二人だけの……
その日は突然やって来た。いや、予想はしていた。いつかそんな日が来るだろうって……。
冬の寒い日、動植物たちの生きる底力を、逞しく根を張る力強さを肌で感じるような、凍れるほどに寒い日。
◇◆◇
「詩織、大事な話があるの」
私のことを正面から見据える明日香の表情はいつになく真剣なものだった。黒くて艷やかな髪の毛を背中まで伸ばし、はっきりと引かれた弓のように美しく歪曲した眉、その下の意志の強そうな真っ直ぐな瞳。同い年なのに私より遥かに大人びて、美人な明日香。
普段は里奈と一緒に剽軽な振る舞いをする事が多い明日香だが、今の真剣な表情をしている方がもともとクールで大人びた顔立ちゆえ似合っている気がした。
「どうしたの? 改まって」
この時点で、私はもう察していた。察していたからこそ極力朗らかな表情を心掛け、明日香が気負わなくていいようにと普段通りを貫く。
「詩織にも言ってなかったんだけど私、実は片桐くんのことが……好きだったの」
もちろん知っていた。小学校からの一番の親友なのだから明日香に変化があればすぐにわかる。片桐くんのことを目で追っていて、話す時には頬を赤らめて嬉しそうにしていること。そこから明日香は片桐くんのことが好きなんだと導き出すのは簡単な方程式だった。
「それでね……実は私、昨日片桐くんに告白したの。それで、彼と付き合うことになったの。秘密にしていて、ごめんなさい」
意を決していたのだろう、明日香は表情を崩さぬまま告白した。しかし、最後謝るときには目を伏せて私に頭を下げた。
覚悟はしていたが、それでもやはり鈍器で頭を殴られるような衝撃は走る。でも大丈夫。わかっていたこと、わかっていたことだから。
「顔を上げて明日香。知っていたわ。明日香が片桐くんを好きだってこと。それになんで私に謝る必要があるの?」私は敢えて戯けて言った。
明日香が顔を上げる。その表情はどこか緊張したような、申し訳無さを湛えたような、そんな顔だった。
「おめでとう、明日香。明日香が幸せなら私もとっても嬉しい」
私は祝福した。そう、心から。私だけが押し潰せば済むのだから。明日香は知らない、私も片桐くんのことが好きだってことを。だからこそ、私だけがこの想いを封印すればいい。そうすれば、明日香と片桐くんも、私と明日香も、これまでと何も変わらないままでいられる。
大切なものは、何も壊れない。
明日香はようやく笑みを浮かべた。しかしその笑顔はまだ哀しげで、何かを憂いているようなそんな笑顔だった。
「詩織、何があっても私と詩織はずっと仲良しだよね?」
「もちろん、明日香は昔からずっと、私にとって一番の友達だよ」
◆◇◆◇◆◇◆◇
「また泣いているのか?」
突然の声に私の心臓は喉の後ろまでジャンプした。狼狽した私は声がした方に咄嗟に振り返る。
歩み寄る学生服を着た長身の男子生徒。そのシルエットもそうだが、私を呼んだ静かで感情を含まないその声も聞き覚えがあった。私が座る窓際の席、そこの斜め前に座った彼の顔を窓から差し込む月明かりが照らす。
「や、山中くん……」
「今日はどうして泣いているんだ?」
「え、あっ、何でもないの」
「そうは見えないが」
「本当に何でもないの。今回は……」
流石に今日の出来事は言えない。私は強く何でもないことを主張したが、不意に藤色のハンカチが私の前に差し出された。私の言葉の間隙を縫うわけでもなく、ただ無造作に差し出されただけのその行為に私は言葉を飲み込む。
「使うか?」
言葉はたったこれだけ。だけど、その多くを語らず飾りだてない山中くんの優しさが、今日も私には心地よかった。
「はい……ありがとうございます」
ああ、でも、私はなんて嫌な女なんだろう……。
「……いたんだ」
「え?」
「あの時と同じ」
山中くんが呟く。澱んだ感情が思考にへばり付いて、私は上の空になっていたことに気付く。おぼろげだが、私が何かを質問して、山中くんはそれに答えたんだと思う。だけど聞き取れたのは「あの時と同じ」という言葉だけ。一体何があの時と同じなのだろう?
考えるが、やはりすぐに暗い感情が頭と心を塗り潰してしまい、私は思わず顔を伏せた。
「なんか、私って嫌な女だね」
握っていたハンカチを目元に当てた。心地良いラベンダーの香りが鼻孔を突くが、今はその清々しさが恨めしい。
「泣いてばっかりで、こうして男の子に慰められて。なんか自分でも嫌だな。こんな女々しい女」
「女々しいとは主に男に対する不名誉な言葉だ。成瀬は女なのだから、女々しいのは自然といえる」
「そう……かもだけど、そうじゃなくて……」
「女々しいに他の意味があるのか?」
山中くんの言うことが正しいのだけど、少しだけ私の言うニュアンスとはズレていた。だけど、これも山中くんの不器用な感情ゆえの優しさだと思い、私は山中くんにお礼を述べる。
「今回も片桐と橘のことか」
放たれた言葉は正に図星だった。壊れたメトロノームのように、一定に保たれないリズムで心臓が打たれる。動悸を起こしそうになる胸を落ち着かせようと深く息を吸い、ゆっくり吐く。
「うん……明日香と片桐くん付き合うことになったんだって。明日香が今朝、教えてくれたの」
正直に打ち明ける私は前と同じ、気持ちの逃げ場所を求めたのかもしれない。山中くんにそれだけ言うのにも息切れを起こしそうになり、深呼吸を繰り返す。
「私は片桐くんのことが好きだけど、明日香のことも大好きだわ。だからそれを聞いたとき凄くびっくりしたけど、心から二人を祝福した」
口から息が漏れ出す。苦しい……。
「なのに、やっぱり私はこんなんで、二人を祝福してるのは本当のはずなのに、涙が溢れて、この気持ちも嘘なんじゃないかって、自分が嫌になって」
途切れ途切れに言葉を繋ぎ、視界は水面のように揺れている。熱い液体が零れ落ちるが、頬を伝う時には冷たい。受け取ったハンカチを強く目に押し当て、無理やり涙を押し留める。
涙が止まり、顔を上げた私の顔を見つめて山中くんが口を薄っすらと開いた。
「一体何がそんなに成瀬を苦しませるんだ?」
「え?」
山中くんの質問に思考が右往左往する。
「成瀬は二人を心から祝福していると言ったな。だが涙が溢れ出し、自己嫌悪に陥る。本当は二人が付き合ったことが悲しい、そういうことか?」
それは私に、私自身と向き合わせてくれる重要な質問だった。
今朝の事を思い出す。いつもの通学路、田んぼの畦道にお地蔵様が佇むその前での明日香との会話を。