ときめきと戦慄
違う。
二人を応援する気持ちに嘘偽りはない。だけれども違うのだ。今まで通り、何も変わらない関係を望むのならば、私の行動は間違っている。
顔を上げて、いつだって涼しい山中くんの顔を見つめた。
「ううん。その気持ちに嘘はついてない。私は後悔しているの、明日香に本当のことを、私も片桐くんを好きだということを言わなかった弱い自分を」
そう。本当のことすら言えないのは今まで通りの関係ではない。嘘を突き通して仲良しを演じていくのだとしたら、私は明日香を親友と呼ぶ資格すらない。
「ならば告白すればいいじゃないか」
「え、ええっ? いや、それはできないよ。二人はもう付き合ってるのに、ましてや当人から直接教えてもらったのに」
山中くんの唐突な提案に私は情けなく慌てふためく。
そんな、告白って! いくら何でもそれは……。
「片桐にじゃない、橘にだ」
「明日香に?」
「ああ、成瀬の言うことを聞く限り、苦しめているのは橘に本当のことを伝えられていないことなのだろう? ならば自分の中に仕舞い込んだ気持ちを橘に告白すればいいんじゃないか?」
勘違いしてしまったことが情けない。だけど、うん……山中くんの言うことはいつも真っ直ぐで飾りだてなくて、その分、今何をすべきかを指し示してくれる。
「そうだよね。明日香も私を信頼して言ってくれたんだから、私だって本当の気持ちをちゃんと話さないとね。ありがとう。山中くん」
「感謝される事でもない」
「なんか、山中くんにはいつも話を聞いてもらっちゃってるね。前回もそうだったけど、今回も気持ちを凄く楽にしてもらったわ」
「そうか」
でた。山中くんの『そうか』が。その口癖に気持ちが和むのを感じつつ、私は山中くんに一番聞いてみたかったことを頭の中に思い浮かべた。
「山中くんはどう? 誰か気になる子はできた?」
以前に話した時は『好き』がわからないと言っていた山中くん。だけど、あれから約一月が経ち、子猫も飼っている山中くんは『好き』を少なからず経験しているんじゃないだろうか?
私は妙な期待を膨らませ、山中くんの答えを待つ。
「いや、成瀬が言っていた胸の温かさも苦しさも感じていないな」
「そっか……。でも、好きな人ってつくるものじゃなくて自然とできるものだから。焦ることもないし、山中くんにはいつかきっと素敵な人が現れると思うな」
「俺は焦っていないぞ?」
「あ、ごめんなさい。私が勝手に暴走しちゃっただけか」
山中くんの答えを少し残念に思いつつ、私は務めて明るく振る舞ったが、逆に山中くんの冷静なツッコミを受けた。舞い上がっていた自分が恥ずかしく、頬が熱くなる。
「ただ」
山中くんの瞳が私の瞳を捉えた。
「以前にここで話した時とその帰り道、そして今さっきと、成瀬の俺に向けられた笑顔を見た時、ほんの僅かだが胸に熱を帯びるのを感じたんだ」
言っている意味が理解できず、私は小首を傾げ山中くんの口元を見つめる。
「これが成瀬の言う好きなのだろうか?」
静寂。
直後ドッドッドッドと、急激に私の心臓が早鐘の様に慌しくなる。
え? 何? 山中くんは今何を言ったの? 聞こえた通りの意味なの?
好きと言われたわけじゃない。だけど、俺は成瀬が好きなのか? そう質問されたようなものだった。直ぐに何かを言おうとしたが、なかなか言葉が出てこない。
「え? あ、いや、それは……私なんか……違うんじゃないかな?」
「そうか。これは違うんだな」
言葉にしてから、しまったと思う。山中くんがもしかしたら好きを感じたかもしれないその感覚を、私が否定してしまった。
納得してしまった山中くんに何か言いたくて言葉を探すけど出てこない。
山中くんが立ち上がる。
「帰らないのか?」
それが好きの、恋の始まりかもしれないね。と、言ってあげたい気持ちと言えない気持ちが私の中でぶつかり合う。山中くんの言葉の対象が私でなければ、間違いなく言葉にして応援していた。だけど私は「うん……帰る」と、直前の質問に同意することしかできなかった。
おかしな感情が胸の中をマーブル上に渦巻く。山中くんへの申し訳無さと、山中くんを急激に異性として意識してしまう似つかぬ思い。
今からでもまだ間に合うかな? 冗談めかして肯定し直すことできないかな?
「えっ!? や、やま……むぐっ!」
突然山中くんの胸へと抱き寄せられ、私はパニック寸前に陥った。声を上げてしまいそうだったが、口には山中くんの掌が当てられ塞がれている。
私は半端無意識に身をよじる抵抗を試みたが、山中くんの力強い抱擁にあっさり制されてしまった。大人しく体を強張らせ固まっていると、ややあって山中くんが力を緩め、体に自由が戻る。
「当直の教員だろう。大丈夫か?」
「う、うん……大丈夫」
言われて耳を澄ますと、確かに上の階を歩く足音が聞こえた。私は無音状態の校内に響く足音すら聞き取れないほど呆然としていたらしい。
だけど、今はそんなことより山中くんに抱きしめられたことが、少し冷たいしなやかで大きな手が顔に触れていたことが、私の胸をドキドキさせていた。抱きしめられた際の山中くんの香りはとてもいい匂いがした。
私、どうしちゃったの? 頭がボーッとして思考が纏まらない……。
気がつけば外に出ていた。正門を抜け丘を下りながら、落ち着くよう自分に言い聞かせる。
幸い冷たすぎる外気が火照った体と脳を冷ましてくれて、なんとか我を取り戻した。
「あの、山中くん、ハンカチ汚れちゃったから洗って返すね」
「いや、返さなくていい」
「え?」
「またいつ泣くかわからないだろう? その時にまた使うといい」
山中くんにその気はないのだろうけど、泣き虫のレッテルを貼られてしまったようで、なんだか嫌だった。
「私、山中くんの中ですっかり泣き虫が定着しちゃったね。もう泣かないから洗って返すね」
汚名を返上する為泣かないことと洗って返すことを約束する。それについて山中くんは何も言わなかった。
「送って行こう」
「ううん、今日は大丈夫、ありがとう。山中くんが早く帰らないと猫ちゃんが寂しがるわ」
送ってくれるという言葉に胸がときめいた。だが、遠慮する。猫ちゃんが寂しがっているというのは本当は建前で、今は一人になって気持ちを落ち着けた方がよさそうだと思ったのだ。
このまま一緒にいたらどうにかなってしまいそうだった。
「猫が寂しがる? そうなのか?」
「もちろん! 猫ちゃんだって山中くんが大好きなはずだよ。きっと今も帰ってくるのを心待ちにしてるわ」
「いつもだいたい寝ているが」
「猫ちゃんは寝るのが仕事だからね」
ほのぼのとした会話に胸が温まる。一度熱を帯びてしまった私の胸は、山中くんのちょっとした優しさを垣間見るだけで温度を上げてしまう。
「俺がこれから殺すとしてもか?」
「え?」
さながら液体窒素に沈められたかのように、私の胸は一瞬で凍りついた。




