。
さっき恭平に見つめられた時も熱かったが、今はそれ以上に熱い。
「おーい、春花。まだ?」
のんきな兄の声が聞こえてきて、春花は地団駄を踏みたくなってきた。もうやけっぱちになって、幸太と恭平の待つリビングに踏み込んだ。
「兄ちゃんよ、これで満足か!」
「ははは。やっぱ春花には似合わないな! 恭平より女装っぽいわ」
「やかましい!」
似合わないと自覚していたとはいえ、こういう扱いは納得がいかない。ギリギリと奥歯を噛みしめながら、幸太を睨む。泣いてしまいたい。
「何言ってるの幸太。すごく似合ってるじゃない」
思わぬ方向から、思わぬ言葉が飛び出した。そこにいたのは、幸太の服を着た、中性的な顔をした美少年だった。長い黒髪はウィッグだったらしい。毛の束が机の上に乗っている。
「うん、思った通り、すごくかわいい」
「いや待て恭平。こいつは猛獣……」
「幸太?」
冷ややかな声がリビングに響き渡る。幸太と春花は兄妹そろってビクリと体を揺らす。穏やかそうに見えた恭平にここまで恐怖を覚えるなんて想定外だ。恭平はしばらく幸太に冷たい視線を向け、それからゆっくり春花に向き直った。
「春花ちゃん」
「ひゃい!」
恐怖に身を縮ませていたからか、変な返事になってしまった。
「そういう女の子らしい服装、本当によく似合ってる。女装とかからかう奴がいたら僕が守ってあげる。だから、自分には似合わないとか言ったらダメだよ」
恭平の言葉は、すとんと春花の中に落ちてきた。
女なのに女装だとからかってきたのは今も昔も兄の幸太である。実際、今日もいつも通りからかってきた。
でも今日は。
恭平が守ってくれた。
「恭平先輩って……見た目と違って意外と男らしいんですね」
「かわいい女の子の前では格好つけたくなるんだよ」
照れくさそうに頭をかきながら、恭平がふわりと笑う。その笑顔が眩しくて、春花の頬は真っ赤に染まった。
日が暮れて、だんだん暗くなってきた。帰る恭平を見送るため、玄関までやって来た幸太はひとつ、ため息をつく。
「うちの妹、ずっと顔真っ赤だったんだけど」
「女の子扱いされるの慣れてないんだね。意地悪ばかりしてたら、そのうち本気で嫌われるんじゃない?」
「それは嫌だな」
眉を顰める幸太に、恭平は意味ありげに微笑む。
「今日は女装なんてさせられて地獄のような気分だったけど、結果としては良かったかな。春花ちゃんの反応、いちいちかわいいよね」
「待て、待つんだ恭平。早まるな」
「次に会うの、本当楽しみ」
「恭平!」